連載は続く~ SF 掌編『爺さん年代は、時々、時事ぃにも関心を持つ』編


 巷の様々な利害をバラけさせておいて・・が、既得のかなりを温存したがる隠然たる勢力なりにとっては、国際的利害上、好都合な当面の状況を醸(かも)す。
 富は他人(ひと)を雇えるので、それなりにちょっと昔流行ったことばを使うなら"空気"捏造を可能にするし、メディア論的には世論を動員・誘導させやすくする。インターネットも使いようで、集中慣れ、集中ゆえに可能になる辺りを使い慣れた勢力というよりは雇用の網の目がそれ用に使われやすかったりする。
 乱用の件もあるからインターネットの初期を放置したまま、というわけにもいかなかっただろうから、賦活するには・・で相当の努力の辺りが求められてそうだ。AIについてはそれで10年間稼ぎ続けるつもりなのかどうかの辺りにちょっとした決着を見通しておくことが多分、大事そうだ。現状のアルゴリズムはあくまでも連想ゲームと事情通から発信済だ。だからヒトに置き換えて、それがどれほど緻密だろうと、ないし大量のデータに基づくものであろうと、そこにちょっとだけヒトが万が一その操作を天才的に可能にした場合で類推しておければ、その事態の押さえ方くらいは想像しやすくする。
 膨大な電力を消費するだけのことはあるのかどうかなど、色々これから問題が顕在化するとか素人老人的には"ちょっぴりSF"程度だけど想像したくさせる。
 中央集権と言ってしまうと、誤解も相当に含ませ易い、としても、一応過程としてのヒトにとっての中央集権志向は、何事においても生成の過程での単独のばらばらが育ちとともに煩型を構成してそれらの争い合いで巷に落ち着きを失わせがちにするよりは、まとまっておこう程度の辺りから既に中央集権発想の貴重さに気づかされるとかを持ち出せるなら、難しいとは思うけれど、一応、中央集権発想が、ヒトにとっての大昔からの特質へことばを与えたその一つ程度に押さえて置けそうに素人老人は推理する。

 だからヒトにとっての中央集権試行錯誤においてはいつでも構成要素におけるどこらを容認しあえるかをめぐる個々性の認め合いの試行錯誤と並行とか重なるとかさせてきたと推理することも可能になりそうだ。

