連載は続く~ SF掌編『猛暑続き、汗たらたらに空想は昆虫の如く舞う』編


 ヒトは細々と重層的に助け合える関係性を築くことくらいならできそうだ的話をして、それだけで済みそうもない辺りをほんの少しだけふれてみたい。
 新たな出会いもか細く人生の中で生じ続ける。ヒトはつい助け合ってしまうものだ。
 するといくつかの過去からの再会が起こりうるとして、その場は新たな出会い関係との遭遇だから、新鮮な出会い関係にとって強引な再会をもたらすかもしれないし、再会が場違いに思えるような気持ちのノリとも関わる再会をもたらすかもしれないし、年月を経てもどうってことなく出会えることの難しさとして表現できるのか、思い込みなのか、とかそういったことについては、もてない素人老人がことばにすればリアリティを欠くように受け取られがちにするだろうし、モテモテ系なら、そうは言っても、わからない・・のような受け止めを誘うかもしれないし、とにかくヒトはつい色々考えてしまいがちにする。
 そういう事態を子供や若者年代でも想像くらいならできそうだ。
 そして大人たちからも学べる。
 だから新しい出会いにあふれているヒトのありがちな人生を前提に、再会が何日か後だったり何週間後だったり何年か後だったりしたとしても、それぞれにとって新しい出会いが充分にありえて、そこに再会の機会が生じるような出会いの場、瞬間については、さよならとお互いが言った時点で(ヒトが出会いを重ねていくことを踏まえた)観念として共有できることばの交わし合いは、不可欠のようだし、多分、多くの諸氏がそうやってヒトとの関係の重層性を性別を厭わずの関係保持として工夫されてきたのではなかろうか。素人老人のようなもてない系がそれらを言ってもリアリティが薄くて相手の諸氏に印象づけにくい、ということはあるから、そういう危なっかしさも共有し合える関係性が大事そうだ。


 ヒトは考えられるようになったことを客観的な進化というニュアンスよりは、優劣の優の方で受け止めがちにしていないかどうか、といういかにも老人の或るタイプ的受け止めを指摘してみる。
 なにしろ考え続けても来たし、これからもそうし続けて、恐らく到達点は未然ということなりそうだ。
 否、むしろ、到達点、って???・・。の方に近いあり方と(素人老人ゆえ)空想したくさせる。
 とはいえ、形にして実用にもしてきのだし・・。そこらが肝心なところか。


 ところで猛暑、ならば、と毎夏高齢ならぬ恒例と水に親しんだりするわけだ。
 とにかく老人身体、競い合いには誘われない工夫を頭のどこかに置きながら、自分流の楽しみ方を試したりがそれなりにいい時間の過ごし方になったり。
 老いぼれ式、泳いで猛暑を過ごす楽しみ方その1
 万が一の水難に遭遇してもなんとか10分位はプカプカしていられる泳いでいられる耐性を呼び覚ませるまで、水と老体とを馴染ませる。
 具体的には、いつもの25mプールをやってきました夏!という初回では、片道25mをどのくらい疲れて泳ぎきれるかを試しつつ、慣れの度合いを探る。
 手足の動作と水の物質性との馴染み具合を探る。ここらの馴染み具合がそれなりになってくると25m程度だと息継ぎも相当に楽になる。初回では、ふーふーといった感じで、それなりに苦しい。
 通いの2、3回目くらいになると、それなりに苦しい寄りは水に浮いている気持ちのよさを味わえるようになっている。
 手の一こぎの達成感とか水とのなじみ方を探りきれるほどの達人ではないので、そこらはあくまでも自分流の範囲でなのだけど、水をがばっと掴んで後ろへ押しやる感じの進む感はそれなりに気持ちのいいものだ。
 手・腕はそうだとして足が水との馴染ませということでは、素人にとっては難題になる。
 水に乗ってという感じで速い遅い関係なくスイスイと泳げてしまう諸氏は例外なく足の方の推力が目覚しい。激しく見えないのだけど、スイスイとイルカたちの一万分の一くらいの推力くらいは発揮されている(多分、オリンピックの金メダリスト諸氏とてイルカたちと比べてしまうなら大したことないはずだ)。
 だから素人で老人年代もそれなりに工夫できてるかどうか水との感じをさぐりつつ気持ちよく泳げている感を楽しんでいる風だ。
 そうこうするうちに、5分間ずっと水に漬かりっぱなし、10分間ずっと・・、20分間と今よりはちょっとだけ年齢がかさんでない頃は試せていたけれど、老体年齢ともなると、5分間あたりで少し満足、となるから困ったものだ。せめて10分間くらい浮いてないと消防車だって来てくれまい、なんていう心配をして泳いでいるわけではないけれど、実用的には、せめてそのくらいは浮くか泳ぎ続けていたい。
 老いぼれ式、泳いで猛暑を過ごす楽しみ方その2
 先にもふれているように、とにかく水の物質性を泳ぎと絡めて人間関係のようにすり合わせていく過程を楽しむ。
 素人老人にとっては平泳ぎがそれをより感じるのだが、カエル泳ぎの真似をして足のけりがカエルほど威力を発揮してくれないことを悔やんでもしょうがないはずが、老人ゆえか、情けなくなるほど、安定的に定位置分の水量を後ろへ押し出して前へ進むという当たり前が達成感を得られないままにしがちだ。
 それでも2、3回とプールを訪れることで、水の方が誘ってくれるのかどうか、とにかくある程度は馴染めるようになって、だけど安定性のとこで、すーっと推力を得たと思えば、次は、何気に無駄けりしてんじゃ・・とか水を掴みきれてない感を味わったりで、そこらを試行錯誤と大げさに言ってしまうけれど、そうできていること自体が結構、老人にとっては楽しい。
 こうやって体の記憶を呼び覚まさせて、忘れて、また来年来て、思い出させるを老人にとっての残余、繰り返す。


