連載は続く~ SF 掌編『桜舞い散るドラマ漬の日々』編


 ヒトもしぶとく生き物なので、呼吸に関わる循環がなんらか途絶えるような事態にでもならない限り、生きた状態を保とうと奮闘している。
 昨夜も残酷だけど今時の諜報と関わる公務系のごく一部門でこんなこととも関わってるタイプのシーン盛りだくさんの映画をBSで放送していて、それを見ることができた。
 US公務系のプロフェッショナルはたったの一撃でどうしょもない出血多量に誘う手法を瞬時に使いこなす。
 やられる方もプロフェッショナルだから一撃の強度次第ではいくらでも反抗してくる。
 そんなわけだから一撃が瞬時のショック状態を誘って一方のプロフェッショナルは反抗したくても体が動かない状態に陥ってしまう。
 けれども、その一撃は不可逆的な効果を生じさせるとは言え、今時のER担当諸氏がそこに装備とともにいたらひょっとしたら命を救えてしまえる状態かもしれない、と素人的には想像したくさせた。
 残念ながら、そこにそういう諸氏はいなくて、短時間のうちに失血からくる身心の状態を誘い、お亡くなりになったようだ。が、その亡くなった事態としての判断は、素人が勝手にできないことになっているのは、先の通り、ヒトは他の生き物達同様にしぶとく生きやすいからだ。
 同じ日に先日の名コンビが活躍する浅野光彦ドラマを見てしまった(ということで相変わらずドラマ漬けの日々が継続中らしい)。そこでは、死亡を宣告する光彦氏が映っていた。たとえ腐臭がしたとしても、死亡の判断はすべきでない、というのが、今時の常識と思えるが、介護仕事を少しでも経験していれば想像するまでもなく、そこらのニュアンスは伝わり易くなる。
 失血なら止血の努力を既知の持ち物の範囲で試みながら同時に専門筋の助けを緊急事態として求めることが欠かせない。
 息してない!で死んだことにするほど残酷な方での素朴さは今時において、ありえそうにない。そこらはかなり人々がマスメディアの映像を無駄にして来なかった。
 でも間違い過ぎのシーン映像を繰り返し繰り返し放送してしまうと、つい、それでいいんだな、と思い込ませてしまうことに通じ易い、ということもメディアの論として発信されてきた。そこらを踏まえられても、染み付いた方が身心を反応させてしまうことも事実だから、吸ったり吐いたりの体感し易い方の呼吸を確保する手立てもそれなりの知見として役立てられる。そこを勝手に死亡判断して何もしなければ、あやうい事態をより不可逆過程の方に近づかせてしまう。
 捜査からみの探偵ものドラマの場合、捜査とか調査としてどうなの?的な粗密を感じ取られるシーンもありうるけれど、そこらは直面するドラマの話の作りからしてという感じで、効果を持たせる様々と関わってきそうだから、一概に、粗雑かどうかの判断を持ち出してもしょうがなさそうだ。
 ただ配慮とか思考の行き届き方の描かれ方次第で、ヒトは的確に頼れそうかどうかの判断くらいはしているものだ。
 ドラマ作りのプロフェッショナルだからいつも緻密に作っていそうでいて、結構雑に仕立ててしまうことだって起こる。そちらに傾きすぎれば、より飽きられ易くなる。
 素人観点からすると、せっかく人情どうこうで登場人物たちの配慮の緻密を描いておいて、実は、勝手に他人の死を安易な方で判断しやすい人々が事件の解決に果敢に挑んでいるタイプの相当に悩ませるドラマが2000年代の初め頃までは量産されていたのでは・・と危惧している。危惧というのは大げさではなくて、常識形成の水準次第では、見るに耐えないドラマたち、という事態さえ素人想像できるから。折角役者諸氏が冴えを発揮してドラマを盛り立てているのに設計の不具合がすべてに影響して、ガッカリな結末、ということにさせかねない辺り。
 目の前に姿があって、だからぞんざいに扱わなければ、死んだなにかとして扱ってよい、というものではない、ことをヒトは知ることができるようになっている。
 救命のために必要な手法・知識の類を持ち合わせているかどうかは、実は自然災害多発の各地の住民にとっては生活上必要ななにかだったりする。そしてそこらを整理整頓的に持ち出しやすい世の中にもなっている。ただ啓蒙のワル面が出易い状況を作ると思い込みの既知の定型依存に片寄らせ易くして生々しい状況対応の応用力を結構失わせがちにする。
 普段うっかり社会学知見が指摘するようなオピニオンリーダータイプを育てていて、そういった人々が誤った指示を日ごろの権威に寄りかかって発信して誤誘導して小規模な絶滅に誘うなんてことは万が一の自然災害ではつい起こってしまうことだ。
 基本はだから、個々において日ごろから救命と関わる手法、知見を積み重ね、振り返り心身化できている状態でいられることが大切ということになる。
 そういうだれかたちがごく当たり前な世の中だったりすれば、ドラマの話とはいえ、こりゃいかんわぁ・・というタイプは見るに耐えなくなるだろうな・・という素人指摘もまんざらなことではないように察する。
 大量に人手不足になりがちな介護業界のことだから、シナリオとかドラマ作りの筋のところにも関わるような諸氏は介護業界ならば今現在ど素人の状態であっても歓迎して教育すら得られてかなりの現代の常識程度を身につけて、退職して再び本業に挑むことができそうだ。
 "振り"は練習とかコツの伝授でかなりの質を再演できるようになるかもしれないけれど、実質は行為の数々として露見してしまう。列島在住の一定以上のお年寄り諸氏はそこらを身につけてきた世代で、一応信じてくれる過程を拒まないとしても、追々、そのリアルな身心目線が厳しく判断してくる。
 そういう身心化伝承を世代間で可能にしづらくすると、部分部分のどれかを過剰にさせて成熟年齢に向かわせがちにする。
 疑っても一応信じてみて、要素として持っているかもしれない騙したい心理を実際には行使しないで、バランスよく仲良くなれる他人との関係に導いてしまう時間を持てる年寄り諸氏の身心と、疑って、疑われて心を病んで、ついワルの方に傾き勝ちにしてしまう、お互いにとっての親密さ交換の機会を失いがちにすることとは相当に質的な開きとして、指摘できそうに思える。
 壁を作って住み分ける方の発想と、濃密な交流もありの棲み分けの発想との違い程度のことばで通じてくれるかどうか。


