連載は続く~ SF掌編『春の小川は田んぼの中も流れる』編


 今日この頃ともなるとテレビドラマのセリフからごく普通に、聞くことができることばも、土地柄、時期などが異なったりすると、通じるようで通じにくい言葉の類になっていたりする。
 たとえばサブカルチャーという概念を用いて近年史のように整理してくれたテレビの番組をNHKBSで見ることができるのだけど、家族の壊れ方とかその類の事象を列島版の近年史においてはあたかも『家族ゲーム』作品の示唆をにおわすことでおおまかには整理できるかのようにある種メディアを扱いなれた評論筋に語らせたり、編集映像にしてみたりしている。
 ここらはむしろ当時からそういうわかった風用の素材とみなす底流と流行りだからで聞きつつも流す風が一般だった辺りがまったくふれられずに指摘対象として目立つように用いられていた。
 今時の通用において、どうやら親の一年生が始まってやがて子育てしつつ親となっていく、という程度のコンセンサスは育っているようだ。
 初めから‟親‟性を身に着けていて、それを子の誕生と同時にただちに適用してみせる親たちとそれができない親たちタイプのステレオタイプ言葉運用とは相当異なる押さえ方を今は可能にしてしまっていると、素人なら見なしてみたくさせる。
 そんなことは昔からわかりきったことだろう!と腹では煮えくり返りながらマスメディア発信の担い手諸氏の準備のなさを憤る諸氏もひょっとしたらおられようが、それはまたちょっと走り過ぎだから注意した方がいいよ、と素人なら指摘できそうだ。
 図式としての家族崩壊タイプは、問題の押さえ方の入り組みを前提に慎重な扱いが要ると前置きして、学校教育にゆだねる時間幅の大きさの影響を無視した議論では、問題に近づかせないだろう程度のヒント発信をここではしておきたい。
 親の手を離れて、学校環境の先の入り組みに加えて子供たちの中での様々な関わり方が影響して、また学校環境での大人たちとの関係の錯綜(先生一人ひとりの人生とか人格とかの途上性とが濃厚に関わってもくる)、しかも、大前提としてある少し前の子供たちなら主にテレビやラジオやのマスメディア発信との関り、そして今時ならばインターネットメディア発信との関りがある種、濃い目の環境を構成しうる。
 そこに部分としての親が関わる、一応自然という風に指摘しておきたいが、親という位置は子に対して理屈でどうこう割り切るうんぬんかんぬんとはいかないなにがしを担いたくさせているはずで、その負荷に耐えてしかものタイプのいらっしゃれば、それはちょっともう耐えきれないかもで逃げを打つタイプもいらっしゃったりで、それはそれはのドラマ・小説の素材を提供し続けていただいているわけだろう。
 ある程度の知識の整理は可能な啓蒙社会に住んで、だけど親初心者として出発して、だけど初心者への配慮を欠く指摘も結構知ったかぶり系からに限らず発信されてストレスにもさらされやすかったりしながら、親の実際を体験的に身に着けて、一方で‟考える葦‟のヒトのことだから、個々なりに応用力も考え身に着けて大した親に育っていく。
 途中失敗して、まいってしまうタイプも少しいるからそこらを近代を目指す集団の営みは救い取って援助しながら自助の糧としてもらうような働きかけを組み込むようにしてきている。家庭は基本中の基本ということで、下手に介入しやすい環境にしてしまうことは避けているようだ。
 少し昔なら引っ込み思案ぽかったオンナ達が子育てする中で実にたくましく育った。
 人格的な育ちと並行する大人の人生だから、一面心身的"格闘"の場に晒(さら)される。子供たちにしてみれば、親は親を経験する以前の大人の特殊なありかただから、客観的には甘えの類だとしても依存系の様々を繰り出す相手としやすい。それを育ての必要の観点から制御する必要をごく初期から自覚できるのは親の位置にいたからだ。
 しかも相手となるのが自分だからそんなひまじゃないぞ、とばかりに、あしらい方くらいは学習してしまえる。それに慣れて多用しはじめれば子供の方もその手法を鏡的に学習して、まともに相手にしていない辺りに気づければ、それに負けてたまるか的な応用力も身に着けて更に巧み技で応じるようにもなる。そういうことが悪循環化しないで騙しているだけでもない辺りに気づかせる大人としての親の成長も促されていることに気づけたりして、もう少し自分も成長できるかなという頃には、子供たちは異性の方に関心が向きがちになって親なんかは目に入らなくなる。しかも親の方にとって残念なのは、その流れで親離れして立派に一人前の生活力を見に着けて、親を客観的に相手にするような気配さえ身に着けてしまうから、かつての混乱しつつも充実した時間はむしろ持てなくなってしまう。ボケてしまうかも、の時期の入口に当たる。
 ここまで一連の流れとしてことばにしてきた素人だからこそで、急展開。
 実は、親になるそれまでの子供たちは、親たち、大人たちの様々を地域社会、今時なら学校生活での膨大な他人たちから親っぽさのなんらかをずっと観察し続けていたわけだった。
 むしろ子供たちは新鮮に人々の為すさまざまを吸収し続けていたと見なせそうだ。
 ただだれでもそうだけど、いざわがこととなった時に具体的な手法としてのここでは親業のような事態に適用できてしまえるか、というとどの場合にどれを的な整合を瞬時くらいに適用させて他人からみればいい親やってるね、っぽい様はいきなりは無理な場合が多そうだ。
 だから前半でのコンセンサスにあたる内容については一面、実際を言い当ててそうに思えるが、けれどもの辺りは忘れない方がより実際の様に近づかせそうに素人老人からは思える。
 いつの時代も、子供たちはしっかり大人・親(そのほか膨大な事象について)を見て触ってことばをやりとりしてほかで知っている。心身化している。
 が生々しく環境は変化し続ける。
 子供たちにとってはどれが定型でそこにひとまず落とし込んでおくと、バランスをとりあえずは保ちやすい的な整理はできていない。さまざまを知りえれば知りえるほど実は引き出しから出して応用しようとした途端の混乱を誘いやすい。
 マスメディアの氾濫状況は、地域社会発のなんらかの定型のいくつかという選択肢程度の度合いを極端に拡大してしまう。逆に、マスメディアの性質から統制的に特定の定型のみが採用されるべきでのようなことになれば個々の生活事情を平均化した対処技に無理やり合わせての使い方を強いられやすくして、実際上の言うに言われぬ困難を人生に持ち込むことに直結させやすい。今時はさすが、そこらは踏まえられた発信だけど、どのアイデアが個別のケースにより適切かどうかが即判断できるわけないので、混乱を誘いやすい条件は似たり寄ったりで、ただ強制されていないとか言い換えれば無責任発信とかの状況を招きやすい。
 職住の在り方も前提に何を置いているのかの整理を近代化は以外に放置してきたので、今でも生活の形の落ち着きよりはコマーシャル利害での形提案を先行させがちにして、家庭の持続性のために役立つようにはなりきれていない。
 自由とか民主制とか市場とかのことばはどちらかというと国民国家という発明とその具体的営み上の責任を逃れるために用いられるような流れをいつの頃からかわざと生じさせてきた。
 だから構造としての整理をほとんどしないで為すがままの近代化でやってきている惰性の状態だ、と素人老人からはみなしたくさせる。

