連載は続く~ SF 掌編『観念上のなにがしを緩く共有しあうことは南米でさえ試行してきている』編


 実際的可能性からしてそこらで満足しておかないと・・・そんなニュアンスから民主主義をめぐる試行錯誤(理念的探索なり実践的試行なり)を"眺(なが)める"ようにしないと、ただちょっとした安定が必須の人々にとっての日々の生は翻弄されがちにしてしまう。
 実際的可能性とことばにできるだけでもそこにはヒト個々がそれなりの実感を込めて様々にイメージとことばを与えることができてしまう。
 実際上の試行錯誤そのものが多様に拡散させがちにする。
 真綿締め系が好いか、露骨な独裁系が好いか。
 どちらにしても、悪(わる)の方で統制を効かされるならより多くの人々ないしどうしてこれを言うしかないと固持するだれかたちにとっては時間的猶予を少なめに不都合な方へと誘われ易くする。
 伝説的なことばの方で解釈できる場合、どちらでも受け入れやすそうだ。
 ここらをとりあえず押さえておきたい。意外と、指導層次第の辺り。
 真綿方式の方がワルの登場へ制御を加え易いかどうかという論点を、真綿方式主催者系は持ち出そうとしてきていない。むしろ自らの試行の含みの代わりに、独裁系の暴走しやすさとして蔭・影に隠しがちにする。
 真綿方式はたとえばマスメディアをとりあえず発達させて、それなりに機能させえている各土地柄でのそれも一つの要素として多くの要素の協働作業がなんとかそれっぽく社会的像へとまとめようと試行錯誤されている。
 ここらをかつてなら、指摘できることすらが危うかったかもしれないなと素人老人は空想してしまう。
 今ならば、真綿方式も独裁方式もどちらも担い手次第だし、民主主義の芯の辺りを伝統的な方から接近するにしろ変化を求める方から接近するにしろ意識に載せることにおいて共有のなんらかを持ち合えている限りで、無茶に走らないで済ませそうにも思える。
 まとめることの難しさに苦心しつつで指導層が工夫し合えている限りで、対話なりがいつも成り立っていそうだ。
 個々の成長を待てないようでは将来の無いことを指導層もこれからの指導層も承知できている。
 成長しただれかたちが、めぐる今と密接な個々の現場を支えることで将来へと連続性を保たせることを指導層もこれからの指導層も承知できている。
 そしてだれよりも巷のだれかたちこそそこらをことばとしては煎じ詰めているわけではないとしても実感できている。
 とはいえヒトなりの観念系が膨れ上がり続ける限りということで、思惑の渦が様々な軋みを日々に投げかけてしまう。
 一年とかで区切ってご破算に願いましては・・・で実際的な営みを信仰の数々に埋め込んできた(観念を操りがちにする)知恵が逆に、時代の流れとともに、宗教の別物へと分岐させて、その観念を共有しようとし始めてかえって対立の源泉にさせかねないようなことも起こったりする。
 実際的知恵の面、要素よりも、それぞれの余って立つ違いの方で区分したがらせて、際立つための観点への置き方が実際的知恵応用から遠ざかるようにさせて、他がやたらと気になりだすような工夫に走らせるのも多分ヒトの観念系のいたずらだ。
 差異系の本体を自覚して、それの暴走方向を選ばないで居られる工夫もそれなり役立ちそうだ。
 かつてを想起できれば、それは確実性への訴えに応えてくれるはずだった。じゃないと生活持続を困難にしかねなかった。
 実際的であることはその論が伝えうるなにがしを実際的時間において一応だれもが持ち合えるところまでことばが練られていないとまずい。
 簡単なことばでだませてしまうことも、だからことばの練りこみとしては中途半端とハッキリ言えそうだ。
 こねくり回したことばのまとまりを念入りに速読して理解して、そんなことをいつもこなせるだれかたちに依存せざるをえない世の中は異常だ。
 そこらを実際的ヒトの観点から共有し合えるならば、もう少しヒトの世の中の営み方への変化のもたらし方にちょっとしたヒントになってくれないか。
 裏方が個別専門家して、関心のあるだれかたちがいづでもアクセスはできる。でも、とにかくその地味な作業をこなして参照可能な状態に更新し続ける作業を担ってくれるだれかたちも貴重だ。
 個々の事情は様々での日々、とりわけ"現役世代"は多忙なはずだ。
 だから個々の参照可能な資料の数々が日々更新されたとしても、だれもにとっての共有しうる資料とはしづらい。
 各ことばを練ってだれもにとって検討するとか更新への具申が可能とかで接近可能ななにがしとして共有して、暫定的押さえ方でもっての共有も暫定の状態で可能になっている動的巷をちょっとだけ空想できると、それなりに民主主義の試行錯誤の状態として、真綿方式だろうが、独裁方式だろうが、無理を少なめにして、無茶へと誘う相当手前のところで世の中の営みが、個々の地味な作業の集積としてなんとか日々の連続性を保たせているリアルを踏まえた秩序観のようななにかしらを各世代でもって共有できてそうにも思える。

