連載は続く~ SF掌編『能登も、関東平野も、中国でも、台湾でも、トルコ、シリアでも地表面各地が揺れ続けている』編


 稀に思い出したように引用を繰り返してきているので、中にはくどく感じられてしまいそうだが時期が時期、ということでまたもふれたい。
 数十年前、小選挙区制への移行が決まったかな・・という時期に、『読売』紙の夕刊に、中選挙区制に関するオルタナティヴ発想からする‟青い鳥‟案が連載コラムに載った。
 なんらか課題をめぐって議論し合えることが欠かせないという発想を基礎に置くタイプ諸氏は小選挙区制案というオルタナティヴよりは中選挙区制と派閥の並立の現状に改良を持ち込む考えの方を模索していた頃とも素人老人的なたよりない回想を持ち出したくさせる。
 その青い鳥の案を正確にコラム記事の複写とかで検証していないにも関わらず、同様にたよりない記憶から大雑把なところをことばにしてしまうと、中選挙区の数人の選出枠に一人を書き込む選挙投票方式に代えて、選出枠人数分を書き込める記入方式を提案されていたように記憶する。
 その心は、のところをいうと、当時の大人年代なら感受されているような列島気質を前提に、複数人記入の内、何人かは与党系を書き込んでしまうとしても、一人とか二人とか議論とかの発想の有無のことはともかく勢力発想から、他の意見を持ち出せる野党の中からもきっと選んで記入するだろうから、中選挙区制が、(つよく推すだれか以外は選べない)一人記入方式ではなく、複数記入方式によって、国会議員構成に変化をもたらすと、観測されての青い鳥案だった。
 素人老人ほど年を重ねていない若輩(じゃくはい)素人にとっては、なるほど、と思わせる案と受け止め、おしゃべりの中に結構、その当時持ち込んでいたと記憶する(ここらも老年を長らくすごしてきているあやふやさをともなわせるのだけど・・)。

 ちょっと話題そのものからは距離をとってパーティということも前置きとして話題にしておきたい。
 列島の若者たちは余計だと思うけれど、排他性を内包する結構それなりに人権発想からは遠い仕掛けだぜ、と指摘しても、そんなことをほぼ意識しないまま楽しんできたと(現素人老人からは)察する。
 弁証法役割分担系の仕掛けの一つだから敵味方を仕分けるフィルターとして作用するし、親密さ度合いを表示する装置にもなるし、内輪とよそ者を区別して表示することにも使えてしまえるし、そういう脈絡からいやらしく忖度を優動的に作動させる装置としても働かせやすいし、集まって事業開拓を一歩進められたり、ワイワイガヤガヤ大いに盛り上がってストレス発散、次の日は猛烈に仕事に集中できたり、脇の方で新たな関係を開拓出来て人生の糧を得たりも偶然起こり得たりもあったり。
 つまり政党が違うだけで、政党間の議論はディベート合戦へと質を劣化させてしまう。 そこらは政党へと結集する時に観念上作用しているはずの違いの利用の仕方が、自ずからそう仕向けてしまうはずだと素人老人的には考える。
 そういった発想からずっと、むしろ自党内での派閥的研鑽集団が激しく議論し合える場合の内実がより適した状態を誘いやすそうだ、とかここらは自民党議員生活などを踏まえた諸氏が発する話題をも下敷きに指摘したくさせてきた。
 それと右中左を問わず、弁証法役割分担的に観念系をがんじがらめにしがちな列島でも諸先輩に当たる諸氏・議員諸氏にとっては、気づけぬようにして、そう敵味方的に激論してさっぱり議論の脇道を楽しめないような寂しい結末をさらしがちにしてきていたようにもテレビ画面経由情報を得やすくなっていた時期を過ごしてきた素人老人年代からは指摘できそうに思える。
 戦後も戦前もパンアメリカーナなりちょっと初期は英連邦の端々という感じだったと察するので、アメリカンな英語を使いこなす官僚を担えと指令されればそれもこなす実務に長けた沢山の人々がその考えの啓蒙役として各部署に散らかって根付いて活動されてきたということも想像しやすい。