 子育ては大昔からヒトは立派にこなしてきた、と素人老人は指摘してみたい。
 むしろヒトが一方で周りを見て人生を彩ることと関わって、事態をつい複雑にさせがちと見る。
 衣食住と関わらせて子育てすることは、大都会での生活だろうが、先日NHKBSの番組が紹介してくれて実にためになった気にさせたラウテの人々の生活のあり方なども、リーダーの注意の仕方などこれまでの先住民生活態が失敗に誘われた辺りに感づいているのかそんな感じの考え方の持ち主であることの紹介もあったし、偶然の出会いの10年後の21になった女性のおしゃべりからは周りを見て距離を測るヒトならではの観念形成の辺りとそれゆえの心配事としての整理に向かうあたりなども知ることができた気にさせたのだが、わずか140人規模の集団の営みが移動して世代を継承し続けている生活であろうとも、それぞれの条件に応じて立派に世代を継承させてしまうのだ。
 ただリーダーが察知できても行政の方で、ばらまきタイプの保護策をおいしそうに適用して、飲んだくれ層を形成しやすくする条件をもたらしたりが、2020年代になって生じさせている。囲い込みタイプの策をヒトの営みはつい採用したくなるのか、といえば多分それは違う。多分、欧米発想の延長でのできごとのはずだ。どこかで学んで、これしかないと優等生たちが思い込んでいい事として使ってしまう出来事の一種だ。
 なにしろ、地元の人々は、昔からラウテの人々との付き合い方を知っていた(番組で10年前の様を紹介している)。
 シンプルさからして耐久性において持続的なのがラウテの人々の生活の形のように素人は受け止める(互助もしっかりできているし、個々のちょっとした勝手も可能のようだ)。そしてヒトの集団の営みである以上、これからも動的に発明や発見や工学的工夫が盛沢山の可能性を秘めさせている。
 スマホほかの媒体は魅力的だけど一過的だ。コンピュータ依存社会タイプの営みは、基本脆弱だ。本当に地表面規模での太陽からの嵐にあった場合、ひとたまりもないのだけど、それは無いことを前提の仕組みだ。一度起こるだけでも大変だけど、数十年とか百何十年後とかに起こる頻度なら、平和を達成したのにどうして?!と自問したくさせるほど、過酷な集団の営み状態に陥らせそうだ。
 同じ形に復旧させるだけでも膨大な費用(年月も含めて)をかけなければならなくなる。 幸い、当面はそういう事態を招きそうもない。だったら、で、文字、記号処理での知識操作を巧みにこなして、観測ほかの蓄積とも合わせてヒトにとってのこれまでとこれからについての知見整理の現代版はこれまでとは質量ともに隔絶しているくらいのことを目指そうと思えば可能性としては十分にありうる。
 その制約は、たとえば氷河期の氷期の最中を実体験するわけにはいかない時期的なことを踏まえて、けれども、知識整理整頓処理力に任せて、ある程度の漸近線を引けそうな辺りに期待を向けられること、という閣下搔痒感か。


