連載は続く~SF掌編『散らかりを関連付ける』編


 ばらばらに散るネット上の情報を偶然(遭遇と関心アンテナの相互作用が主(おも))から読めて、しかし、それらがどういうわけか関連づく、という辺り。

 日頃お世話になっている新刊情報ページから南極氷床本(中公新書)を知り、その著者(杉山慎氏)が学者であればネット上で研究のいくばくかを知ることが簡単に出来るようになっている。そこで、早速検索して、著者作成のページより5分間ほどの新書内容とも関連するビデオを拝見。
 海水の温度と氷床が解けることとの関係について知ったつもりになれた。
 端折り過ぎ表現のため、勘違いされてしまいかねないので、少しだけ補足。
 南極の氷は一方で溜まり続けている。溜まり続ければ、とんでもない重量や堆積となってしまう。そこは自然、うまくできていて、流れて(場所によってかなりのスピードで氷流になっている・・ビデオ参照)海に崩れ落ちたり、伸びた氷床が海水温度次第で溶けだしたりしている。
 仮に全てが溶け出すと(氷河期が終わる決めごとの一つの条件だ)、現海水面から50数m上昇すると著者であるビデオの中の語りては紹介している(列島の水没地がわかる絵も引用されている)。
 ということで、多少強引とは思うけれどそこは素人老人の仮説として受け止めていただけるなら、海水温上昇ということがそれなりの影響因子と見なせそうだ。
 そして海水温の上昇と関わる莫大な電力需要ということについては先日、歴史研究本からの引用として紹介させてもらった。

 時々、『生化学』誌の記事を参照する。
 "イオウ呼吸"というのが目に入った。(現段階の最新号で購入しやすい)
 でこれも"初耳"だったもので、ネット検索。すると2017年にマスメディアを賑わしていた。
 ということで諸氏においては既知のことを素人老人はまったく知らなかっただけ、ということにも気付かされた。
 とはいえ、読めば嫌気的なんとか、の内実は酸素を嫌(きら)うか好(この)むかの辺りということで、いづれにしても活力源、エネルギー生成経路ということでの呼吸過程に当たる。
 しかも旧イオウ呼吸ではなく新規のイオウ呼吸経路の発見ということで赤池、本橋の両氏が『イオウ呼吸』(ネット上のPDF無料版で読める)の中でどう新規のイオウ呼吸と押さえることができるかの概略を紹介してくれている。
 ここらは素人老人にとっては即、安保氏知見との照合へと誘う。
 ワールブルグ効果を参照した安保氏のことは何度も引用させてもらっている。
 またエネルギー生成経路の内実に関する量子論からの接近とかについても素人流倭からないなりの引用を何度かしてきた。(東北大高橋、森田、鈴木各氏、大阪大松林氏らの研究発信)。
 新規のイオウ呼吸発見の話をする中で著者らは原始地球の環境下ということを持ち出してくれていた。そこらとも、逆戻り現象の性質をもつ細胞のがん化を指摘する安保氏知見と相当に密接化させるように素人には感じられた。
 ワールブルグ氏の気づきと実証の段階をより細密な経路として生体を保つ呼吸の秘密と細胞の生きのびバイアスが呼び覚ます様々の辺りへの素人関心を刺激してくれている。

