連載は続く~ SF掌編『猛暑の中、もう少し歴史の流れなど探って、食す』編


 進化を進行方向が含ませる順など想起しつつ優劣含みの発想のように受け取りがちにしてしまう場合、呪術の現象については宗派宗教の表象性からして劣っているかのような整理を為される場合も無いわけではなさそうだ。
 ところが判明している歴史知見上の経過としては、表象性をより濃く帯びた宗派宗教の営みがそこに依存してこその組織や維持のための資金なりを得やすくする方に利くということで、更にそれに依存するような表象形式を採用し続けて、地表面各地でのそれら営みはその独特の表象性を切り離すはずがないくらいの事態を成熟させてしまっている。
 一方の呪術はインプット・アウトプット・フィードバックの一段階程度をいつでも想起させて物との対話を欠かさず事態観察に励むことで人々に説得力を働かせようと日々努力してきたし、その表現型は、時にエキセントリックな様を見せるようなことがあっても最終的にもたらされる事態の整合性として決着がつけられるため、それなりの指導層自体がリスクを追ってしまうような事象を継承させ、それゆえという観点も可能なくらいに、インプット→アウトプット→フィードバック→・・の経路について要素の厳密な考察へと向かわせるバイアスの方がより逞しく育つような事象ともなって後々には、そこから今日の分析できたり細分に観察できるがゆえの達成を生むヒトが成すタイプの雛形をもたらすことになる。
 ヒトはつい考えたくなってしまうその癖のところを呪術発想系はインプット・アウトプット・フィードバックと物性なりの性質の諸現象発現の引力をなんとなく効かせていたことが考えすぎの暴走を或る場合には巧みに制御できるようにしてくれて、今日でいう工学的暫定的な形化をヒト世界に成せるようにしてしまった。
 そこらからして、数学こそが真実を探らせるという勘違いに気づけとは素人だから言えたものではないけれど、工学≧数学だからこそと素人流に流れていただけるなら、なんらか数学的手続きを経て形式化できて物たちを介しての形化が成せて世の中に、それなりの利便を密度濃く浸透させえたとも、見て取れそうではないですか。
 先週と今日再放送の両方が同じだったガリレオ番組の"自己組織化"特集の中でも、暫定的に押さえて形化の物理側面からの接近の厳密化、精緻化を目論まれており、当然、その線には無理が少ないのだからそれなりの達成へと至らせると素人(それプラス老人)でも想像しやすい。
 物理現象を語りつくす覚悟とことばにするとなんて大げさなとか、文系を持ち込まない方がとか心配される向きもおありかもしれないけれど、覚悟というたまたま使ってみてどう感情に響くか素人流に試してみたかっただけだので、それは流していただいて、語りつくす、考えることの可能性を探れるならば、考えること自体が誘う広大無辺感を上手に選り分けるようにして考えをたどれるならば、いくらか真実、実体に近い辺りをかすめるかも、と素人は勝手に決めつけているけれど、素人式の決めつけには違いない。
 片手間にはその方向性をいつでも頭の片隅に活性させておいていただけると有難い。
 食って家族を養ってしかも工学的に一応の形化を成せるタイプ諸氏でいてくれてそのいっぽうで、の辺り。
 素直に(と大幅に端折った素人流表現だけど文章からニュアンスを察知していただけるとありがたいが)現象と向き合ってサイエンスされている諸氏が自らの研究の状態を説明する場合、観察対象をどういった手法・道具を用いて、どんな風に観察して、それをどういう具合にデータとして取り込んで、それを更にどういう手続きとか過程を用いて処理できて、そこからどういう知見を得て、それが既知との照合からどういう検証として記述できたりが可能で、そこへ更に自らの関心がどうこうで、その観点からのデータ、事象はどう見えてくるのかなど諸々を語ってくれるわけで、これから研究に入る若者諸氏にとっては研究で使う諸々(道具だけではなく思考プロセスとかも)が明解に解説されているような塩梅にもなって、参考にも自他にとっての反省にも使えて、予算とかを考えて自ら事に応用思考できてしまうだれかたちもいないとは限らなそうだ。
 工学的発想からだと、なぜ今カオスになっていない地球とせめて生き物たち、という視点を持ち込もうとしない。
 実体、真実を探る観点・発想からすれば、長年月が徐々にカオスへ誘っている過程だったと地球史なり宇宙史を振り返らせるのだろうか?と素人はむしろ自己組織化へと収れんさせやすい現象の方の観点採用で応じたくさせる。
 番組ではそこらを自己組織化ということの顕在へ誘う都合からか、現秩序の不思議を触れずに、自己組織化の華々しさについて語られがちにしていた。

