連載は続く~ SF掌編『腐っていいこともあるわけで・・だけど』編


 話題は、その持ち出され方ゆえに、知らず知らずの方向性を持たせてしまう・・ってころも起こしがちだ。
 現在進行形での話題の一つ、ヨウレンキンとその症状についても、映像として紹介されると、かなり劇的に衝撃的に映る。
 色々、雑学的素人なもので、老人ともなると、その腐って土にかえる辺りについても、楽観的に天寿全うとか、往生の方で勝手に空想してしまうものだが、リアルには、地表面の巧みが働いて、それゆえヒトが言う所の土にかえる過程を経る。
 見た目はひょっとしたらその先入観次第で、おどろおどろしいと映るかもしれないのだが、黒沢監督の『回路』やサマラン監督のつい先日放送したばかりの『シックスセンス』など発想のきっかけにできたりする場合、自然の織りなす、まさに織物と関わる巧みにしか映らないくらいの現象の一コマと、ヒト的に見なすことへと誘(いざな)ってくれる。

 腐らないで発酵の方で活躍してもらうと、多分、不都合な方で残る。
 一応、腐ってくれるので、土に返って、地球的要素と化して、めぐりめぐってのサイクルに乗ることも出来て、万人にとっても、生物界にとっても一応都合よくことが運んでくれる。

 現象としては、元気なのにどうして腐る方へと誘いをかけてくるのか?の辺りが一般の日常的な受け止めになるのではなかろうか?
 今時は免疫知見も普及してくれて、おおよその話として持ち出しやすい。
 死にゆく諸氏の自覚の時期、そう最晩年も最晩年、ポッと一息ついて、お亡くなりになる瞬間前くらいの短期の出来事のように、腐るか腐らないか、きわどい時期に、腐る方に委(ゆだ)ねるような、譲り渡し的意識作用を経る。
 そういう貴重な体験とはまったく無関係に、突然、腐りだす身体。
 ここらは働き盛りの諸氏において、驚きとなると素人老人でさえ、思いつく。
 しかし、一方で普及した免疫知見からすれば、老い(すぐ死ぬとは限らないから)と死の間(はざま)でなら話として説得力を発揮しそうだけど、働き盛りだし、現に働き盛りをこなしていてただれかのからだが腐りだす、となれば、おかしい!?と受け止めて当たり前と素人でも思える。
 その元気さが勘違いさせているのかどうか、とにかく、免疫系に"常在菌"がいつもの土にかえる過程用の活動期到来を表現し始めているだけだ、と事態を押さえられるなら、その免疫系のおかしな(不可思議な)発動をこそ疑問に持てることで、思考の回路を発火させることができそうだ。
 そういう脈絡のニュース報道にはなってないかな・・・?程度のことばを現状、用いてみたい辺りが素人老人っぽい、と事情通諸氏からは見なされそうだけど、一応、ことばにしておきたい。

 

   川柳もどき

    各地性が落ち着かない世の中性の源とうすうす感じ取られるようにもなって
    とりあえず皆ごいっしょ観・感を呼び込もうと急いでいたある時期と
     その後
    急ぎ過ぎて、各地性の自律の源泉の辺りまで統一したくさせたがる真面目一方の
     だれかたち
    大儀は仏だとしても、もう少しやり方は、初期のことだったとしてもあったのでは・・
    とも
     思えてしまう歴史素人
     似た言葉系であっても、九州域から東北域まで各地性が働き
     各地が一家言(各地の伝承・思い込みの類・主張)を持つような人々でごったがえしていて
     しかも統一人脈の端々が継承のこんがらかりを各地性へと持ち込み
     生計の利害も抜群に作用してしまうから
      各地性も一応蚕食状態と化しもするし
      だれか、なにものかが、まとまり感・観を一応だけど代用するだけでも貴重だったりもしたろうし
     ヒトの様々性を前提に、まとまり感・観を実践的に営ませる工夫は、ヒトのこと、ヒトの集団性への知見抜きには簡単ではなさそうな
     辺り
     それと実際的工夫に長(た)けるヒト(集団)ということへの自負
     の辺り