連載は続く~ SF掌編『ものごとを整理しておくときに作用させる断り書きの類』編


 (承前)・・・だから・・日本は外交文書がどうしても含ませる時期的要因として、倭国としてきたのに変えてまったく同一の平面を継承してというより変化を被(こうむ)って、(日本を)用いる決断が下された、と見た方が素人には無理が少ないと思案した。
 中国と半島との関係を継承し続けてきた脈であるしそれは少数派だったのだけど、でもずっと同一の脈が担ったということから倭と日本は同一と素人老人としては見なしたい。
 そして最終版の時期のリーダーである中大兄とか斉明を輩出し、その人脈はそれなりの半島脈との濃い付き合い方を継承してきた人々であって、しかも、遣唐使事業を推進していながら百済残党勢力とトンでもな挙動に出てしまうなど、一枚岩的とはいいにくい集団的なまとまりを匂わせる。
 そのなによりの証拠は残党勢力とともにの戦争に惨敗した後にもそのリーダー的位置を担わされ続けていることだ。
 ただ表向きの立場を公式外交文書に仕立てる際に相当に工夫の手が入った、それが壬申の乱とかその時期のもろもろだし、藤原京どまりで平城京へは移されなかった中大兄と斉明からみで作られた寺、ということになる。
 対外的には心配過剰の方で対応しつつ、内側の事情としては支持の厚い中大兄脈はそのまま温存された。
 そして中央集権化事業においてもそのまとめ役としての力量に期待された。
 ただし思いつき程度で中央集権化の長丁場を耐えきれるものではないから、設計・実務担当の官僚組織育てのための諸々をまとめる役は別の脈に委ねられる。
 ということで、日本人はこの時生まれたと見ることもできるし、倭国以来という言い方、見方も可能と見る。ただし倭国以来ということにしてしまうと、半島、中国との外交記憶を継承し続けてきたごく少数派に属すことを受け入れることが間接的に求められそうだ。
 だから同じ渡来系とはいえ倭国の外交記憶継承脈は全体から見れば変わり者たちだったはずだ。そして斉明~中大兄の時期の暴走が外交上不都合とならないよう国の域とか国の名とか国の構成とかを変化させて、一応、新参者(しんざんもの)ではないけれど、新たに出直すことにした日本名でいくことにした(と宣言)。
 この時の主流諸氏においてはユーラシアの広い世界こそが世界でありその世界相手の外交を担って対外的認知を試みた。その一環の中に文芸や歴史書が含まれるし、京のいくつかのように(役所組織一式を収める)首都を建設することも志(こころざ)された。
 ということで大イヴェント東大寺での行事を前提にできれば、日本的解釈の下、仏こそがその軸を支えていたと押さえておいて無理は少ない。
 ただ官製の一方通行性質を先走らせていた試行の時期だったゆえ、今においてはほとんどのその当時の中心的施設は、地面の下になって残っているのみだ。
 より土地と結びついた勢力の私財で作った造物は、形として残っていたりしている。
 ここらからも、各土地に住み着いてそこで試行錯誤している集団の営みは自発的ゆえに波乱万丈に巻き込まれたとしても頑丈に継続性を保てたりしてきた。しかも、中央集権化利害から時に強引に一本化のための力業を行使されて、リーダーのだれかが責任を取らされるタイプの土地の表向きリーダーの入れ替えなどは長年月をかけて列島各地で行われた。
 だからその軋轢は相当な事態を長期間に渡って繰り返されることになる。
 先住民に近いくらい古い時代の渡来系や途中の時期に渡来して列島各地に定住を試みた人々にとっては日本化の波は相当迷惑をばらまく一面を持つ。むしろ日本勢力の熱意は地方にとっては混乱の基となった可能性も指摘できそうだ。
 それでも列島の軸は仏で蚊取り線香発想だから、地元の乱暴発想込みのボス的振る舞いがこんがらかりを持ち込まなければ、それほど暴力沙汰に誘うようなことは多分避けえている(ここらは素人老人ゆえ歴史を見る目がおおあまだと指摘されそうだけど、底流には蚊取り線香発想が清流を形成して滔々と流れていたと見ている。ただし、どういう考えでの力とかからくり技の発揮か鮮明でない諸外国との大航海時代(これは列島発想の発明語と聴いている素人だけど適切と見なして用いる)以後のやりくりなどが絡んで、対応をより複雑にこんがらかる世に仕向けがちにしてしまう。そこらはずっと閉じた平和の不可能性とともに試行錯誤に挑むことになる)。
 乱暴狼藉しない限りでなんでも飲み込んでしまうような文化の営みを江戸期の頃まではなんとかかんとかこなしてきた。その後はある種単調化させた上での諸外国の流行を試行的に採り入れる方に熱心とみているのが、現状の素人老人観点。
 ごく少数に限られるタイプの利害が世の中の懸案として世論を分断するような事態を招くことは、少数の利害発信の主諸氏においても困った事態となるはずなので、そこらは列島試行錯誤史における江戸期の江戸の様を検証してみることがそれなりに実際的な答えに誘ってくれるのかもと素人は提案してみたい。
 ちょっと昔に戻ると、特殊扱いしていたらしいが、生活の中、巷に取り込んでいた様々な今でいう各種の障害の字を当てる症状を呈する諸氏との付き合い方だったことは、少し前に流行ったかもしれない歴史知見や文化人類学知見などが紹介していた、というのが素人の頼りない記憶なのだけど、もしそうであるなら、是非、そこらの昔の人々の懐の深さを学ぶと同時にそこでのぞんざいな扱いに使い分けがどうありえたかなどを探っておくことも将来の可能性とつなげられるかも、など素人老人は想起する。
 イランのキアロスタミ監督の作品『友達の家はどこ』でのエピソードも参考にできそうに思えたのでざっと紹介してみたい。
 小学校の授業を終えて帰宅した子供たちは、暇そうなら尚更、宿題したくても家事のなんらかを手伝わされていた。或いは、宿題してから今あなたがしたいとおもっていることをしなさい、と指図は硬直的に発信されがちにしている。
 親の都合で使われてしまう。でも決してやさしさ発揮の細やかなアンテナ操作を捨て去ってしまったような親たちではなかった。ただ通常はそういう扱いをしてくれない。
 だからつい言いたいことを口ごもってしまう。でもそんなだから優先順を頭で計算して、これは後回しにできないとなれば、イランの小学生年代の子たちはハッキリ親に対して、意見として述べることができる力量を育て持っているみたいだった。でも、傍目には、一時のこととはいえうるさい親たちだと印象付けられる。そういう境遇を子供たちなりの工夫で潜り抜けつつ、子供たちの励まし合いというか、理不尽なことがそのまま迷惑な出来事にならないように工夫し合うことも巧みにこなしているようだった。
 理不尽ということでなら、地表面各土地柄においてそれなりに独特の生じ方をさせているとは思うけれど巷の生々しい知恵というか、それぞれが役割を生々しく感知してそれぞれのできる範囲で工夫しあって理不尽の暴走、一人歩きが可能になってしまうような事態化を回避させてしまうことを多分日々試行されているのではなかろうか。そういうリーダーっぽい位置にこだわって他人に指図できるポジションにいることを目的化してしまうタイプたちと似たままの思惑を大人年代にまで引きずって、といこうことも細々とした事業所の現場では生じたりするかもしれないが、ここらも大人の世界の知恵が発揮されてそうなりたいいだれかを傷つけることなくそういう無茶な思惑は過去の思い出にしておいて今をこれから行き会いましょうとか誘ったりし合えるわけだ。そういう工夫しあえる面子にめぐまれない仕事からみの現場だったりすると、陰湿な忖度の疑心暗鬼が育ちがちになって、職場としての魅力が育たないままになってしまったりが傍目には映ったりするものだ。