 そこらの前提を忘れたことにして反安保を指摘しても、無謀過ぎることは、植物の根の張り方よりも綿密に乱暴ではない方でしかし、地表面規模の安全・安心網を支えるという使命感なりが機能するかたちでの張り巡らし努力が効いていると予想がつくなら、こみいった工夫抜きに、関与からの離脱ということの実現可能性はほぼありえそうにない、ということに気づけて、工夫を重ねて、という面倒を引き受ける少数の余裕を育てられているのかどうか。そして、地表面規模での作用系と込み入って関わる仕組みとの対峙なのだから、そういう現実的にいつもの日常をできるだけ邪魔しないで変化へと誘える工夫こそが歴史を学んだ、という証(あかし)にもできるわけで、個々の散らかった問題解決と限定するならば、大げさな話にしないでその箇所をめぐって構成要素諸氏が質を伴う議論を時間をかけてか、話題によっては早急に議論を進めて暫定的結論を得たりを試みられる方が、相応(ふさわ)しそうだ。
 ただ各土地柄によってリーダーの権限が違うのだから、そのリーダー入れ替えが、たとえば列島事情において外国の軍がいてもらっては困る、で引っ越してと議論中だったのが、突如、もうそこからは移動するから、と断絶的にいなくなるようなことも起こりうる。 各国がならず者のように他国を脅したりは基本的に起こらないと素人老人は敢えてこの時代背景を前提に断言してみたいが、ただ、US英語の使い手諸氏の中の若めの話から相当前に受けた印象だと、US気質の一面に強がった風を装わないと付け込まれやすいという予(あらかじ)めの心配性を脅迫的に持っているようだ、と多少意外感、驚き感とともにと思えたものだ。
 ついでに言うと、そういうことを言ってしまう人々は、対人関係において、気分の置き所にもよるのだろうが、ごくたまに気分の在処がどうかして、油断してそうな誰かに対して、強圧にわがままを行使し合って、それ見たことか、言うことを聞いて参考にしないからそうなるのよ・・・程度のハプニングも偶然くらい極(ご)く稀(まれ)に起こってしまう感じだ。
 つまり片方だけ意識しての意味合いからではなく全方位として一応アンテナは張っておいたほうが余裕を持っていられそうだ。
 乱暴ごとではないのに、突然の変化に戸惑う、ということは外交上、各土地柄の事情の違いから起こりうる。そこにもアンテナを機能させつつ、事前に考え抜いての準備を怠れない。心配性をもらい過ぎて・・の方にも注意が要るわけだ。
 ある程度、自分たちを頼ってもらって良しを表現する大国タイプたちがいてくれるなら、それらとそれなりの外交を採用できる。
 また雑多に、様々な形で大国的な振る舞いは採用しない膨大な諸国が活発にいる状態の方が一般的な像とみなせるなら、その一般系との外交も満遍なく(だから担当部署はいつも忙しい)できれば濃密に付き合えて、気晴らしのイベントなども共催し合えていると、万が一の誤解を遠ざけて置きやすい。
 そういう多忙過ぎるかもしれない外交努力が日々行われていると勝手に想像しつつ、列島政治ということでは、政治家という区別を明確にさせて、政治家を選んだだれかたちは列島内での冠婚葬祭ほか祭りなどの行事でもお金のやりとりは現金で、じゃなく!厳禁、ということで法的に縛りを入れてしまえば、習慣化する前の段階において、お互いに現金をやり取りすることを遠慮し合えるように仕向ける。やがて習慣化すれば、法の方が形骸化して忘れ去られていく。
 戸別訪問、ビラ配りとかUS方式も厳禁。
 その替わり、国政レクチャーを有料で催す。収入は厳密に税との関係を持つ。
 地方政治なら、県政レクチャーとかで県政の現状についての緻密な質問に答える。或いは、議員の力量次第の報告を披露する。だから有料にして一応少しだけ稼ぐし、納税する。
 市政も同様。村も同様。区も同様。村、区規模となると事情通が多くなりそうだから、有料は売れない可能性大。別の方法が要る。
 もしも、自律した各地の代表が別々の政党に属してということであっても、議論の質を保てるのなら、多党制は有効、政党政治は有効、と見なせそうだ。