 安保氏のヒントは元々持っている要素が顕現としては隠れている状態だとしても、含まれていることが何かしらのきっかけ、条件付けを得て現れてくるというメカニズム的な把握での接近ができるように考えを誘ってくれる。
 介護仕事で施設の利用者の方々には大変にお世話になったし人格的に自己に拘泥しない一面を発揮できるタイプの諸氏(を大御所の方々という誤解も生じさせかねない表現も当てたりした)が数人おられたのだけど、そのお一人からはテレビ番組の「ガイアの夜明け」、「ガリレオX」は面白いよ、と何度か指摘された。
 当時は介護で忙しくて、今よりは少しだけ年齢も下だったから、聞き流すだけにしていた。
 老人らしさに磨きがかかってきた今日この頃、ということで、タイトル次第でつい見てしまうようになっていて(録画で)、"レーザー核融合"の回の紹介内容からして、NHKすらコズミックフロントなどの枠を持っていても紹介したことがなかったはず・・などといかにも素人っぽい感心の仕方で受け止めて、その後も時々録画したまま消去ということをしないで見る回を何度か経験してきた。中で、つい先日放送されたメダカの回も興味を誘った。
 この回も必要な(話題の)"成分"を要領よく適切な何人かの話者に語らせて、(話題を)整理してくれていた。
 列島生活を長年月経ている老人諸氏にはお馴染みのメダカについては、ヒメダカがやっと程度にありふれたスッキリした単色の小魚のイメージで通る。
 ところが最近では改良メダカということで、鯉に近い多色の様々を鑑賞できるようになったとのことだった。
 それは見てビックリだった。
 一種類ではないくらいの単色っぽいイメージでは収まり切れない、バラエティな様を見せつけられた。
 その辺りの研究者と改良実践家が主(おも)に語ってくれた
 メダカに限らないようだけど、メダカの場合は4つの色の要素を元々持っているのだという(名古屋大教授氏)。
 黒、黄、虹(イメージとしてはウロコのきらきらっぽさ、7色ということではなく)、白。
 ところが、改良実践家(大場)氏はなんと商品名楊貴妃という赤色(濃いめの橙(だいだい)か)を出して世代継承にも成功してしまった(氏はさつきの鉢植えを育てるプロだ。ただし、メダカ改良にはそれなりの失敗を経ている)。
 教授氏いわく、青が出てくれば、それはそれはの(改良メダカ)世界になりうる(まるでLED騒動の時のようだ)。
 元々持っている要素が働きだすか隠れているかの辺りへの関心として素人老人は押さえた。
 多くの研究中のなにがしに、いつでも振返って損はないヒントではないか、などここらは年寄りのいつもの余計なお世話だ。

 閉じた議論が知らず知らず犯す思い込みの狭量の中で演じられていることを察知できて作品を読まさせる身のことを想像くらいはできる年寄りなので、古代史研究の試行錯誤においても、ヒトがそもそも自発的ななにかしらを肝心のところでは手放さない生き方を"選んでいる"と前提から、御大層な大袈裟な権力をめぐる物語の白々しさという辺りをつい指摘したくなる読者タイプの一面も持っていて、その発想から、人々の古代ということでは、藤原京とここでは言ってしまうけれど、その画期後の中央集権の生真面目な施行(土地柄性の濃い神々の営みすら生真面目に中央集権組織にまとめようと試行錯誤してきた列島育ち諸氏がこの今もいらっしゃるわけだ。素人的にはそれは勘違いの所為と見なしたくさせる。中央集権意図の埒外にしても文句は言われなかったのではないか、ということ)が実際の列島育ちの諸氏の内実があたかも中央集権を簡単にこなせるかのように見せかけることがあったとしても、いつでも長続きしないリアルで答えはいつでも参照できるのに、思い込みがいつもつきまとっている、という生々しさを今もだから時には素人だったら指摘してヒントにしてもらえそうだけど、狭量かもと心配させながら、芸能に関心を持つ人々だったら、時に、古代ならではの自由度ゆえの交易系人々のダイナミズムの辺りは押さえているよの発信にも出会える。
 古代列島の中央集権が成っても、そこでの官僚層の働きぶりについて虎尾氏の新書が多くを紹介してくれているわけだ。
 話題からして専門書では扱いにくいからつい啓蒙書・教科書ばかり読んでいる一般にとってはかえって古代列島のリアルに近づきにくくさせていた。
 でも六国史の短命も素人からは証拠の一端としたいくらいに、中央集権として円滑に営むにはそれなりの分権要素を持ち込んでやる気を引き出してやらない限り、人々は面従腹背、ある意味怠け者を気取ることになる。(中央集権で熱くなっている)連中にやらせときゃ、いいのさ・・。
 確かに歴史事例では暴力沙汰で極度に荒っぽく強がる勢力が一方を封じた一面が紹介されやすい。でも帝国支配知見は確実にそれを裏切る。実際に支配の広大さを確実にするのはまったく別の手法だった。
 だから素人流では一方に帝国支配は説得力を持つ。その一方で、暴力沙汰をとにかく厭(いと)う系統で、とにかく工夫を重ねに重ねて集団の営みを温存してしかも密かに広大なネットワーク工夫もこなして多くの場合メディアには登場してこないくらい地味だけど時は、目立って、印象をいつもと違う勢力の営みのように錯覚もさせかねない"思考"もありえてきた、と指摘してみたい。
 後者を各地の地味な営みから探り、それはかならずじっとしていない連絡網を持っていることが単に地味に小集団を営んでいるだけとかで収まらせない知見への糸口となりうる。
 帝国運営は今時のマスメディア利用同様にハッタリ系の力誇示芸能表現を使っていたはずで、それに乗せられると、錯覚を誘うための表現をリアルの芯のところにしてしまう。
 錯覚手法を使うという方のリアルで押さえて、しかしそれも一つの要素として実際にどう集団の各地が営まれ大体において平和共存を刺激的に保てていたかを各世代が学べて継承できることが、ヒトのバラバラ性をまとめつつ、時々の難局になんとなく対処できてしまう技を、各土地柄なりに継承しつつも改良も施し分かったつもりになり過ぎないようにできて、情報のいきわたり方の濃淡が禍とならない程度の手法くらいのところで、権力が機能しているし、ヒト性をできるだけ邪魔しないで集団の営みになんらか関わり合えている手ごたえ体験を経つつの人生で溢れているようにもできる。

