連載は続く~ SF掌編『正月早々三体を話題にする』編


 ド素人なもので、"リミックス"という用語は音楽関連で使われている、と思い込んでずっと来ていたのだけど、日曜から月曜にかけての深夜帯にNHKBSで放送されたスペシャル系連続番組にて1973年生まれというマット・アルト氏(日本のポップカルチャーという枠での研究もされている)がかつて名を馳(は)せた「ウォークマン」こそリミックスだと言葉にしてくれていた。
 番組自体がそう思い込んでもらえているか、自惚(うぬぼ)れているか、それなりにリアルな要点を押さえて整理して受け止められているか、多少漂った方のムード的ことばを引用しているだけだったりかなど様々にしろ、ジャポニスム現象をヒトが為しやすい欲望の観点から編集されているので、どちらかというと自惚れのケチな欲動の些細な辺りへの刺激となりかねなかったりする内容なのだけど、リミックスでありオリジナルではない、けれども音楽現象でもそうなように決してリミックスで稼げないわけではない、的、ちょっと自嘲的な方でも受け止めうる表現になっているかも、など素人老人の余計なお世話的押さえ方も持ち出せたりする。

 さてオリジナルではないけれど、エミュレーションのコンピュータ娯楽産業と関わる面でも注目の試行錯誤が進行中なことを、今時だからネット上の発信から気づかされた。
 PCemでも・・、その前に、現に生々しく掲示板的発信源での文字会話から知りえたのが、3dfx社のVoodoo(1、2・・・(glide API))とともに一時を騒がせつつも呆気(あっけ)なくMS社Direct3DDirectXの趨勢に潰(つい)えたRendition社のverite V1000、V2x00(speedy3d API) のエミュレーションソフトがMS社の窓口で販売中なのと並行に、アルファ版での公開版が進行形で開発されていたりしている。
 VOGONSの掲示板(昔からのBBSの類)での一方で、今では、旧papyrus社製Cart Racing、Indycar racingの個人?サイトの掲示板でも 話題 rendition cardということで盛んに書き込みとアルファ版の新版のリンクが更新の度(たび)に掲載されている。
 こう紹介はしてみたものの、当方的発想からすると不便なタイプと受け止められるので、上記の通り、PCem の方で以前の書き込みが読める限りで、元開発者の Sara Walker 氏が実現可能性中程度とされている辺りを踏まえて、ひょっとして使い勝手のよいPCem、ないし86box辺りでそのエミュレーションを使えるかも、など淡く期待しているところ。
 Voodoo仕掛けでの描画と比べても、多分、くっきり感がかなり、と映るのが renditionn社のverite V1000 ないし V2x00系だ。
 Nascar Racing の初発のもの、略してしまうがその後のNR2、NR3、NL(egend)、NR4をまず想起できる諸氏においては、NR3の段階で見ばえの違いを意識されたはず(NR4で段違いになるが)。そこらは既にMS系OS windows9x系からみでのDirectX(、3D)が関わる処理要素付加の結実で、それらに対応するグラフィック処理チップとそれが乗ったボードがゲーム系にとっては必須と時期的になっている。
 1995、がちょっとした画期であり、そこから1998にかけての当時ならあだ花的に受け止められたかもしれない3dfx社、rendition社の試み、挑戦だった。
 会社自体は失敗となってしまったのだけど、その試行錯誤が、光線の振る舞いについての様々をデジタル処理しての見ばえ効果でのエネルギー消費方向に進む一歩手前でユーザ諸氏が別のこだわりを持てた時期(ごく短かったとしても)、カーレースのシミュレーションに何が求められられるかの辺りの一要素にも今の時点で気づかせてもらえるように、シンプルだけど必要な要素は1990年代でももうすぐ2000年となる頃には、開発者諸氏にとってはお膳立て済ということで、その方向でのVoodoo(glide)なりverite(speedy3d)なりが開発されてそれなりの性能を示してもいたわけだった。
 だから高エネルギー消費のPC(ただ今日(こんにち)において、低電力消費素材や、記憶密度のはるかに高い材料などが既知となって、桁違いに低電力消費のマシンの登場も夢ではなくなっているようだ。値段も待てば下がる、となると一般にとっても近い存在となりそうだ)だけどそれなりの性能を発揮する今時のマシンならば、ということで、エミュレーションソフトが、ちょっと昔の手軽だけど相当な3Dソフトの魅力を発揮する作品の再演をそのより適した仮想環境で味わえるようなことが起きている。
 PCem元開発者の発信内容から、rendition社の3d技術についてはGPLの範囲で扱えるようになっているようで、単にゲームに時間を費やす以上の関心へも誘う(シミュレーションのあり方への思索であったり、ソフト的処理内容への関心からプログラムのなんらかへと誘われたり、諸々)。
 それ以上に、カーレースゲームを通じてデジタル系のシミューレーションの実際を体感することで色々湧きおこる感受の辺りをヒトの観念系と関わらせられるとかも、興味ある事象と見たい。
 DOSエミュレータDosboxを介してのrendition verite駆動の場合、dosbox を単体で起動してDOSの画面にて config -wc (たとえば)dosbox-v1000.conf などすれば、起動フォルダに dosbox-v1000.conf が作成されて、それを編集して実用になるわけだけど、余程の事情通な諸氏ならばいざ知らず、端々を知っている程度、ネットで調べながらタイプの諸氏においては、その Configファイル扱いが大変に難問となりかねない。
 PCemはその詳細をブラックボックス化して、見た目はいかにもハードをいじくっているかのようなメニューの中にある項目についてあたかも購入したPCを立ち上げて、ゲームを動かすかのように一つ一つ指定していけば、自ずから動かせるタイプになっている。
 似た窓口を提供するインターフェースが、dosbox にも PCem にもあるので、現状、ソフト開発者諸氏においては、そこらは承知の開発となっているようだ。
 或る制約が目に見えているかもしれないし、だけど別方向の到達点も見えている時、そちらへ舵をきって、その達成を得る試行錯誤も、振り返ってみれば、すばらしいじゃないか、という辺りに、諸氏において気づいていただけたらと、素人でその当時のPC(というかMSX2+)もいじっていた老人は願うものだ。