 列島の古代史は貴重にも、たまたま大勢力としての特徴ある古墳作り発想をもたらす加耶系の人々が半島でのバラバラ性をそのまま列島環境へ持ち込んでくれたことで、列島古代史の様々の元を構成させてしまう。
 漢文だけでなく、列島古代の頃の中国の文化的様式について時々において精通する勢力が媒介となった辺りを見逃すと、あたかも邪馬台国(他の文字を当てたい諸氏においても同様)が自発的に中国の在り様を発想できて近づいたかのように思い込めてしまうが、力関係とかを意識できてその上で、近づけたり近づけなかったりの難しさは今だって十分に経験しうる形式性のメインストリーム版として教科書的にでも大方が頷(うなづ)けそうだ。
 だからそれら教養を継承する人脈として列島在住の各地のどこかの人脈とより密接に付き合って、対中国外交を推進してきたことのリアルは押さえておく必要がありそうだ。
 そこらを歴史通諸氏がより考古や文献の資料を用いて鮮明にしてくれるようになるとありがたい。
 しかも、今流に民間と言ってしまうと、リアルから遠ざからせそうに素人老人には想えるけれど、とりあえず、活発に生き続けてきた巷の人々や少し公式筋との付き合いのある巷の人々や、もともと血脈として公式筋だけど外れもの諸氏が巷と交わりつつ相当に活発に交易ほかを担ってきたことは、考古知見がどう整理するかの道筋は論者によって違うとしても、一般には大雑把にしっかり伝わっている。
 それら活発系を放置しておいて巷の各所において平穏でありつづけるならば、そうやって今日まで続いたろうが、ヒトのなすことゆえどうしても軋みを生じさせてしまう。
 それが局所でおさまるならいいけれど、大事となって、混乱を無視できないような巷と化すようになれば、リーダー的に事態をおさめたくさせるものだ。それがヒトっぽい。
 でもそこらを知見として整理した集団の営みの中から、国っぽい発想でのまとまりを志向したくさせたりも始めている。
 今だってそうだけど、国とか概念の押さえ方をより緻密に共有できることは理想としても、個々での処理系が立派にヒトの場合働いてしまうから、同じように理解しあって、それを論じ合ってということは、形式的にはできても、実のところでは中々困難だったりし続ける。
 ことば自体が通用性において、同じことばとして染み付かせていることを前提にしたくなっても、そうは問屋がおろしてくれない性質、つまり、過去の他人達が使ったなにがしを引きずるのを個々のなんらかを通して理解したつもりになるタイプの多少の複雑さを免れることは難しい辺り程度も気づけるわけで、個が発信していると言っても・・の面と、だけど個が言ってもいるし・・・の面も意識できたり、ことばの陳腐化のスピードすら意識しあう必要があったりで、便利そうにもかかわらずの辺りを精度ということにこだわれば、実に面倒な道具の一面を匂(にお)わし続けたりする。
 そこらを踏まえつつ、こだわりすぎれば、ただ混乱が待っているだけだから、暫定的に固有の名づけやを用いて、整理して、一応分かり合えそうに伝え合う。
 国としてまとめましょうという概念の通りの良さを今時は教科書とかを子供の頃に学んで、一応、そういう身心で(現代は)いられていそうだ。
 けれども、その昔の列島環境においては、半島以来の各地性を引きずった集団の営みの自律性の個性がひしめいていた感じだ。
 それを、素人老人考えからだと、百済の降参がもたらした唐の高宗・武則天期ゆえの許しと国作り"指令"を受けたその情報の伝わり方において、列島でもそれが継承されて660年以後のいつか、徹底して始まったと見たい。ただ歴史資料により厳密に沿った場合を、歴史通諸氏によって本とかで数々公開してもらいたい。
 その国作りの顛末まで現代の列島住まいの人々は知っているわけだ。
 底流としての大乗ノリは少なくとも江戸期にも脈々としている(川越の江戸期を読み直(なお)してもっともっと面白い日本史展開に仕立てるもできそうだ(家光の東照宮やの莫大な浪費の内実を探ったりが一つの脈絡))。底流の軸をだけど共有するように理解しあえて、共同(協働)作業するということも同様中々難しいことだ。そこらの軋みの辺りも歴史通ならではの知識が物を言ってくれそうだ。
 混乱の巷になりそうで、しっかり藤原氏の脈々が張り付いて、軌道修正を図る辺りも、そろそろ率直に一般向けの本で数々になってくれてもおかしくない。
 平城京を避けて、平安京なのか、平城京も、平安京もだったのかの辺りも明確な資料からの指摘を読んでみたいものだ。
 素人老人は対中国外交の脈々の線から邪馬台国以来、九州人脈である権威筋という根拠薄弱かもしれないけれどどうしてもそう筋道を採用させたくする。
 いつの頃か、飛鳥の地が内陸にあって、外との交渉に必要な前期の難波京という既存の仮説が、素人老人にはしっくりくる。
 加耶系のそれなりの列島展開から百済系、新羅系、高句麗系の諸氏が半島事情を引き受けて、ちょっと落ち着かない時期を招来して、しかも百済人脈経由の指令を受けたつもりに為れたとしたら、半島でのような日常的いざこざにかまけている時間のゆとりは無かったと素人老人は仮定したくなる。そして、とりあえずの試行錯誤期に入る。
 で、主流は教養を駆使してなんとか体裁を整え続けたけれど、文書管理すらいい加減な"体制"が長持ちするはずも無くで、各地の勇ましいのが、それぞれ自己主張するようになりかねない時期すら到来させてしまう。
 各地の努力がそれなりに儲かり続けていれば、他人のごたごたに関わることもないとかで流されたかもしれないが、多分、色々大変なことになっていたし、一応中央集権の都合からする税制が敷き詰められた面も無視できないから、無理が各地へと伝染もし・・で、各地はうるさくなるばかり。どうまとまり感を回復できるか、その試行錯誤が今でも、続くのは、そういったリアルな歴史展開記述を怠って、古代の試行錯誤の都合上こしらえた文献に権威を与える事情の相対化を怠ってきたため、と歴史素人からは伺える。
 まとまり感を達せ出来て、各地性も温存されるということであれば、USの各州のあり方よりも他所の各地にやってみたいならどうぞと進められそうに思える。
 ただし、全責任を負いかねない現代版発想での求心点を持ちいる考え方には修正が要る。
 列島はたまたま、そこらは現状クリアできていると素人老人的には察する("王様"を使わない)。
 今も少数支配を形式上、否定的に見なす都合から、選挙で選ばれたのだから手法を用いるような工夫が為される。
 でも、実態の極端格差蔓延で少数支配の一面が濃く出がちにしている世の中、論の無理はそれなりに気づかれるようになってそうだ。
 ただし、少数の担い手諸氏が、乱暴狼藉系と入れ替わったりするなら、それはそれで大変な問題を生じさせる。ヒトの世は続いても、今同様にあちらこちらで乱暴なことが絶えないようなことになりそうだ。
 今は体裁のみせびらかしに無理が来て、とか無理をさとられないようにで、諜報網・事情を使いすぎて、混乱を各地に撒いてしまっている。超大国のアイデアが不足していた、と素人老人からは指摘するしかない感じだ。
 ただ混乱させつつ、力技も駆使しながら広瀬本の言う"ロスチャ"脈は民主化に加担してきたことも、素人的過ぎる楽観かもしれないが、指摘できる。
 しかし、現代の人々は犠牲を相当に厭(いと)うほどにヒト集団ならではの成熟性質を各地で示している(日々のワールドニュース参照)。
 心配=ヒトにとっての必須の警戒心発動が、武術系娯楽やスピードを競うような娯楽を受け入れることは通常のことだ。それだって固執するのはごく少数になりがちにしている。
 ヒトはいい加減だ。雑多に生活し続ける。
 それらが包含され合って、いつもの巷として成り立ちうる辺りの中でのバランスとかについては、各土地柄にとっての、試行錯誤が形として今を形成させてしまいそうだ。
 面倒見切れない数の人々を仕切るタイプのグローバリズムを志向してしまうだれかが勘違いしたまま候補として登場することくらいはありえそうだけど、それだって余程の偶然が重なったり、"推し"勢力の偏りと思い違いがセットになったりしないと、ありえそうにない。
 いつでも暫定的知識をたっぷり身につけて、わかったつもりの程度において、大胆なことを成し遂げてしまったりがありうる。けれども、時代とともに、陳腐化することは避けられない。ヒトにおける智・知の不思議な辺り。
 列島の歴史も、そこらを遠ざけて試行錯誤可能とはしていない。
 なんとかまとまり感を達成できて、列島をお互いが共有の観念にできている。
 しかも、各地での試行錯誤を無茶なタイプで制御したりはしていない。
 一方で、利害の今ということでは、だれかが得して、だれかは損してるとかタイプの軋みは単調に生じさせやすいために、政治・行政がそういったことの利害調整で時間を忙殺させかねなかったりする。
 各地の中間段階である国々間でもそれらは生じるから、ヒトの観念の成せる業(わざ)ではあるけれど、観念ゆえの並行的副産物も伴わせがちだ。
 理論的模索を面倒くさがる勢力がせり出すと、埒外の位置を求めつつ、あらゆる案件を市場次第ということで放置して競って勝った方に当面委ねよ任せにして、自らの判断がもたらす責めの辺りには付き合わないで済む方を選びがちにして、巷の混乱を招き易くするとかの一面も今時、指摘できそうだ。
 統制し過ぎても巷の生活は窮屈になってしまいそうで、中央集権発想からするまとまり感保持と、各地性温存策の並存の一般論はそれなりに通用しそうだ。