 話はまったく別の方へ。
 車輪のこと。
 列島に古代ハイウェイが走った頃、もしも車輪も同時に導入されていれば、列島各地の鍛冶屋系の職人諸氏が活躍して、農業ほかに相当便利な道具を提供して、戦争にも使われやすいからそこは安心材料ばかりというわけにはいかなそうだけど、長い目で見れば、まったく列島史を書き換える別の流れを生じさせていたのでは、と、つい想像したくなるのが素人老人なわけです。
 車輪使用の世界史知見では、各地に紀元前の頃からしっかり使われている。
 スポーク状の力の吸収のさせ方まで工夫されて簡単には壊れない車輪が、ゴム製タイヤのクッション抜きにガッタンゴットンかガタンゴトンタイプか振動に慣れながら用いられる。
 列島版古代ハイウェイもひょっとしたら車輪を用いる予定ではなかったのだろうか?と問いかけたくなる。ないし、車輪使用の跡がしっかり残っているのを素人が知らないだけか。
 そこらの田舎道、九州や奈良のヒトや馬が移動する分には不都合がなくても車輪移動となれば、逆に走りにくくなるタイプの古代の道を使うくらいなら、河川を大量輸送や重たいもの輸送に使いたくさせると素人老人は想像する。
 何年か前のネット歴史知見発信において、行田の古墳と関わる素材の運搬や、大宮氷川神社の鉄との絡みでやはり素材運搬の都合などから河川の重みを示唆されていた。
 奈良でも移築はどこからの関心を残したまま他のことで議論を賑わせがちな斑鳩の土木建築や更に奥まった皇極・斉明期の土木建築など、超便利な河川交通が際立っている。
 九州についてももっと派手に発信してくれるようになりそうで(放送大学でも新版の古代中世史が始まるようだ)、一般に向けてけちらない考古、文献知見を公開してもらえそうだ。
 もしも車輪導入がなかったとか、あっても実用的応用が広まらなかったのなら、そこにはひょっとしたら素人が仮定してきたより遥かに少なくしか直接的中国由来の文物が7世紀の半ばの激動にはもたらされていなかった、と素人仮説の変更が必要になりそうな気配だ。
 ないし、列島事情をつまびらかにしない担い手諸氏が車輪を準備しなかったという仮定もありうるので、急ぎ過ぎることもなさそうだ。

 

  川柳もどき

   新川の入り口(流れ的には下流部)に
   たむろす中型の鯉たち
   そう昔からではなく、上って産卵までするようになりかかっている
   なりかかっている
   ずっとそうつづくのか
   わからない
   大雑把だけど巷の
   小河川は賑やかになる
   更に水田奥の用水には小鮒がいつも溢れる
   餌にする魚種がそこにいないからかもしれない
   ここらは空想