連載は続く~SF掌編『くだものなのか、肉なのか・・はたまた』編



くだもの問題についても決定打のような論は素人には伝わっていない。
当方が言う”くだもの問題”とは、草を食べて逞しく育つ牛とかのことも含めた動物たちの食性をしっかり一方に定置しておかないと、ヒトの思い込みが突っ走りすぎて、焦点を外しかねない、という心配のこと。
ヒトは経験的に、こうしてきた、ということで整合性を保つ論が今を賑わしているわけではない。食べ物については、むしろ生理の方から入って、整合性を詰める論になっている。
ところが、その生理の把握が、いざ動物たちの知見を踏まえられるなら、そう簡単そうではない。
かつての栄養の偏り由来の様々な疾患症状、苦い経験をヒトは経てきているので、なんらか要素問題から接近は可能と思えている。けれども、それがどの程度のことなのかの確定的な知見ではない。ビタミンの必要量を理解できたとして、流れは?ヒトの場合、媒介が簡素ゆえに、計量がそのままモノの動きをとらえ得ている?ということなのか。
もちろん、現状をこの瞬間にも判断が要るということで進めていかねばならないから、工学的受容も大事だ。ブラックボックス(の中での働き)を信頼して、入力と出力を調整する。ヒトはそうして実際的な場をしのいできている。
今時の介護現場でならば、廃用症候群へわざと誘うような手法は事前に回避されていることと察する。動いてもらえる工夫をとことん尽くす。そうすることで、ご自身の溜まりかねない憤懣のなんらかを放出できるように、自らがする。どうってことない何かしようとして、工夫してできてしまうことのかけがえのなさ。
たとえば一週間も安静、安静とか信じ込んで危険なことしないで、とかで抑えて、動けない状態を老人諸氏に強いるならば、かなりの程度、自分から再起してみる気が失せるほど筋力が衰えてしまうのは、介護現場を一般の人びとが職業柄経験できるようになって気付けるようになってしまった。
大川弥生氏らならば、更に、”人間らしく生きる権利の回復”とか、”どういう風に充実した楽しい人生を作るのかを改めて考えられる機会としうる”などで括られる。
介護発想、ということを軽々しく持ち出してしまうけれど、それを身に着けた薬の専門家や、体を動かすことの専門家や、看護師や、医師や、そして介護職諸氏が集まれば、それなりの施設運営は簡単に可能、と、数年間を施設の介護に就けた貴重な機会を与えてもらったことからは、指摘できる。仕事中ならば必用仕事を探せる介護タイプの職人に育っている各種専門家が寄せ集まることで、時間を使いやすくする、という言い方が可能になる。
そうでない場合は、無駄に近いところで忙しくなる。という言い方が近い。
現場は、持っている知見の応用の場でいつでも体がついて回る。
事務処理に費やす暇はない、というか、できればそれに費やすこと少、で切り盛りできるといいように実感できている。だから現場の多くではそのため用に業務の組み立てを工夫されている。そう未だできていない未熟な現場もあるかもしれないけれど。そうなるとただでさえ忙しい現場も更に忙しくする、というか、とまた用いてしまうのだけど、最低限の業務遂行で疲れ切っているようなことになりかねない。
そこで動物たちのように草をむしゃむしゃして、鍛えて、ということに、は、ならないのがヒトだ。やれ肉を食え、それだったらそれに食わせて野菜もたっぷり摂れ、となる。
よい水分は動物一般に効くと思える。更なる水研究と一般へも含めた発信+啓蒙も大切だ。
やっていること、やったことが刺激、感心した、ということではないのだけど、バットマンのロビンとして終幕を飾った役者氏が今は無き双子の高層ビル間を綱渡りして見せたエピソードを含む映画に出ていて、そのやりくりのところには、元気の源を感じた次第。
やっていることに共感しているわけではなくて、プロセスのやりくりの様々、人々の中で、なんらかやる気を共有できて、なにかしら目的へと・・で、ここらだけだと、危ない話にもなりかねないし、で、たまたま、この程度のエピソードでよかった、ということはなるのだけど、とにかく、年寄りまで元気をいただいていた。
(『実体』が)要素に分解できて(と信じ込めて)、その合計とか加算乗除とかの話になると、把握はし易いけれど、実際的ではない。実際上の手軽さを得やすいのかもしれないけれど、ものごとのリアルからは遠ざかる、と一応指摘しておきたい。その先にたとえば、経済の営みの理解の仕方の困難めいたのがありそうだ。カンフルしか能が無いのか。オルタナティヴ発想は育つつもりが無いのか。ある程度の自給生活の家族的な集合での仕事の探り合いの好循環を想像してもらいたい。そして他家族っぽい集団の営みともいつでも遭遇し続け売る。その擦れは、様々の契機ともなり、やはり、それぞれの独自性を尊重し合える云々の目指しの方向性はごく初期から模索はされてきたはずだ。たまたまうまく言った時もあるだろうし、軋みも生じやすい、けれども、ヒトはここまで栄えるくらいにはやりくり上手だ。そこだ。





君:ふん、・・・・・。そこ、・・なの、ね。
私:・・・・、?・・・、わかって、もらえ、た・・・。
君:どう、かし、ら。
私:じゃ、・・・・散歩しながら、また、考える。花盛り、だし・・・。
君:いい、わ、よ。そう、しま、しょ。

で、つづく。