 必要な発想のありかは似ているので・・ということで話題はがらっと変わって列島、東アジア圏古代史。
 あいかわらず現代語訳の日本書紀しか使用できていない多分今時の日本語で育ってきた素人老人が、日本書紀を引用しながら、ないし、理解したつもりの内容を整理してみる。
 時は660年前後、何度もしつこく(省略整理して)引用するけれど、百済のことを扱った中国の史書には、降伏して中国へ出向いた百済の首脳陣が、その時は高宗、武則天の時代だったのだけど、許しを乞うたわけではないのに、むしろ、国つくりに励めと、放免に近い扱いを受ける。
 それでも、百済の跡継ぎの本命の人材は、地元に返って国造りに励むことはできないし、後々のことになるけれど、日本に人質として行っていた主要な人物でも、どういうわけか内輪もめの酷いことを招来させて、たまたま当時の高(句)麗が受け入れてくれたからいいようなものの、逃げ去ってしまう。
 百済の時の"政権"は、滅びるようにして滅びている。
 だから日本書紀に頼るなら、不思議な660年前後、660年から663年にかけては、なにがどう起こっていたの?ということになる。
 今に戻ってもらって、ワールドニュースを参照していただけるなら、残党を客観視する立場と残党であるわが身を心配する立場での極端なくらい受け止め方の違いを想像しやすい、と素人老人は察する。
 だからといきなり列島古代に戻ってもらえば、当時の斉明、中大兄らリーダーとその取り巻きのパニくり方は尋常ではありえなかったと想像したくさせる。
 まず660年の処理について、速報は無理だったとしても、百済と倭(と唐と)の関係からして、ある程度の短期間での情報のやり取りくらいはありえたと空想したい。
 書紀斉明6(660)年7月16日の記事への付加記事として高麗僧道顕著述の日本世紀、伊吉連博徳の書(書紀斉明5年秋7月3日の記事に他の引用記事)が引用されて、書紀編纂時には660年の出来事が記述上は認識されていたことが知れる。つまり日本国建国プロセスと関わる上での両書の関りも推測できそうに素人からは感じられる。
 そして斉明6年9月5日百済の使いによる報告記事。現代語訳には「君臣みな虜とされ」。