 さて列島古代史の話し。
 岩波書店刊『前方後円墳』中、松木氏が紹介してくれた年代のうち素人老人が興味を持った年代をここに持ち出して少々。
 魏志倭人伝後漢書倭人の項目から2世紀後半期での倭国
 ◇2世紀後半
  以後考古知見として受傷人骨がそれなりの数出土している。
 ◇3世紀(201年~300年)
  3世紀に入って受傷遺体・防御的住居はほとんどみられなくなる。(p139,140)
 ◆285年(扶餘勢南下による弁辰勢から加耶勢への鉄産地勢力変化)
  この時期以降として箸墓古墳や現山城町の椿井大塚古墳造成
 ◇3世紀後半~4世紀
  この時期に前方後円墳が列島各地に広がる。(p144)
 ◆400年(加耶勢が二手に分かれて移動[①大加耶域②列島近畿圏(古市・百舌鳥域)])
 ◇4世紀中葉まで
  この時期までは古墳からの人骨に女性が多く含まれていた。
 ◇4世紀後葉以降
  この時期以降では中心の埋葬者は男性になる。
 ◇370年代
  この時期には実践的武器が出土する。。

 そこに素人老人は森田氏の氷川神社と鉄関係の話しをヒントに、神社とかの文字を使う系統と鉄との結びつきは濃そうだ、と勝手に想像してみた。
 そして真弓常忠著『古代の鉄と神々』(学生社 第三版 '12)の第一章 鉄穴(かなな)の神など参照もしてみた。
 第五章 倭鍛冶と韓鍛冶の神々は未読
 水源だったり集団が食って活動し続けるための必須事項をある集団の営みが確保し続けるには、場所の記憶も不可欠だ。
 時期とか出来事性が関わるような場合、だれそれが生まれた日に何が起こったとかで記憶し易くするし、だれそれが亡くなった日でもかまわない。
 特に場所にこだわるならば、そこで定期的に今で言う祭礼の類が繰り返され続けることで集団の記憶の精度を高めたままにしておけるしそれが神社だったり寺だったりしてシンボルの色々な機能を貼り付けておける。
 生まれた土地ということで、仕方なしの移動のことも多々ありえた自然災害と上手に付き合う必要の年月ばかりだったと想像できる列島生活において、産土的発想も必然的に育て合ってしまったと想像したい。
 その中で、鉄からみかそれプラスほかのなんらかにおいて神社か神か、社か、用語を特定できる営みを加耶系か半島・列島鉄取引と関わる人々は伝え合った、とかの空想を持ち出してみたい。
 男に重心が向きがちな加耶勢であり、しかも頂点の人脈が成り立つような人選も独占というタイプではなく、頂点の人選は他の人脈が担っていたというのだから、そこらも列島を振り返る場合に大いに参考に出来そうだ。
 それと以前ふれた数の大小はケースバイケースということで、とにかく殉死を伴いがちにする風習を濃くしていた。
 だから対中国外交を担っていた人脈が、ことばの問題を早期にクリアして、全国ネットを展開できていたなら、女性問題ということでは、遥か昔から女性も男性ものごいっしょ政治が当たり前を継承していたと充分に想像可能だ。
 けれども、多数の占め方が相当に偏ってしまったかして、政治的実権は旧九州勢(対中国外交の担い手人脈)がなんとか掌握しつつも各地の煩型として、人脈内の濃度には相当に違いがあっても既存ネットワークとしては前方後円墳以来の仲良したちが色々煩くできたと想像したくさせる。
 ただし、近現代流の武装して執拗にどうこうするタイプではなかったから、中央集権化の試行錯誤まではなんとか緒についたけれど、中央集権化を古代の加耶系発想では成してしまっていたのだから、どういう列島混住環境を共有できてそこからの中央集権化の必要性を共有できたか難しかった可能性も指摘し易い、と素人老人空想は指摘させたがる。
