連載は続く~ SF 掌編『列島古代史素人(老いぼれ)流のひとつ』編


 東山道武蔵路続編
 ネット上で公開されている木下良氏の論文(*)から
 p118に素人が求めている数値の紹介があった
 (以下引用その1""内)
 "これらの道路は宝亀2年(771)に武蔵国
東山道から東海道に所属替えになる以前の,上
野国新田駅下野国足利駅とに連絡する東山道
蔵路に当ることが確実となり,従来諸説があった
武蔵路の路線がほぼ明確になった。"
(以上引用)
(以下引用その2""内)
 "東の上遺跡(**)では側溝内に人為的に埋納
されたと見られる須恵器があり,その年代から道
路の築造も7世紀第3四半期に当ると見られるこ
とが明らかにされた。"
(以上引用)

* 地学クラブ講演要旨
  木下良著『古代日本の計画道路― 世界の古代道路とも比較して一』
  (地学雑誌 110(1) 115-120 2001)
** 所沢市

 須恵器を年代測定に使っていることに気づける。
 今時の年代絞込み要請に応えられるほどの精緻な分類はできていないようだ。
 一年単位で可能な測定ツール、手法を整えつつあるということからして、そのうち・・という期待は持てそうだ。
 7世紀の第3四半期ということで大雑把には
 第1四半期:601-625
 第2四半期:626-650
 第3四半期:651-675
 第4四半期:676-700
 として651年から675年の間の頃、と押さえられる。
 木下氏は軍事用とされ、車も使われていたと考古データから指摘されている。
 白村江の出来事・時期をどう見るかの木下氏版を読者は推察できる。
 素人老人は何度も繰り返してきているように、むしろ660年の当時の"世界(長安へ自ら出向いて返礼をたっぷりもらって帰った各土地柄)"にとっての高宗・武則天氏の考えに沿った落ち着かせ方受容が既成事実の基本で、そこらを熟知しえないローカルな反応の一つとして白村江の出来事を持ち出せると、余計なことに出た中大兄がその後も責任を対外的に責められることなく、ただ列島内ですわ重大事と工夫されたことを書紀・万葉集のごく初めの部分ほかの文献から探れて(多くの列島古代史事情通諸氏が実はずっと疑問に思ってきたけれど解決することに躊躇されてきた諸々(として素人は容易にふれえた))と素人流の一端は先日ちょっとふれたけれど、当時においても表に出るなと引っ込ませるようなことはしてなさそうの方に、素人の仮定は移してみた。だから、一方で、中大兄指導下、下手すると反撃されるかもの心配から発した方策が実施された諸々が考古的に検証されている。そこの古代ハイウェーを重ねるか、素人発想の方では、そうではなく、中央集権化事業起点と絡めて、百済敗北を受けて、列島に渡って来た百済軍の人々、それと倭軍の人々とが集団的に力技、技術力を発揮して、結構道路建設に関われたのでは、と想像したいわけだ。そこには、基本的に、中央集権化事業のその後の超困難だったことを過去に照り返させて、大動員を各地に統一的にたとえ力技であろうと、できっこないだろう、程度の常識を持ち出したくさせるから。荘園事業試行錯誤とて、名を借りての等、実は(各地で(汚職官僚や中央系の有力層の地方進出ということ以外への注目の如何))のリアルな辺りを後日譚の方からリアルを探れそうに素人だと思えてしまう。
 そして現状としての過疎と過密の共存をいかに変容させうるかの課題解決にヒントを歴史がその一つくらいは出してくれると歴史通な諸氏の極端な博識も助っ人にして、成してくれそうに素人老人は身勝手にも期待している。

 ところで、志木からの街道筋は現羽倉橋辺りを通って与野の町へと直行していた。浦和は少しだけ遠かったし、迂回しないと行けない。
 だからルートとしては、志木~羽根倉~与野~植水~昔の荒川堤防上~現丸っ堀~川越線鉄橋付近~伊佐沼近く~喜多院川越城跡・川越氷川神社辺り~入間郡役所跡~高麗郡役所跡
 のような昔の道順は可能かと。
 それが東に張り出した弓形だとすると西側の弦の部分が武蔵路と強引にはなるけれど指摘してみたい。
 須恵器現役の後半は古代ハイウェー現役とも重なりそうで、鳩山辺りの窯跡など想像してみると、川筋+武蔵路車輸送など、歴史に通じた諸氏からはお笑い種的な小話になりかねないけれど、素人で老人ということでこれも強引に指摘してみたい。
 とにかく舟運は乗るばかりではなくて川に船を流してそれを紐で両岸から引っ張るという手法もありなのだから、それが出来る限りで、制限を制限としない工夫が可能となるわけだ。