   * 書紀斉明4年11月11日の記事に他の文献で見た記事の引用で
   はこの記事の時点より未来の斉明6年7月の百済首脳陣の投降に
   ついての引用記事。更に、書紀のこの先、6年冬10月の記事に同
   じ内容の引用あり。

   * 重複記事の多さにも素人老人的には注目が行く。
     書紀斉明7年10月23日から11月にかけての記事の末に、現代
    語訳では、しかじかかくかく色々な事情の推移が「見えてい
    る。いま書きとどめておくので何れかにきめよ。」と素人読
    みからすると、覚書的指示のようなことばが連なっている。
     校正の細かい作業以前に、文章のつじつま合わせ的な工程
    が未完の箇所が斉明から中大兄・天智の時期の書紀記述となっ
    てそうな気がした。
     事例①
     森博達氏著作で一般にも知れ渡っている‟続守言‟という人名
    が同じ文脈で二度出てくる。
     1.上記‟何れかに決めよ‟の少し前のところでは日本世紀の中の
    記事として。時期は斉明7(661)年11月の事になっている。
     2.天智2(663)年春2月のことになって出てくる。
     他に、人名豊璋と倭国(日本国)の権威において百済王とする
     記事や同名人物‟ら‟を送り出す記事などがわかりやすい。

