連載は続く~ SF掌編『承前・・・雪解け水が騒がしい』編


 前回の文章はノリがいまいちだったか年寄ゆえか、清書が要る感じの読みにくい誤字脱字系が紛れ込んで読みずらそうになってしまった。一気書き込みでもノリが良ければ誤字脱字がごく少ない、というのは不思議なことだ、と老人年代ながらそう思えてしまう。
 時間が許せば(というよりはその気になったらの方がリアルに近いが)近いうちに清書して読み通しやすくしたい、ものですね。

 さて読みずらいながらに、それなりの言いっぱなし系を発揮させてもらって、説明も必要と当人的には感じており、そこらを少々。
 たとえば民主制なりを志向する向きに是であるならば、なぜ戸別訪問系に厳禁など指摘したのだ?とか疑問を持たれそうにも、振り返れば感じることができた次第。
 考え方の基本に、議論の質を保ててその議論を展開(つまり線形に一方通行的に同一関心ぽく話が進展しやすいイメージよりは、様々に脇道もとらせ、本題よりも逸れた方で話が盛り上がってなにがしに気づかせたりとか、ドラマとか小説とか話術系のではなくどちらかと言えばリアルに近い方での(偶然の出会いに満ちている)人生ドラマの展開のような感じで受け止めていただけたらそれに近い)するほうに促し合える関係が成り立ちやすくなっているか否かの辺りに、必要性を感じる関心。
 だから政党間には議論の展開をむしろ邪魔し合う力が働きやすいと判断されるなら、政党を前提の話にしないで新地(さらち)のところからの解決の方に関心が向くことになる。 政党内に仲間意識とかことばの個々観念性をことばとして指摘し合うことがないとしても、わからなさ加減について相互的に率直な指摘が可能で、説明とかの機会が適時採用され、それらが辞書的な理解の仕方を強制されるものではないくらいのところでの共有場が成り立っているようなことを、その仲間意識とか内輪とか同志とか列島生活の人々が使い慣れた言葉の範囲ででも、可能としていけるならば、議論可能な集団の営みと見なせる、といった辺り。
 だからできればヒトについての全体的知見を研鑽しつつも暫定的な共有領域を育てあえている状態がより相応しいし、暫定性を意識出来ていることで決めつけ議論の落とし穴をいつも避けていられる。
 自分以外の人生をも相手にすることになる刑事事件の捜査担当諸氏の複雑さの一面ともひょっとしたら似ているのかも、と(横山原作ものでも情に流すようでいてもう少し厳しめな観点が注がれているタイプを参照してもらえれば)テレビドラマを見過ぎている素人老人はニュアンスが伝わるかものたとえに使いたくなる。

 素人の老人の思いつきが日本語でいう思想とかの類の欧米出版の膨大な蓄積にどうこう指摘しても多分、どうってことないと思えるので、そこらを率直に指摘してみるだけなのだけど、民主主義とか民主制の内包について日本語的にも独り立ちできるだれかたちを育てることに熱心に、本気になれる人々のことを想起できる時、どの土地でもその一端をしっかり育てあってきたろうなくらいは、欧米の諸氏が他の歴史的流れをどう押さえていたとしても一応指摘しておきたくなるのが素人老人だ。
 そしてその時に、欧米系が無理をしている、と気づけてしまう。理念としての魅力はともかくそれを形にするにあたっていかなる工夫が持ち込まれているのか、持ち込まれようとしているのかが、戦術のパーティ手法の多用とかハグ挨拶とかからしても混乱を誘ってしまうわけだ。それって民主制を支えようとしているわけではないパフォーマンスだよな、と強烈な印象を誘うわけだ。
 しかも邦訳されたりもろ日本語使い諸氏が民主主義とか民主制を既成前提の話を読めたりすると、むしろ未完の民主主義や民主制の理念具体化に向けて、どうしょもなく困難を抱えてそうなことの方がより強く印象させられる。
 ろくなもんじゃないが民主主義よりも相応しいのが見つからない、の類の論は、民主主義があるていど現実的に作用していることを前提のことば使いとして受け取れる。
 素人老人からすると、民主主義とか民主制を実際的な状態で営めている状態をもたらせるかどうかはわからないけれど、理念的に構想できているいくつかをとりあえず具体化できるように努力し合えている状態は、個々の尊厳をそれなりに尊重し合える場を構成しやすくしそうだ、程度に、その難しさの度合いを感じつつ、それへの志向には是としたくさせる。
 代表制なり、段階的に、現代のような国をめぐる組織群を創始しておいて、段階的組織編制発信の数々をすべて相手にして実際的な時間内に応じることは不可能だから、各地の小さい組織のところからより広域を扱う部署に上るにつれて取捨選択されて数を絞っていく。こぼれが発信が小さいところで、解決できる範囲で採用される、ということもありえないわけではないけれど、より広域に関係する発信の場合、解決もなにもあったものではなくてより上の広域に権限を発揮する部署での採用が欠かせない。となると、取捨選択は実際的利害としては避けられないとしても、時々の利害関心からの取捨選択任せで選ばれた案件のみ採用され続ける仕組みは民主制とか民主主義とかのことばで言い表せるなんらかで語ってしまえる事態ではなさそうだ(と素人老人は見なしたい)。
 決定に当たっても当然のように多数決を持ち出すし、乱暴なやつ(と冷静に指摘してしまうが)だとそれこそ民主主義の約束事のようにことばにしてしまって自慢げだ。
 時間を限って決めたいことが議論の決着がつかずに先延ばしになっている。これもまずい。だからヒトの集団の営みの都合から多数決も是として応用されてきている。
 全会一致でないとダメだくらいに集団的決定の危うさとして慎重な仕組みを採用してきた集団の営みもこの世の中ではありうることを学問発信が色々紹介もしてくれている。
 列島の古代史においても、権限上、権威関係上のトップが制度として具体的なだれかがなっている時に、ごく近くで関わる(側近、取り巻きとか)その関わり方も(時代的、時期的、配置的ほかとして)様々に侍従、蔵人頭とか外戚とか側用人とかリーダー層が足を使って自らによる現情勢把握に挑戦的意欲を持たないと手前で情報取捨選択された事態に対応するのみのような権限なり権威の実際を呈してしまう。
 鷹狩に出ようとか、吉野詣だとかとにかく引きこもっていないで済む発想は欠かせそうにない。
 民主主義とか民主制ということでは一人一人にとっての似た機会を人生においていかに使いこなせるだろう。やはり個々にとっては制約が多そうだ。
 集団の営みとして初めてより多くを素材にできてしかも集団の知見の寄せ集めのようにして、時期時期の見解を編集可能となる。だから民主主義とか民主制ということの実際は理念的志向の辺りの重要さを意識出来て、しかも実際的現時点での可能性を探り続けるような動的把握、落としどころ探しが貴重となりそうに素人老人は押さえたくさせる。それらを強引にそれこそが民主制だ、とか民主主義とかいってことばの営みを混乱させることはないと察する。

 

   川柳もどき

    雪のあとも、寒い
     寒いけど出かける超・高齢老人
     1月も陽ざしを強く感じたっけと年寄発言
     2月も薄い雪原に
      キラキラキラキラ、キラ、
       まぶしくて
        こんな気分を味わえていいんだろうか
         な、老いぼれ