 わずかの試行錯誤しかしていない政党政治には、実はの欠陥、致命的性質を持つ辺りに気づいて、改良に乗り出すのに遅い、ということはないのだから地表面各地の知見がオルタナティヴに果敢に乗り出してもらいたい、と素人老人ゆえ思ったりする。
 数人規模の集団の営みから上下イメージで登って上層は数億人規模を相手に政治する。とイメージできるなら、最上層は是なりウイなりイエスなりヤーなり、とにかく断る以外で持ち込まれた課題にいかに答えるかに時間をついやすことになるから、昔の持続的仕組みほど、上層に持ち込む話題の扱いには工夫が働く仕組みを持っている。
 今時は、様々な話題を持ち込まれて短時間の議論の下、選別・決定され流れていく。持続性観点からは相当に脆弱と言えそうだ。
 ただし王様独裁的仕組みをイメージしてここらを想像している場合はまた別だ。
 更に、ローマの趨勢の弱点は以前(最近のローマ史研究の一端読書から)引用させてもらった。とはいえ、問題ありのローマの趨勢であっても登場人物扱いに問題がなかったわけではない辺りにも細かく注意を払うことが要ることを再放送だったかのNHKBSでのネロ氏の紹介番組で最近知った。世界中、地表面各地において歴史学者諸氏も日々研鑽を積んでおられるし、ジャーナリズムも好奇心逞しく取材して公開することに励んでくれているようだ。ただし、相変わらずワイドショーっぽい演出で不要なシーンが相当に挟み込まれやすい、と老人年台的には見た。
 むしろ知らされるのが足りなすぎる南米とか広域ユーラシアの諸土地柄における工夫の数々を王朝史っぽい豪華絢爛と乱暴狼藉とかの類以外の膨大な要素を発見してもらって番組にしてもらいたい気もする。
 列島ではNHKBSにてソグド系の末裔の営みかもの山地に定住する人々の生活史描写や現代中国での田舎の人々の中には蜂蜜取りで結構稼いだり収穫が悪くて酷いことになったりの不安定な生活の様を描写した番組だったりを見ることができたりする。
 地表面各地が逞しく自律的経営をこなしつつ、産業との付き合いにおいて、激動にさらされたちも起こってその短期間かもしれない大変な事態を短期であってもしのぎ切ることができなければ人生にとっては過酷となるわけだから、そこらを汲み取れる政治の仕組みはどの土地柄でも日々模索し続けられる必要はありそうだ。
 テレビ画面からは自民党でお金と帳簿記入に関わるズルについて、ムードを読んでなにやれかれやれと性急になるヒトらしい危うさを発揮させるよりは、国会(立法府)議員という立場を受けとめて各議員諸氏が国民に答えることが要る、と冷静だが、実質厳しすぎるくらいの指摘を淡々と語られている。


 なにごとも近代化ということでのお手本として欧米流を支えにして大英帝国方式から権威を継承してパックスアメリカーナへ移行して今に至る地表面の営み(試行錯誤)において、そのお手本性に疑問が内側からもあふれ出すご時勢となってしまっているのが、冷静に距離をおいて眺められる今時と察する。
 だからワールドニュースの数々が2月6日ということでトルコ・シリア大地震のその後を取材して報道してくれて、現状の厳しさが指摘されたとしても、そこを各土地(トルコやシリアや)柄のリーダー諸氏が、失敗の要素と良い所(とこ)取りしてよさそうなところを区分けして、普段のパフォーマンスに活かせないのはもったいない気が素人老人的にはした。
 列島でも服の色で仕切りを設けた時期を持つ。そこらの工夫の辺りに気づけないなら歴史を現代に応用するにしても感受のところでもうちょっとなんとか工夫してね、となりそうだ。
 けれども、集会とか今でも儀礼方式を採用する場をUSでさえ応用はしているけれど、多く、ワールドニュースに出てくる場面では一応スーツ程度に普段着でリーダー層は登場するようになっている。衣装の色のシンボルを使って秩序の落ち着きに応用するような回りくどさを不要とするように努力し合っていると察せられる。その替わり、古代ならありえないような、そして古代でもそうしていたような、事を起こした際の断固とした銃器を伴う威圧がUSの場合、派手だ。