 出羽弘明氏による『新羅の神々と古代日本』('04 同成社 "古代日本"を日本国名の無かった時期と指摘されている・・P8)にざっと目を通すだけでも、氏が人生の後半期にめぐりきれないほど列島各地に新羅系とみられる神社の数々を認められるのが現状のようだ。
 素人老人観点からすると、それらを日本国の政府が成り立って以後の統一利害からまとめてしまった結果を見ての事態か、そういう作業以前お残存なのかが、わかりにくそうなことを指摘したくさせる。
 各地への統一作業が熱心に長期間にわたって行われていたはずだから、そこらは余ほど注意して検証しないと、込み入った事態を単調に判断させかねない。
 ただ、半島事情への思い込みからと素人老人に寄せて指摘してしまうと、列島においては新羅系だろうが高句麗系だろうが百済系だろうが、しっかり混在できていて、共存させてきている。巷次元で棲み分けの細部を可能にしてきている。現代に素人老人にとっては当たり前の姿として今の時点で各名称の由来を指摘されて、より当たり前の中の多様を受け止めることになる。
 そうはいっても、表向きの専門家諸氏の学問成果の範囲では列島史としての試行錯誤には大変な混乱を勢力争いとか趨勢を掴めるかどうか不確かな形での提示のままのようにも素人的には受け止めるように誘われている感じで、底をひたひたと流れてきたなんらかを探し出せないことは無い辺りへの言及もそろそろ欲しいところだなとか身勝手な素人老人の空想は継続中。


 各地におけるヒト系諸氏の営みこそが貴重なのだけど、グローバル商売の単調さを求めてしまう趨勢も巨額が動くゆえ波として絶えることの無い世の中の半面を指摘しておいてもそう不思議がられないと察する素人老人だ。
 各地の民族音楽の達人をグローバル商売系の支払い手段たっぷり部門が誘って音楽現象の一面に加担させるような時、今時の趨勢では、リズム単調、テンポ高速演奏を自慢したがる方へと誘いがちにしてそうに素人老人からは見えてしまう。
 江戸のお囃子系が転がすような跳ねたり転がったり緩急の巧みを軽い(太鼓や笛の)音曲として提示してしまう辺りが、リズム単調、テンポ高速版に誘われて具体を想像できるなら、今時の現象の一側面のリアルにちょっとだけ気づかせてくれそうだ。
 当方はだけど、伝統は伝統で担い手諸氏の貴重さを踏まえつつ、そのリズムとかテンポとかのヒトにもたらす要素を現代的に解釈できて(だからどの要素に注目できるか次第)なんらか音楽への応用ができるといいな、という発想の方で、事態を押さえてしまうタイプだ。

 


   川柳もどき

    西ノ島での出来事を追う研究者諸氏の発信をテレビで見ることができる
    そこの場合、鳥がもたらす。飛んできてついでに・・・のタイプ。
     だけどうまく生き残れる場合もあれば火山噴火自体が絶滅をもたらしもする。
    そしてまた鳥が飛んできて・・
    どうやら風が吹いているからやたら軽いのがそれに乗って飛んできたりもするらしい
     そんなわけで、飛ぶことが大昔から起源のなにかしらを担ってもきたようだ
    恐竜は飛んでいたか・・
     鳥が恐竜の末裔なのだから、当然・・・・
    ヒトは・・・どうなの?!


 早めに次回、女子サッカー試合見てきた記を書き込みたい。