 しかも身内にしても中央集権化の必要とその成った状態を受け入れることの、我慢できる耐性の辺りはバラバラだろうから、イメージトレーニングとかの用語をたくみに使いこなせていなかった場合、混乱を生じさせやすかったろうな、程度のことも諸氏において、想像しやすいのではないか、と素人老人は察する。
 だからその後のどうてそうなるの?の展開を列島では避けようが無かった。大変なプロセスをたどらせた。
 今の列島の人々は中央集権化後ということを多分、その恩恵面と困った面を合わせた上で、とりあえず受け入れてくれると察するが、地表面の各地では、列島の2000年程度が成してきた試行錯誤の年月すら経ていない土地柄が沢山あるし、逆に経験豊富だけど、新参系の試行錯誤の猛威に振り回されて今の戦争を意識しての極端な女性扱いを勘違いしたまま採用してそうな土地柄も結構目立つように素人からすると自発的にやんわり改良可能と思える事態が各所に伺えもする。
 地名を文化遺産程度に押さえて、温存しておくだけでも、差別の問題の超簡単な解消策編み出しが後の知見の充実という事態を想像できていれば可能だったと思えたろうしそれだけではなく、列島の今日にいたるいきさつの詳細を再現し易くしままにして置けた可能性大と察する。
 そこらから対自然との付き合い方の列島流くせのあたりを知ることから、可能性を引き出したり制約を引き出して試行の方へ振り向かせることも可能になる。
 いかにも公務員のような働き者が大多数として育ちにくい列島事情の辺りもそれなりに垣間見えてきそうだ。そこらは歴史知見を知って、自らの改良の材料とかヒントにできる。
 (地表面規模において)各地が自助努力と相互交流の高濃度を保っていく直ぐ近くの将来像をイメージできるならば、その土地土地で食をいかに達成していけるかの工夫のノウハウは各土地の歴史を知ることが大いなる参考になる。
 しかも欲張ってそれら歴史のネットワークを知ることで、どういう世界規模での連携が可能かなどのヒントにもできる。
 現構成の世界各国は、19、20世紀を踏まえて、極端な乱暴は避けえてきた仲間達だ。
 内輪もめが戦争になってしまうような土地柄も散発しているけれどそこらの多くに19、20世紀のお土産タイプがありそうな見方はそれなりに可能そうに素人老人の広瀬本読みからは想像したくさせる。
 超大国USを軸に現構成が成っているということでの、しかも弁証法役割分担を採用させる超大国USを支える世界のイデオロギー状況のため、大国の中国でさえ、USの市場原理向きな趨勢があたかも民主主義っぽくほめそやされやすく映るような政治を演じがちにしている。そのほかの弱小国は言わずもがなだ。そこらはだから現構成の成り立ちとして、今となっては相当に無理が生じている、と素人老人は若者達の知的な関心が知的な営みを成し易い環境として育つには、の観点からちょっとだけ指摘してみたいし、ヒトが考えられる方を選んだゆえ、というかたまたまそれが有利に作用して地表面にはびこっているのか、そうではなくて、考えるというよりは、考えることも含めてその支えに協働のバイアスがそれなりに強力に働き易かったからなのかなど反省の機会はいつでもありそうだ。
 ただ考えることがそのまま戸惑いへと誘い易いのがヒトタイプの考える能力と押さえておけるので、それが暴走したままだと、対自然との付き合い上、落とし穴だらけとも言えそうだ。

 

   川柳もどき

    トンボ町長はいるかもしれないな、
    トンボチョウチョウはいなそうだな
    だけどチョウチョウトンボはヒトの間で取り決めた
     或るトンボの種類を言い当てる単語の一つだ。