 ヨーロッパでは問題も生じさせているが、移民を受け入れつつ、また農民がトラクターデモを整然と行い、同じく道路占拠を整然と交通取り締まりによって混乱させないように工夫したりを実践中だ。(市場原理主義過ぎとちょっとだけ市場原理採用の違いか)
 かしこまることを必要としない普段着の姿勢でもって地震後の悲惨な生活に耐える人々への再建、復興の遅遅の状態を説明しつつ、現状の工夫の辺りを普段着の姿勢でもって出向いて語りつつ現状を知る情報収集に専念できる。官僚任せはどちらかというと失敗の下で、大昔からリーダー層はなにかと言い訳を作って現地を視察する方を選んできた。そしてアイデアとかヒトを含む資源を把握して、残るは実践次第となるわけだ。

 ブルーバックスのかつての大量絶滅はなぜ本ではスモールワールド化から探ろうとしている。
 証拠の有無は不確かなまま素人推理の一つを持ち出したい。
 生き物たちは同じ仲間だとしても大小ごっちゃが普段の姿だ。
 ところがどれもが小型化していた、という考古の証拠だらけという。
 そこで、風説を持ち出す。
 強風吹き荒れて、小さいのが風を受けにくい影に入り込んでの生きやすさ説。
 生きやすい状態が続けば、生き残りやすい。
 この前提の場合、高層建築で賞をいただけるタイプの発想は絶滅お誘い系とみなせてしまう。恐ろしいことだ。
 たとえば、気象が荒れ狂い、頑丈な高層ビルに逃げ延びているとする。衣食は空輸すればいい、とかたかをくくっている。
 風にめっぽう弱いのがドローン。
 飛行機が荷物を窓めがけて爆弾の替わりに落とすやり方ならなんとかなりそうだ。
 ヘリは多分、事故多発でパイロットがいなくなる。
 が荷の投下によって壊れた窓からの風が内部にトンでも効果を出し始めて・・・もリアルそうだ。
 そうなるともう飢えて衰弱してを待つしかない人々の墓場が高層建築ということになりそうだ。
 だからいつのまにかスモールワールドになっている。けれど、さっさと亡くなっていった人々の方が少しは楽だったかもと思わせるくらい、スモールワールドが徐々に滅亡へと向かう過程はひどすぎるようなことにもなりかねない。
 その時期を耐えた生き物はどういう具合だったかを知ることで、ヒトの観念は今においてきっと活性しはじめる。

 クローズアップ現代のAIと医療からみの放送を見ていて思い浮かんだのだけど、正しい方に近づかせる情報を得るためにAIを使うとか、ヒトが正しい方に修正する役を引き受けてAIとともに正しい方に近づかせることで役立てるとかの発想よりも、正しいかどうかをちっともこだわる必要のない過程にAIの情報処理の力量を偏らせてしまう方が概念、単語使用の固定化由来の発想上の行き詰まり感をいだかせがちな現代においてはより有効と感じた次第。
 概念や単語やを規則性に乗せてディープラーニング過程に放り込んで成果を期待するのではなく、画像学習でも、概念とか言葉・単語とかが制御させていない脈絡での‟はだか‟の画像要素の膨大を通させて、けれども、なんらか既知以外の差異に気づけるようなアルゴリズムを持ち込んで、そこらはヒトの方の気分でもいいし、色々時々の思いつきで仕掛けてみて、結果をとりあえず視覚的に表現させる。
 なにかしらそこにヒトが読み取れるかどうか。
 読み取れないけれどAIにとっては差異的な要素を見ている。ならば、で発見をごくたまにくらいは起こりそうな気もする。
 ただ漠然と画像、ということではなくて、検討課題のなにがしについて、それを応用するならば規制の既知のなにがしでがんじがらめのこれ以上はないと自負しているかもしれない諸氏の高性能な頭脳にひょっとしての気づきをもたらすこともありうる。
 ここらは画像ばかりではなく、とにかく既存の規則と結びつけた概念やことばとしてのの学習から離れてのデータ処理にさらせるかどうか、と言えそうだ。
 こうなると医療にはまったく役立たないけれど、AIは大いに力を発揮し出しそうだ。