 電気とかエネルギーをわんさか使い続けることを前提にしている世の中だ。
 石油系燃料(石炭・石油・ガス)の大量消費が局所的(或る高度の空気層とか、ある都市部のとか)にしろ空気汚染と深く関わることが判明している。
 核エネルギー系は、冷却装置を工夫しない限り、極端な危険物のままだし、莫大な発熱源のままになりかねない。
 素人老人ということでは、ネット利用の一定の極致までは試行してもらいたい、と思っているので、太陽の巨大な悪戯で頓挫することがあるかもしれないけれど、ある程度多エネルギー消費を続けることは必用だと見ている(老人だから200年先の話ではない)。
 古代史を探りたくても掘って証拠を掴むという捜査の基本の一つを使いこなせないのがリアルなところだ。ヒトはいつでも過去の土地の上に移り住んでしまう。済んでしまったら滅多矢鱈(めったやたら)と動いてもらうわけにはいかない。
 とは言え、今でも地道に調査は続いていて発見的データが蓄積・整理され続けている(性別に関係なく熱心に取り組まれているようだ)。
 列島の少し今時に近い方の頃だと、内戦にあけくれていた乱暴者発想系を差し置いて、恐らく富の蓄積を交易系発想は成しつつあったはずだ。けれども、その後の偶然が交易を封じる策をとらせて、富の蓄積、権力ネットワークの独自な展開は中断したはずだ。それでも、活動エネルギーは耐えることはなかったし能力の涵養を怠ることも決してなかったはずだ。
 残党ノリ気質(ひどい目にあったのだから仕返しして当然の意識もその一つ)は、悔しさだ。だからそれを盾につい乱暴狼藉を正しいことのように言って成したくなる。そこらは白村江の件に関わって負けた有力層の今に至る脈々の問題として未整理のままのはずだ。列島育ちの過激な多くは正論がそうだとしてもそれプラス相手の信条・心情にまでこっそり踏み込んで時間に耐える手法に長けている。恐らく、前述の後者にあたる流れだ。それが残党ノリを言い訳にするタイプだと、そこを端折った発想をつい口にしてしまいがち(と大袈裟な表示行動)のはずだ。そろそろそこらを内面の営みにおいて白状して個々において清算しておくべき時ではないか。
 社会インフラのメンテナンス費用に巨額を投じてそのうち回収する策を打ち出したUSの大統領は、その一方でなぜか(素人見解では大間違いの)ワクチン注射強制策も出していて、これは実にもったいないことだ。
 なんでも生真面目に対応してきた列島行政担当諸氏を想像できるといい。
 公共事業を必ず巨額使い切るでそれを行使して大変な列島環境にしたことは後悔できることと想像するけれど、作ったものがいつまでも元のままではないのが鉄筋コンクリート独自の消耗だ。木材も独自の損耗の仕方をする。
 だからUSを真似ることも時には、公共事業支出の良い言い訳にさせうる。だからって、今後も定期的に支出することが目的となるようなやり方にならない工夫が列島生真面目気質の集団へは必用のようだ。