 外交の一貫性という観点から倭と日本の連続性とその当時に限っての人脈的少数派であることは相当程度推測しやすいと素人は見る。
 つまり倭の人々の人数の割に外交を一貫して担ってきた人脈は少数だったと見なしたくさせる。
 そしてその延長で残党戦争を敢行して惨敗して、外交の継続性の都合から倭を日本に変えたのだから、構成は同一プラス、ということになるし、外交を担う記憶の連続継承の脈は少数のままだった。その後は行政の組織がしっかりしてくるのだからそれなりの専門職が育って肥大しておかしくない。
 半島では時期時期に混乱を生じがちにしてきたけれど、中国から役割分担された列島政府というか上記の少数派外交担当脈は、列島各地移住をひょっとしたら積極的に渡来してきた人々に斡旋する努力を惜しまず、しかもできるだけ平和裏に各土地で試行錯誤してくれるように励ましていたかもしれないなど素人老人は、ここは空想してみたい。列島がその後各地間のことば解釈に困難を感じさせるくらい方言の各地版を育ててしまう土地柄なのだから、その当時だって半島各地で育ったことばを集団のまとまりとして渡来してきた人々間ではそれなりの不都合を持ち合ってしまっていたと想像する。そこを不都合のままとしないで或る程度の棲み分けや中央人材としてか中央人材との交流とかをこなして、各地がただ孤立したままにしない工夫もなされていたのではなかろうか、など素人老人的に想像する。
 しかも、少し前にふれたけれど、私的交易が文献に残ることなく相当に盛んに行われて、それなりに蓄財が可能な人々を栄枯盛衰させていたことは想像しておいた方がリアルと素人的には察するわけだ。それに伴う情報は中央の人々にとっても貴重なものだったと想像する。その頻度は公的な交流とは比べ物にならなかった、と勝手に想像してみたい。

 多分、中央集権化の過程では、だれかたちの言うことを聞くというシステム的まとまりの容認を迫るような過程も含まれがちにしてしまう。すると各地の自立心は反抗したくなる。当然だ。そこらへの工夫が巧みな案として継承できるならば、各地の独自な試行錯誤、自発性を損なうことなく、構成要素の間で、中央集権化および中央集権させておくことを平穏に認め合えるように誘い続けられそうだ。

 

   川柳もどき

    欧米流音楽発想は音を出し続けることのような話を聞いたような思い込みを持っている
     のが素人であり老人でもあるだれかさんだったりする
      のだけど
    そうだったら不自由だろう、と見なして
      お水取りの演目の数々が、今時の発想から曲付けされて、音を出し続ける
       脅迫症からも解き放たれて、気まま
        というと仏教行事っぽくなくなるけれど、そこは今時の発想ということにして
       音曲をのせると・・・どうなるかな
      ちなみに、先ほど放送大学放送から聞こえてきたことを参考にすると
     ガムランの演奏には超高音域が混じっているらしい。放送媒体ではそこは伝えられないし
     並みのCDではだめだ。周波数の上限がある
     LPだとそこに溝として含まれていても再生するにはそれなりのスピーカとか余計なことをしないアンプやプレーヤーが要るし、極細のコードも役に立つそうだ