   * 伊吉連博:659年から663年の事態を見聞できてそののち帰国

         渡来系中国人、周の国出身の末裔、大宝律令編纂

         に携わる

 日本世紀、伊吉連博徳の書を読解できた瞬間から唐との付き合いにおいて高宗・武則天期の考え方、方針などを身近な百済人脈とともに共有できそうなことを想像できる。
 たまたま日本書紀編纂事業は未だ武則天期とごく近い、ということでの相当に影響しうる辺りにも空想がいく。
 幸徳期のなんらかを想起できてもその時点での超大国唐の方針ニュアンスということでは未だにローカル性質をぬぐえない倭国を想起できるならば、その後の画期性質をも想像しやすくしそうだ。
 だからと素人老人をいいことに大幅に端折っているのだけど、残党応援に意を決した斉明期、中大兄から天智への時期、生々しい激震が、(残党応援組の内心とは異なって)悪化の方ではなく、日本国というまとめ方への意欲を支えることになった可能性の方で、素人老人的にはつき止めさせたくする。
 近現代化の思想的営みの欧米流の長年月は生々しくは人脈的に断続的過ぎると推測するけれど、一応連続的発展の思想史なり哲学史なり政治史なりで語られるのが今時だ。
 そこらを東洋的と対比させての論のニュアンスも多分、相当に引きずってきた。
 素人表現だから(酒の肴的な意味ではなく)あてにはならないのだけど、一人前育成観念を継承してきた人々において民主制とか個人とかへの感受性、観念系作動因が働かないということはありえないと思えるわけだし、イエズス会系の熱心な啓蒙活動が功を奏したというよりは、そこに含ませた個々の尊厳を大切にし合えるあたりへの感応がありえてそうな方でとらえたくするし、一方で、実はその先での困難にぶち当たるにあたっての、つまりそうは言えても、それらがリアルにヒトにとっての集団の営みとして上手に機能してくれるようにするには、そうは問屋が卸(おろ)しませんよ、という辺りの感受性の違いが、その後の、乱暴さ、暴力性の行使の度合いとして出てしまったのではないか、と押さえたい気がする。
 無理やりその理念で集団を仕切ろうとしたときの無茶な辺りを歴史体験を通じて熟知できている集団の営みとそれらを挑戦的、力づく的に実現しようと目論(もくろ)む勢力との軋みの辺り。
 答えは、すでに欧米近現代を担う思想家の(本賭しては沢山読まれる方かもしれないが)異端児諸氏から発信されてもきたように、近現代の思惑には、理念的に賛同しやすい要素をとりまく困難への配慮が足りな過ぎて、結局無理強いにさせかねない危険要素含みだった。
 それゆえ、19世紀以来の戦争しかしらない土地柄もあるくらいの戦争だらけの世紀を続けるようなことになっている。
 明治維新賛同派諸氏には暴力的な加担こそが民主主義には必須だから、それに向けての世論工作は必要悪なり善の方で解釈しやすい秘めた思いの方々が未だ、いらっしゃるのではないか。
 だからもう表の思惑に付き合わされてしまう若者たちにとってはごく限られた密かな乱暴系インサイダー以外にとって無茶苦茶な思惑の渦に巻き込まれやすくして、限られたインサイダー作りの人々にとっては好都合の政治ほかわが身の生活一割くらいで取り組むタイプの人生のような事態を引き受けられる意識的余裕たちが育ち始める前に、むしろそこを避けて時代時代の誘いに乗って、今時なら、金融的金儲けの方でひと稼ぎできれば大いに楽しめるかもなど思いつつ、実は多忙で人付き合いに忙殺されてしまうような人生を選択しがちにしてしまうのではなかろうか、などあくまでもSF的にキャラを想像しているだけだけど、その手の空想は容易だ。
 武器・兵器産業の裏金が怪しく権威筋を動かして、他に使っておいた方がいいに決まっている資金の膨大量を無駄に費消させていそうなことは昔から有名だけど、素人はそういった言論も耳にしてきた旧世代ゆえ、ここでもことばにしてみた。
 各地で自然災害対応能力が問われている。けれども、欧米流の(広く)経営は、格差問題を継承し続けさせるほど、各地の対応力を磨く方には作用してくれていない。
 しかも、局地的戦争が付き物のようになって無駄の額は相当なことにしてそうだ。
 責任問題的にはシンプルに超大国を自ら引き受けたUS政府系がダメだったから、と鮮明と察する。19,20世紀問題(20世紀の中場に公然と他人の土地を力づくで奪うことを大国のいくつかが見て見ぬふりした以上の酷い対応をしてしまったツケがずっと続いている。現日本国は敗戦国の近過去事情からナチ系を使った策謀を話題にする代わりに、他国に今の時代において力ずくを行使したロシア国に問題を見た(現ドイツ国も似ている)。そのことで危険視する国は、恐らく地表面のどこの国もいないと素人老人的には推測する)
 19,20世紀への対応としてそこらが絡んで諜報利害が、各地の過激派を便利に使ってしまって蔓延らせてしまう。広瀬本はそこら程度までは素人読みでも、推論可能にしてくれる。
 だから現戦場は乱暴だからこそ使える、便利な過激派の洗浄策の場と見なせないこともない。諜報利害が育てて、だけど用済み、ということでの処分だ。
 そこには人の命の尊厳感は希薄に伺える。欧米思想はどこへ行ったのか、だ。
 もっと以前に諜報利害から乱暴系を動員すること自体が間違っていた、と振り返れて、その線で、綻(ほころ)びをつくろいつつ、これからのための‟新建築‟を目指せた方が、乱暴系の改心とか人生の転機のためにも、世界の諜報部門の超改良作業にも好都合かもしれない。ここらをより面白くダイナミックに描ければ、映画シナリオ作家としてでもSFの作品にできそうだけど、超多忙な老人にとっては、夢のまた夢に過ぎない。
 役割分担上両天秤系リーダー層の何人かは酷い扱いで人生を終えることになったりの事例などについては、広瀬本で扱われているたとえばフリーメーソン系の超富豪なり有力者たちの亡くなり方と重なるかどうか、そこらも以前のUSの映画の作り手諸氏ならば、既に映画にしてくれていたのでは、など想像してしまう。今時(のUSで)は、芸術系にもしばりが相当にありそうだ。
 沢山稼ぎ過ぎれば、他が知らず知らず抜かれているのだ、というリアルの観点を踏まえられるなら、オリンピックにその種の動機付けを持ち込ませたのがUSでの開催だったことはだれもが知っている。
 一方、女子サッカーの(衆目をより集めやすいという意味合いから)大きな試合で、ヨーロッパ系チームの行き過ぎた力の反則に、それってやり過ぎでしょ!と猛然と怒りまくって抗議したUSチームの女子が育っているUSという素朴そうで、実は暴力の心身的作用の幅を体で覚える育ち方(ちゃんと基準を感受して反応できるし、ことばで説明できる)が可能な辺りは、中には、信頼をおける人脈が皆無ではない、ところを披露もしてくれるしで、やはり人の世はぐにゃぐにゃに入り組んでいる、と素人の老人年代だが、感心もしてしまう。
 そうは言っても、ワールドニュースを騒がすのが今の時代においてすら大量の殺戮となると欧米流の仕切り方に問題あるんじゃない??と疑問符を老人世代が二つくらいはサービスしたくなるのも無理はないと察してもらえないか。
 そこで最近特に言葉にしている、漢方発想だったりもしている。
 ここらも突然何?!な話になるから、今回はふれることはない。

