大げさにでなく、で周辺諸国の人々も超大国の人々も、インディ500レースを走るドライヴァー目線映像に溜飲を下げて(ないしレースゲーム好きたちならその際どいハンドルさばきに凄すぎぃと度肝を抜かれつつかもしれないが)、また日常の仕事モードに戻って稼いで、そうすれば、老後も公共交通を使いこなせばそれなりに長年月の老人生活を楽しく過ごせるというもの。そういうのって平凡すぎだ、という見方もありうるだろうが、その他についての想像が足りない視線とも老人観点からはこっそり言えそうに思える。
さて、
儀礼とか形式上の象徴的出来事がなんらかを代替(だいたい)させて、一応事なきを得るように工夫している"原始的"とか"遅れている"とかで表現してきた集団の営みのある土地柄について、そのことばが暗示するようななにかしらで落ち着かせて、自らは、"進化して"とか"その先を行っている"とかで納得できたつもりになっていたりが、一種、風潮のようにしていたのがついこの間までだったと素人の老人が指摘しても、老いぼれがとうとう・・の方での受けとめよりは、そうかもね、とごくたまにの通りのいい方で受け止めてもらえそうに、素人はほんのり押さえたくさせる。
儀礼とはいえ実際の死をもたらす場合も含む出来事だし規模の小さな集落間での見た目争いごとを伴う儀礼の場合、死の度合いとしては、数千万人分の数万とか数十万とか数百万とかの内の数十万の場合にはなりそうなら、これから比べてみるケースとどっこいどっこいだ、とも見なしうるように受け止められそうだ。
19、20世紀タイプの争い事の大きな出来事としては事後的にそこでの大量死として押さえられがちにしてきている。
だから現代は問題だとの指標にしてきている。
そこでの死の度合いがどっこいどっこいなら儀礼的な方法も同じだろう、と見なされても仕方がなさそうだ。
たとえ幻であってもその幻の過程を潜(くぐ)り抜けて自らが選んだその立場の結果が偶然次第で死だったり大怪我だったり生還だったりがありうる。
必ず死者をだすまで争うとか映画(ということで主に欧米発想のシナリオに基づく作品)のエピソードになりそうなタイプではない。
幻をめぐるということでは言い訳にしたところで実質を問われてしまう。
けれども19、20世紀タイプについてはもう一つ指摘可能だった。
一応自ら選び取った戦闘専門職諸氏がとことんその方向で絶滅のような事態さえ辞さずに争ったりする一種規律が厳格に守られた巨大化した儀礼っぽいのとはとことん違って、入り乱れてというのかわけ隔てなくというのか専門的戦闘集団以外の一般の人々も同じように含む無差別に犠牲になるような争いが質量的に膨大な死をも巻き込むような事態として出現する19、20世紀タイプとして問題視されてきた。
ここまでくると、今時の観点からは比較しているどちらのケースも似て残酷と見なされて当然だけど、小規模儀式で事態をとりあえず落ち着かせる工夫と無差別に殺しまくることを一般の即席徴兵もたっぷり含ませて争わせてしまうケースとは大雑把にも厳密にも対比的と見なせるように素人老人からは思える。
指揮命令系が言うことを聞かせる無理強いの方のイメージとしての全体主義は窮屈を超えて、どなたにとっても我慢ならなくてほっといてくれと静かに一言したくなる事象タイプだろうけれど、ここでは、全体へのそれがたとえ不可能だとしても志とか意欲として全体への配慮を心がけて、万が一の支障の事態を回避できたり、注意の行き渡りの過不足を極限まで均等に目配りできるように仕向けられたり、面倒くさがることとは対比的な集団の営みに方向の力加減を想像できる具体性を指摘しているつもり。
くどくなるけれど、その線から、一人ではほとんどをこなしきれないゆえ、できるだけ一人一人の力量をいつでも育った状態にできて目配りとその感知と判断などをこなせるようにする人的継承性を各世代間において可能になるようにしておけるかどうか、という観点を持ち込めそうだ。
近現代(が癖として対比的にそうしてきたゆえ)の幻が、ヒトにありがちな自惚れゆえの、錯覚していることに気づけない状態にしていないかどうかについて、いつでも検証し合える契機は忘れないでおきたい。
近現代はいつの頃からか、超大国に委ねる意味合いからその時期における超大国を表裏において一応尊重する形式はきちっと採用してきているようだ。
だから若者向けということでは少数の職人的熟達が要る芸術芸能の分野もあるけれど、多くの場合、参入の敷居は下げて、参入後の熟達次第のような過程はより多くの新規参入者向けに用意できるような世の中の営みを継続してきた。
そこにはたとえば超大国が身分制を嫌(きら)うメインストリームの中の意欲的な層諸氏がメディア手法とともにカジュアルな表現形としての様々を広めることにも熱心にしてきたと素人老人が指摘して、かもね、くらいは納得してもらえそう、と察する。
わけ隔てなく会話を始めやすい。
だからごく稀になるはずだが、犯罪へ誘う場でも、脅しとかが介在しないまま、カジュアルにわけ隔てなく若者達がうっかりしていると、誘い込まれて、込まれてしまえばその後はお決まりの心理誘導手法で充分だから、抜けるに抜けられなくなって・・・ということで、犯罪系のリクルートはカジュアルにが、通用し易い面も一方のごく稀とはいえ生じやすくしている。