 ところで、呪術の凄さはわかったけれど、宗派宗教はじゃ、ただ今時の人々にとってはお荷物なの?という方へ誘ったかもしれない話に、オルタナティブを提供しておきたい。
 ここらは列島の古代史が役に立つ。
 今の人々からすれば相当にいい加減に受け取れそうな列島での古代以来の方の宗派宗教とやたらとお金儲け上手とかヤバいお金の動かし方とかで話題が目立つとりわけ明治以後の新興の宗派宗教をしっかり分けて扱いたい。
 下敷きとして地表面規模での19,20世紀事情を広瀬本発想から押さえておきたい。
 古代以来の列島での宗派宗教系は明確に中央集権化に向けての活動母体の一要素だ。
 大乗の発想が育って以後の仏の動態が持ち込まれた。
 中央集権化を説得しても理屈でうまくいくはずがないと悟りやすいくらいことば使いの熟練諸氏たちは、犠牲的な出来事を誘ってまでそのこと(中央集権化)に関心を傾けることができた。
 たとえば観世音寺東大寺・下野薬師寺を持ち出せば、歴史事情通諸氏においてなら直観を誘えそうだし、素人老人を含むより多くの諸氏においてでも、その有名度合いからそこと関わる重要人物のだれそれくらいを想起しやすい。
 そのだれかのおひとりが、ヒトの観念の置き所次第ではいかがわしくもあり、或いは医療分野の先達とも捉えうる人物であり、そのエピソードを流布される人脈内(政治中枢人脈が核だとしてもその更に外側にも伝わらるならなおさら)においては、新規発明の天皇位へ関心をより深める作用を発揮させ得た。
 人数が多いとはいえ、列島各地の独自に活性を帯びた集団の営みの一つでありそれなりのネットワークを持った旧加耶系の人々は既に自分たちにとっての大集団として疑似中央集権を体験済だったから、その勢力に更にまとまってしかも別の人脈の下に結集しようじゃないかとなれば、心穏やかにならないだれかたちが生じても仕方ないはずだが、たまたま加耶系の人々は元々交易系の人々の結集に近かったためか、中枢が本格的に敵対したくなるようなことは生じない代わりに、各地に土着してそれなりの自律性を経験して継承していた土地柄では、なぜ?!と強く問われる事態も散発しておかしくない。
 それと前方後円墳流行現象から探れる列島各地の自律的経営諸氏にとっては、中枢組織を育て継承している加耶系の人々の営みなどを想起しつつ、えっ、またなにかしかも、強く中央になびけという仕組みを採用するの?と当初は思わないで、各土地柄の指導層の協力関係の下を受け入れていたのだけど、追々、不都合なども生じさせて、中央集権化なんていう夢物語に付き合うなんてばかげてるよ、とできることなら、勝手していたい脈も活発化して色々工夫を重ねるようになってしまう。
 だからそういった元気で、依存する気のない中央集権化にとっては必要十分な条件に充ちた集団の営みの土地柄こそが、当初から幾歳の時期以後の混乱の素を形成しがちとして、しかも、中央集権化思惑の中枢がそこらのねじれを知らないはずがないので、そだてるべきだれかたちを生のその時点時点で把握しながら、ただ乱暴狼藉勢にはその手段に応じた対抗手段を用いるような場面も生じさせつつ、大混乱の中、志向の芯を失うことなく、今でいう国家概念と瓜二つではないかもしれないけれど中央集権化でこその辺りを意識して、大変な紆余曲折の試行錯誤を経ていたその矢先に、勘違い暴走系が率先していた頃の欧米脈とその当時の宗派宗教系との絡みとのもみくちゃ上の工夫ゆえの構成を経て、恐らく明治は成った。だから以前ふれたように素人老人からしてもみょうちくりんな事象を引き起こしまくり、間もなく意識出来ていたかどうかはともかく即微調整にも入ったりしている。けれども、猪突猛進、諜報乱脈あたりまえの当時の欧米のりとの付き合いも避けえずトンでも役を引き受けて(そこらは裏面史として今だって実は解明中だったりする。大筋は解明されたりしている。列島出版の元気なところをつまみしても少しはわかるけれど更に、NHKが放送した列島では陰謀論の中に登場するだれかのように扱われてしまう外国の要人のおひとりのドキュメンタリー(インタビュー)なども若者たちにとっては参考になりそうだし、広瀬本にざっと目を通して、やつらは過激派だし、民主主義の信奉者でもあるな・・(首肯はできないが)とかわかりにくさをそのまま残しつつ目を通しておくことも参考にできる。ちなみにその内部の人脈からスファラディ、アシュケナジの不思議解明の知見も世界に向けて紹介される。21世紀の試行錯誤に19,20世紀タイプの面倒を持ち込ませない工夫への1ヒント)
