連載は続く~ SF掌編『猛暑は続くよ、だからか前線の位置がやけに気になり』編


 朱に染まるその朱には水銀朱(硫化第二水銀 HgS α型)、ベンガラ(酸化第二鉄、酸化鉄(Ⅲ)、錆 Fe2O3)、鉛丹(四酸化三鉛 Pb3O4)などが考古発掘時に仕分ける3つと紹介されていた。
  https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/117/5/117_5_948/_pdf

 仮に鉄成分からみならば、とりあえず入口であり続けた北部九州域の特異性くらいを想起できそうだ。
 人口動態の古代版に決定打は未だないようだけど、今時の中くらいの都市人口が列島でもヒトの活動を認められる諸地域の合計だったらしい仮説を持ち寄るならば、その多くて数百万人の人々のことを想定できる6、7世紀頃に至る3世紀のごく初めころならば、鬼頭氏の推計では数十万人単位となり、列島にも集住地と閑散とした土地の混在を認められるとして、今の人々の感覚だけではなく、実際的にスカスカ状態を見なせるような状態となってしまう。
 はたして400年契機についてどう仮定を置くのか次第では、人口増の劇的変化ゆえのスカスカ系の土地へのお誘いとかが充分にありえたあたりを想定したくさせる。
 しかも加耶勢は鉄の交易系だし、九州の呪術系と比べればはるかに統制を集団の営みとして取り込み慣れた人々を想定できるから、鉄取引とかで尊重できる相手と見なせる九州勢とともに近くでよりは遠くで、を恐らく選んだと思いたくなる。
 それに列島各地の安全圏を営んでいた各土地柄にも鉄取引上の相手がいたと想定できるので、たとえ僻地的な土地柄への移住だとしても事情通諸氏との交流の下、集団的な移住と定着をより安全に効率的に成し遂げ得たようにも想像したくなる。
 九州勢はそれなりの権威づいた集団の営みを各土地柄とのネットワーク上、試行錯誤していて年季も積んでいたろうけれど、交易上交わし慣れたことばを用いて列島の各土地柄とも親しく慣れた感じでやりとりできたことは、その文化的達成度の実質的権威とか憧れともなりうる輝き発信ゆえに相当に効果して各地へ波及しえたようにも想像したくさせる。
 乱の後、安定を取り戻し両性について分け隔てなく指導層を輩出できる下地を持つ九州勢であっても、輝ける勢力的移住を喜んで引き受けたとしても、ちょっと近くで、よりは、遠くで活動してくれるとありがたいかな・・くらいの思惑は生じたとも素人老人的には考えてみたい。
 つまりかなりの量の加耶な人々がしかも輝ける文化素材とともにやってきて、その影響は列島各地の土地柄なりの営み圏へも徐々に広げてしまうようなことになった。
 ある程度放っておけで、九州の北部圏ネットワークのみ機能させることに精力を傾けていたリーダー層にとっても、前方後円墳のような労力ほかべらぼうに費やすタイプの事業が各地に流行って、見ないふりはできなくなって、一応権威筋として、なんらかネットワーク形成なりを模索していたかもしれないとしても、後のあることがきっかけで生じたいきなりの中央集権化事業を成したくなるほどの中央集権という発想は多分、薄かった。
 むしろ中央集権?ということでピンときやすいのは加耶な人々だったと素人老人には思える。
 列島は権威筋の北部九州勢と或る長期間にわたる流行を蔓延らせた加耶な人々の集団の営みが、列島各地の独自の営みを束ねるような2,3百年間を経ることになった、と素人老人は今の時点では見てみたくなっている。
 だからこの時点では、神社呼称の統一化などまったく将来のおぼろげな像すらないと見なしたくさせる。
 もちろん、加耶な人々の集団内の内輪の事情としての継承性を持つなんらかが神社っぽかったとかはありえそうだ。鉄とかの産地については切実な即対応を可能にする知見・技量をしっかり継承してきていたように想像する。そこを何が起こっても忘れずに済むように祭祀的なんらかのテクニックを持ち込むタイプの工夫が為されていたと考えたい。
 対中国外交上の権威筋九州勢と交易系でそれなりの秩序試行錯誤の成果を集団の営みと成し得てそのまま集団として移住してきた加耶な人々と列島各地での数段にわたる渡来後の独自の営みを継承していた各集団・土地柄という偶然が、お互いを認め合うとかの余分な手続き以上に、ごく当たり前の通行意識を持たせて、多分、物品流通のネットワークくらいは即構成していただろうし、スカスカよりは少し人口増となったとしても、スカスカには変わりはないから、コンビニに行けばなんとかなるで諸外国の人々にとっても使い慣れた店が目にできる安心感のようなことが、その当時ありえたかどうかはちょっとわかりにくい。でも、事情通諸氏はいつの時代も育つものだから、そういった活発な連中が歴史には残らないかもしれないが通用しやすいことばをお互いのものとし、またそれなりに生活に響く物流も為し得たくらいは想像したくさせる。
てそのまま集団として移住してきた加耶な人々
 便利なことも含む色々な試行錯誤を経た知見を持ってやってきた加耶な人々はだからこそ前方後円墳を広範囲に流行らせてしまった。なんらかそうすることで知見の数々を得やすくして農作業ほか生活全般、各土地柄の運営上でも役立てることができたりがありえたのでは、と素人老人は想像する。
 そこらを権威筋ゆえかもしれないが、でしゃばることはしないで、追々、頃合いを見て、九州勢ここにありくらいは提示試行しはじめた、といったところではなかろうか、とかかなりいい加減にはなるが想像してみたい。
 ただ平和な列島内輪事情では済まされず、半島事情ともどうしてもかかわる。そこらは単に鉄取引利害だけ想起しても多くに気づける事態と察する。
 でたとえば百済の人々からは仏教系ほかのやはり文化・文明系の刺激を得てしまう。
 ここらも多分、ルートとしては鉄の民間ルートもあったろうけれど、それ以上に権威筋ルートが機能して、九州脈のだれかたちがより触発されて、これで行こう、とかになって、伝承のための物語作成を昔流の派手な事件ものにしてしまった可能性は今時のドラマ事情の魂胆とかを想起すれば、今以上とか思えないだろうか?と素人老人は暗示してみたい。
 ただ、昔であれば昔であるほど、実際的な解を求めつつ今のような発想を絞り込む思考の経路試行錯誤流を試し損ねていたと思えるので、実際にはいい加減だったり確実だったりがこんがらかるように混じってしまうタイプでの試行錯誤としがちだったと思え、だけどいつでも芯のところは、今時のメディア報道、ネット情報につい誘導されがちな観念肥大症っぽいあり方よりはより実際的に確実ななにかを求めていたことは確かだと、素人老人ゆえ思いたい。はなしことばを使いこなしていたとして、それは歴史に残りにくいことからも気づけるように、つかっている本人たちにとっても頼りない実際を意識させる。だから象徴的な証拠として代用を用いる。そこらを現代の見方から幼稚だったり、原初的だったり、大雑把だったりとかで括ると大間違い、ということだ。
 狙いは確実さを求めての所為だ。
 でもことばとしての継承も要るということで物語にして再話の厳密度継承を試行したりがありえた。決してファンタジーが目的だったわけではない。底流としては生きていくことに切実だった、と想像したい。
 後に誕生日がそれ単独となって形骸化したように、元はそれと合わせて記憶のなんらかとして貴重だった。そこを抜いてしまった現象の一つだ。
 死の間際、ヒトはだれもが素直に!リアルに!なれる。
 寝てばかりで尻の肉厚のところが痒(かゆ)くてしょうがない、でももう思うようにことばの一つ一つを明示的に発音したり、それらしく手足を動かしたり表情で促したりができない、でもそんな外見死にぞこない状態であってもヒトの内側では、しぶとい筋がピーンと張っている限りで、最後の力をふり絞ればくらいの余力くらいは残しているものだ。だから、尻の痒さをなんとか気づいて、そうしてそれに相応しい最後の別れの時くらい、真に気の利いたことを親族なんだからしてくれたっていいじゃないか、と強く思っている、にも関わらず家族は家族らしく愛の姿を表示すべしでやたらといかにもな体の箇所を抱いて愛のことばを囁いたり、嗚咽したり、さすったり、ぐしゃっと握ったり、ほおずりしたりするけれど、ちっとも痒い所をかいてくれるやつ一人もいない。わたしゃあ、とにかく痒くて痒くてたまらんのだよぉ!!!!かいておくれぇ・・・がまったく通じないまま、お亡くなりになってしまう。ヒトのなすことの表象性について、ヒトの場合、死のごく間際くらいでは、気づけるようになっているけれど、他の連中はまったくそこらは眼中になし、ということだろうけれど、こういったエピソードを聞かされると、素人老人などはなるほど、自分が他人に対して、ということを言ってしまうと、お前が先だろう!と一喝(かつ)されかねないが、たまたまだったらありうるのだから、充分に気を付けたものですね、とかCMっぽいが、そう言い訳くらいはしておきたい。