 さて先日ふれさせてもらった恐竜化石発掘では、第二弾の放送もあり、しかし、素材堀りの紹介でその成果は数年後という内容だった。
 宇宙観測に似て、数年先まで予定を忘れないようにしておかないと、その発見ニュースを見逃しかねない。
 ただ、恐竜巨大化への小林氏の仮説には興味を持った。
 エサとなる植物食恐竜がとりあえず巨大化している。そこに仮定される原因は、そこそこの大きさの植物食恐竜は食われて世代を継承しずらくなるくらいの事態が訪れていたらしい辺り。
 つまり巨大化しやすい現に大きくて捕食されにくい植物食恐竜が世代を継承するようになっている。(抗生物質効果の顛末にも似ている)
 そこで、肉食恐竜の方でも、食いものにありつける機会ということでは、ひょっとしたらでかい相手に食らいついて肉をひきちぎれるだけの顎の大きさと力のある肉食系がなんとか生き延びて世代を継承できるようになって、そうなるといつのまにか大勢の方がやたら世代交代を繰り返して増えてしまった、ということになりそうだ。
 というわけで、後の巨大なティラノサウルス系がはびこる。
 意欲して、意識して、そうなったわけでは間違ってもない!
 たまたまの都合が生じて、たまたまそこに居た都合のよい条件が、食いつなぎやすく、生き残れたので世代も継承し続けて、その線での拡大がなった感じ。
 ただし食物連鎖の頂上の肉食系はいかにもさみしい。ライオンについての動物ニュースはしょっちゅう放送される。だからヒトには気づける。
 ヒトは雑食系だ。だからまた別の末路を空想くらいはして、そうならない準備は怠(おこた)れない。
 進化に抗うことはできないかもしれないが、多少脇道を用意するようアイデアは準備しておいても、ひょっとしたら役立つかも、などSF的には想像できる。


 以上似たような底の部分に気づいていただけるなら有難い。

 


   川柳もどき

    昔の人々からすれば米価は相当に低く感じるそうだ
    今時の米食好きな諸氏にとっては高すぎるが実感と
     老人は・・・察する
    便乗のノリがニュースにならないのも
     今時の不思議の一つのようだ