そういう誘われて、本意ではないのに犯罪に加担して・・・のようなケースが稀だけど世代間で重ねられれば、経験的"免疫"形成意欲が集団の営みの都合上生じるはずだから、どういう場合には断れるなんらかを発揮すべしの知恵のケースバイケースの一覧のようなのすら身につけて成長する若者達がごく稀すら生まず、稀中の稀程度くらいしか生じさせないような集団の営みの熟成をとげさせてしまう、とはSF的だけど、この程度の空想は無理が少ないと素人的には察する。
ついでに超大国発の誇りを持ちましょうメッセージ(個々発想なら(分野の頂点を極める的)一家を成せ圧だし、集団系なら仲間を作り、仲間に入りの契機をくぐった先のこと)は、マクルーハン氏を持ち出すまでも無く、様々に地道に量的にはけたたましいくらい蔓延させてきているから、身分制を外してくれてフラットなまぼろしを生きられるようになった一方で競争後を人生とするほとんどの諸氏にとってはフラット?うそでしょう、というリアルも一方で意識されているはずなので、中には、ごく稀に、誇り?!無理言うなよ、こんな境遇で、どう誇れって言うの?めいた心配性へと誘われる境遇諸氏も登場させられる羽目に陥りやすくさせる。
超大国もそこらの圧は生じさせて、ごくごく稀に、もう私ダメ!!とばかり世間を騒がせる事件を起こすようにささやかれた誰かとなって、その中の稀なケースとして実際に事件まで起こすようなことが起きてしまう。
列島でもだから同じ手法でささやかれただれかの中のごく稀なケースとして、誇りようのないと幻を抱けただれかが事件まで走ってしまうこともあったりする。
操る系統はヒトの弱さをとことん研究してくるから、制御下におかれた研究ならば暴走させないけれど大儀を持つ部門はそれを使ってしまうので世の中に迷惑をばら撒きがちにする。
フラット錯覚とホコリ圧のセットはそれなりに使いやすい装置に転換できることを知っていても通常は制御されていると素人だって気づけるけれど、密かに行使できる部門においては、とっておきとか理屈を付けてごく稀に使ってしまう場合がありそうに素人は、広瀬本雑学の一つの見方として考現学の真似事のようにして持ち出してみたくなる。
同じ若者が、介護でも大変な境遇を得ていることの実際をドキュメンタリー映像にしてくれていたので、そのご家族のオープンな意欲をありがいことと素人老人は受け止めながら、大変さはどの人生にとっても観の一般性から、可能な反応できたあたりをふれてみたい。
まず先日ふれたような介護には技術を応用して楽に対応しうる面のあることを指摘しておきたい。
同様に、頼られそれに応えられることが誘う充実が幻であっても継続したあり方が続くのであれば、そこには親子を越えた連帯感のようなほうへも誘いうると指摘できそうに思える。頼られることの多様以上に、頼られるほうにとっては技量不足が不足し過ぎているような場合、パニくる方へ流されることになるのだけど、難しいかもしれないけれどと頼るほうが意識しているいないに関わらず頼られる側にとっての手法開拓、知見と関わる編成変えまで迫られる、一種挑戦の契機を求められているような具合との遭遇は、意欲が失せていない状態を頼られる側が持続できているようならば、その頼る側の要請は頼られる側にとっての頼る側こそが先生っぽい位置づけでのそれに答えられる力量つくりとしてのやりがいに直結させたりが起こったりするわけだ。
第三者的な観点からはそこらを冷静に、だけどさ、介護職でその後を生きようとしているわけではないでしょ?と諭されそうな程度は素人老人でも気づけるつもり。
時間を親の介護で忙殺されてという感じで人生の一コマを受け止めるようになると、このままでいいのかとか色々迷いへと誘い込まれてしまうかも、とも老人観点からは思える。
なので、それでも、自らが介護を担うその場に限ってだけのことだけど、介護技術を"ちょっとの空いた"時間に習得しておいて、応用してしまうと相当に相手も自分も楽な感じで介護関係を成り立たせることができるよ、位のことは最低限として指摘できる。
そして、苦痛としないで済む余地がそこでいくらかでも生じたなら、ちょっとした連帯感経験も必ず伴わせるから、そこに制度的な助力が介入できてとかで、人生がこの親子事情の中で単調に強いられるように収束する方向をとらずに済むような、子の側の裁量が人生設計において余地として意識できるくらいの余裕は提供できる世の中の営みからの工夫が、こういった若者達にもありうる列島であってほしいと、老人的には受け止めた次第。
川柳もどき
台風は2号だ
きのうは台風が接近中
を意識したくさせる空もよう
今日は、なんとおだやかに
晴れてしまって
数年ぶりに、乾いてカラカラで
再生して芽を出すかどうかわからないけれど
パセリの種を細長の箱に土を入れた上に撒いた
大抵、アゲハチョウの幼虫で賑わう
芽が出なければ、その先は、誇大妄想噺だ
食い尽くされるのかい。そんなことはなくて、パセリは
生い茂るし、その半分以上が食われる感じ
小さいのが(何匹か)出てきて、そこでずっと育つのだから
除(の)ければパセリだけ摘んで食せるし
眺(なが)めつつ放置した場合そうなる