 とにかく鉄へのヒント発信を今の時点では、少し素人流ではあるけれど、列島古代の歴史の線に乗せられそうに思えたりが生じた感じ。

 ここらは列島出版事情がたとえば欧米で当たり前の知見広瀬本内容について、知らないことにしてきたことを(人口のほとんどという意味での一般は知らず、だからこれから世の中にうって出ようとする若者たちの思考のどこかしらに基本知見の一つとしてとりこめていないまま大人たちの会話の世界に入り込むようなことになりかねない。一方、株とかを大量に動かす方で関われたごく限られた"上流"層については、恐らく近衛文麿氏の複雑な知見収集力をヒントにしただけでもそれなりの情報を得ていたと思える。ただし広瀬本的な高みからの考察を可能にするように仕込んでいたかどうかは不明)、一般が目にできるようにしてしまったように、文庫化して、たとえば『古代の鉄と神々』、『古代の朱』、『鉄から読む日本の歴史』として、学生が簡単に手にしやすい値段とはいえない文庫本価格にはなっているけれど、読む気になれば入手しやすくなっているだけでも貴重なことにかわりはない、ということで、列島出版は大変とかの話もネットでは流れているけれど、頑張り続けていることも確かめられる。

 


   川柳もどき

    舌が肥えたか
    葉を食い尽くして
    ツルだけになっているのを
    かなりの力でくわえ込んで、その音
    がこちらにも聞こえてくるほど
    雑草を丸めて
    投げて
    それに喰いついた
    懐かしい日々
    やつらは、今、
    決してそうはしない
    ただ、別の池のソウギョの一匹(7、80cmとでかい)
    は手のひら、ヒラヒラを正面から眺め眺めて
     すすぅーっとでかいからだの側面をこちらに向けたまま
     じっとしてしまった、ので
     無視しつづけるんだな・・とこちらも
     知らんぷりして通り過ぎた