 19,20世紀タイプのノリが、列島の特殊性に気づいて古代以来の宗派宗教の資金巡りに興味を持って、諜報末端として使いやすい新興(宗派)宗教にも同じ優遇をという新手のなんとかを持ち込ませてしまったと素人老人は広瀬本応用の観点から持ち出せる。
 旧宗派宗教系は欧米ノリの近現代法制に熟達していない。今もそうかもしれない。
 だから列島でも新興宗派宗教がいつでも乱立するようになったし、租税上はかなりの優遇を得られやすい構造を同じようにしている。
 隙とみるか、工夫が足りないだけか。素人老人観点からは臨済宗僧諸氏の医療面での活躍は証拠も残ってそうなので、江戸初期のいつごろかに区切りを設けて、それ以後の公式に宗派を認められて優遇処置を得ている宗派は列島の事情をたっぷり理解してもらって(歴史を知ってもらえれば必ず首肯されるはずだから)優遇を得られなくなることにすればシンプルなのではないか、と推理している。
 いい加減な古代いらいの宗派宗教は生活へ形式を押し付けていない。定期的なこともあなた任せで江戸以来の風習だとしても、無理なく受け入れるものだけが残ってきた。生活の邪魔をするものは廃(すた)れさせてかまわない発想だ。
 けれども諸外国において、欧米発想の宗派宗教系は生活の多くに関与していくタイプだ。
 だから他の宗派宗教の風習が邪魔になる。そこで・・にしがちとならざるをえない。
 ないしそのいい加減さを受け入れがたくさせた可能性も想像できる。
 そこらを素人考えに過ぎないが、イエズス会な諸氏はきっと発見できたはずなのに、それを自らのものとするには心はそれほど強くできないから、本筋を変えずになんらか採用か参考にした程度できたから、今でもそのいい加減だからこその真髄を生かせないままにしている。
 列島仏のいい加減さこそが実は・・・の辺りに感銘できれば、どこそこの宗派宗教にこだわることなく、でも形とかまとまりとしての仲間関係を支えに、排他性を誘うとか、敵と仲間とつい作りたくさせる発想とかをどうでもいいことに向かわせうる。
 その時に危ない感じを感じ取れないだれかにしがちにするのはいい加減なだれかたちではない、ということにも気づけるはずで、巷でいういい加減だと大局大雑把で、危険きわまりない大人たちということになりかねないのだけど、列島仏が一見見せつけ続けるいい加減さは多分古代以来の仏の発想についての列島版解釈と見なせるのでは・・というのが今のところの素人老人の見方。
 危ないと察知しても仏の側ならではの行動様式が作用しがちだから、世俗のたとえば公務系なり不良たちの中の危なすぎは禁物をしっかり踏まえられている連中がちらっと注意報くらいは発揮してくれるし、一般も、ちょっと昔なら、危なすぎ予報や注意報はお手の物だった。例外もあるから、そこらは理想化しすぎもいけない。

 


   川柳もどき

    5℃という間隔・感覚
    たとえば
     30℃を超えてかき氷、なんてね
     25℃を超えたら・・もちろんアイスクリーム
     15℃は井戸水とかを思い出されるか
     その温度だと冷水として丁度おいしいらしい、実際
     ソーダ
     ここらの真実・実体に近い研究のありやなしや
     きっとイグの方でトンでも受賞なんてことは・・・ないか・・
     今時、37、8℃はたまにの出来事になってしまった
     おそるべし!・・と驚くことは簡単
     というより
     その時にうまいのってなに?
     を考えてしまって、味わってしまうのが
     ヒトのおそろしさ、じゃなかろうか?!