 


   川柳もどき

    ベレーザチームの若手DF池上選手は前十字靭帯損傷と半月版破壊の怪我を負われたそうで、全治9ヶ月とのこと。
     医療知識ネット上には、ひねり方がその主要な原因との指摘。
     トレーニング中では審判の代わりに無茶な動作を制御させうる管理部門が要る。
     フィジカルなトレーナー諸氏とかコーチ、監督がそれに当たる。
     治るにしても、9ヶ月は長い。
     男子でも十分に起こることなので、動作上の工夫など聞き取り、データ収集などから解決策を導き出してもらいたいものだ。
    ところで、FOOTBRAIN番組に登場した東大チームのステレオ映像の3DCG化技術は、GK動作に限らず、自らのゲーム中の視野が2D的に受け取り易いということで錯覚も含ませ制約となってしまう辺りを、3Dの360度展開から自らの動作振り返りが可能になるということでは、
    そのソフトが使っているオープンソース系なのかステレオ→3D変換のライブラリとかを使ってプログラミングに使えるコンピュータ通のサッカー現役な若者達は、
    東大サッカー部とコンタクトをとってどんどん応用してみると面白そうだ。
    PCと野外動物生態観察用の小型カメラ二台(どこに固定するかで固定道具も)でなんとかなるようだ。