 

連載は続く~ SF 掌編『めぐりめぐっての一事例噺』編


 列島での購買力増強策に関する政治経済小史は、ある世代までがしっかり経験して今も年齢的には健在な方々が膨大におられる。
 その走りの時期から関わった専門家筋の諸氏も含めて(これらの方々は相当にご高齢だ)どういう推移をたどったかを経験の場に応じてことばにしてくれる諸氏のことだ。
 一通りを素人的にまとめるとしても長ったらしい文章になってしまうので、そこは避けたい。
 だから端折りに端折ったことにはなるのだけど、そこらもふれつつで昨今の辺りまで今回はふれてみたい。

 端折りに端折った話の結果、こんなことを指摘しておけそう、ということを先にふれてしまう。

 たとえば介護業のこと。これまでもその中でお金が動いてくれるようになれば・・・の話は何度かしてきたけれど、もう少し経営っぽく。
 資金を得られるか、経営したいだれかに提案するかして介護施設を営むという場合。
 どういうタイプの介護施設にするか(この辺りの内容分類は施設介護での分類などネットからも簡単に探れるので検索してください)を決めてから、建物を必ず経営するだれかが設計に濃く関わることが大事だ。用意する物品についても細部にわたってなにを買ってどこにどう配置してメンテナンスするのかなど想定しておく(だから使い勝手ほかについてイメージできるように実際の現場を熟知しておくことが大前提になる)。
 介護では色々な記録が必須になる。ネット端末を使うか紙を使うかなどの今時ならではの選択も必要だ。それら日々成され、記録として保持され、だけど紙くずとかデータのごみために溜まるだけ、ということは無いので、どう保存され、いつ廃棄して手元から離すかなど、先と同様、細かく使い勝手として周知徹底化も怠ることなく、事前の決め事を明確にしておくことも大事になる。これでも大雑把過ぎるけれど、人の方へ移る。
 介護ほかの業務を担う人を雇う。
 本題は介護部門だ。衣食住の内、食は他に専門職を雇う施設のタイプが多いとは思うけれど、一緒に食事を作ってという運営の仕方を採っているところも普通だ。
 介護技能についても何度かふれているけれど、とにかく生々しく大変な状況が目の前に現れやすい。生々しいというのは、ライブというか、お一人お一人の事業が作り出す生々しい状況ということで、一回性の性質を伴いやすい。ということで、いくら経験を積んでいてもさてどう対処する?と一瞬であっても思案する場面に出くわし易い。
 複数の人々が関われば即利害のぶつかり合い調整の困難と直面する。ここを力技で、ごり押しでこれた時代は多分終わっている。ただこの話題も端折る。
 介護技能を充分に身につけただれかも、そうでないだれかも含めて、目指す介護施設運営に向けて、自力でどこまでやってくれるか一通り見せてもらって、現状を経営者として知っておくことも大事だ。しかも並行して、短期間で自力で目指すサービスの必要なところを(練習とかを繰り返して学ぶことで)身につけてもらって、サービスの質のその施設水準を保てるようにする(ここらを省(はぶ)くと下手な技能に合わせるような暴挙が現場のリーダー層も含めて知らず知らずはびこるようになってしまうのが実情のはず)。
 技能を要求するというより、身につけてもらうことの過程に経営層や現場リーダー層が習熟していることが経営を立ち上げるに当たっての大前提の一つになる。
 介護施設の業務は家庭訪問タイプほど制約を厳密に意識しないで仕事に向かえる。