 昔のローマの営みに関する考古や文献からの知見がかなり多くの新知見を得たりそれらが整理されたりしてきているらしいことを、文春新書の『シルクロードローマ帝国の興亡』(井上文則著 '21)で知った。
 欧米の学者・研究者・事情通諸氏が得意の分野と素人想像できるので、欧米のそれら諸氏にとっては既知どころか更に日進月歩の知見のまとまりとみなせそうだ。
 だから素人は安心して指摘したくなるのだけど、いつでも結果的に多を共存させてきた他の諸地域を拠点とする勢力のあり方とローマを担う主勢力のなんらかピュアな状態にしたがることで多を包み込みきれない発想上の問題を薄っすら感じ取っているところ。
 つい争って勢力分布の落ち着きを得やすいタイプの時代相からつい乱暴な、ですべてを抑えたくさせるけれど、時代相の問題は問題として、その後の多の包摂と、それを邪魔がるゆえに国々現象を生じて争いがおさまりにくいいつもにしがちにしてきた土地柄、というように比較できそうにさえ素人ゆえ思えてしまう。
 後者のローマを支えてきた主だった発想の方だと追々お互いの食い合いになって現生人類はごくわずかが細々と暮らすようにしか生き残れなくなってしまいそうだ。
 ところが同じローマにおいて、稼ぎを寄付してインフラ作りに貢献する風が持続してもいた。ただそれらが、利息生活を栄達の到達点にしていたような向きがあって、多の包摂を可能にしていた土地柄の発想と異にしている辺りにも気づかせてくれたと素人的には受けとめている。
 だから素人の読書現状からの暫定的な結論になるけれど、昔のローマの営みから学んだり真似たりを今現在に行使しているような超大国なりがありえたなら、それなりの現代ローマの営み学の知見をただちに振り返って反省的に応用できることが多分役立つのでは、と素人なりに指摘できそうに思えたりしている。

 敬語を使わずに、だれもがごいっしょの雰囲気にしましょうね。
 ドラマでこのセリフが出てきた時に、そうかいそうかいざっくばらんで、ってことだな、とか思い込んでしまえそうだ。
 ところが、生活力ということでは、年齢差を俯瞰できただけでもバラバラだし、同年齢層をざっくり見回しても、個々において過程の一段階としてのバラバラ性だけではなく、得手不得手のその先予想観からしても、バラバラでしかありえない。
 ヒトは生活力という動態相手に平等に生まれてくることはありえない。
 ヒトの集団の営みの力で、そこらの凸凹を補い合えて、集団の営みへと帰せることを生きながらお互いが学び身につけていき途中下車することが生き物のヒトタイプとして繰り返される。
 先の敬語を使わずの配慮が、過剰に使いすぎて実用的ではない、ということでなら判り易いけれど、相手をお互い様で尊重しあえる場合、程度問題にしろ丁寧語の類は相当に実用的な応用力を発揮し易いことは列島生活慣れした列島生まれでない諸氏でも経験されていることと察する。便利なのだ。
 ところが教条的に敬語を使う必要なしな発想は、そのご当地では、恐らく、皆平等だから、ということにする言い訳の一つに使ってそうだ。
 皆が同じで、そこから生活上成功するのもぼちぼちで成功するのも、時に失敗して没落するのも個々の責任だ、ということにするための便法に使われているように素人からは伺える。それでも集団の営みが食い合いに落とし込まれないのは、お互い様発想を決して失わない多数がいつでも生まれ育ってくれているからだろうな、くらいの想像もつく。


  川柳もどき

   人口が膨れ上がる事態は
   その先としてヒトにとっては
   未経験事項だ
   人口が今より少ない状態は経験済みだ
   経験してきたのは先達諸氏だ
   いつもそうだけど移行期をいかにやり過ごせるか
   は、ヒト、ヒトの集団の営みは実に下手をしがちにする
   なぜ?なんだろう
   きっとわかっていて、対処力を持つ諸氏が大勢各地にいるはずだ
   話を聞きたいものだ