 またサービスが抱える問題については、ちょっと先で改善のヒントを提案できる。
 一通りの技量水準を身につけてもらって、時間的には多少きつい現状の介護現場を営む。
 けれどもこのままだと介護保険資金の中で話となって、介護保険料云々次第とかそれを上げないととか大変な話になりかねない。
 多くのお年寄りが現役年代ころから、無茶しないで済む法治の列島を経験し続けられれば、しかも自前の努力とかから免疫系をそれなりの温存できた心身(ということでただゆったりできているだけの話では終わらず多少の(良いストレス負荷を経験できるような)刺激的な人生も自ら工夫しておくことが求められる)を持って老年期を迎えられるようになることで全老年期人口のできれば9割以上が、這(は)ってでもたとえば一人暮らしでも自活し続けるとかの意欲と心身能力を失うことなく居られるようならば、介護施設経営にも工夫の余地は広がる。
 素人発想からは介護業系のサービスを売るようにすることだ。
 老年期になって使い切るには困るくらい沢山貯えた人々がいつでもある割合は生じる。その年取った人々に、外出付き添うなどが典型だが、サービスをたっぷり使ってもらう。
技能に熟達した一人がつくのだからそれなりの費用が要るサービスだ。
 でもそれを売ることで惰性できた施設介護経営の(薬品ほか)小物収入の介護理念と相容れない性質面を回避する動機くらいにはなりうる。
 とにかく経営層がアイデア噴出させて介護ならではのサービスをたっぷり売り込むようにして流行って、盛って、それなりの利益構造が育つようになると、その副産物として、発想上、内側の改善へと行くはずなのだ。
 世の中は不公平かもしれないが、老後とは言え、たくわえに余裕の無い諸氏も大勢いらっしゃる。
 その諸氏にとっても外出くらいしたいのに費用がかかるということでできないのは、サービス提供の担い手として忸怩(じくじ)たる思いくらいは生じるのが介護に関心を持って経営を担い始めた諸氏の気質(かたぎ)というもの(恐らくそういう諸氏の方が大勢いらっしゃるはずだ)。
 で、そうだ!と膝(ひざ)を打つ。これだけ売れるサービスだから、日常の業務の中でできるタイプのサービスを作れないだろうか?と。
 (介護保険収入以外で)儲かるようになっているから、持ち出しということではなく、介護担当の人数増も目論める。その日常業務で可能なちょっとしたサービスの有無が、必須にちかい内容のはずなので、施設を選ぶ基準にもなって、中期的には、そのサービスを利用できるかどうかでの淘汰(とうた)が生じて、いつの間にかそうでない施設は無くなってしまう。
 有料の応用可能な外出サービスはゆとりのある年寄り層が財布のひもをゆるめっぱなしくらいつかいまくる。施設はそれでほくほくになる。自分勝手な外出タイプのサービスは利用できないけれど、パッケージ化された外出メニューを日常業務のサービスとして使えるので、かつてのストレスたまりまくりタイプの擬似認知症症状とはオサラバの施設介護環境では、かつてとは打って変わった、円満な老年生活とごくたまにの古代史をめぐる激論でストレスたまりまくりを演じる執着系のご老人方が、やたらと長生きして元気という姿が想像しやすい。


 高度成長の過程が列島在住の人々の購買力を高めて、姿としては豊かな衣食住の形をもたらせた、ように描かれる。
 でも、素人施設介護像で説明してみたけれど、支払い手段のめぐりめぐりがもたらす豊かさ像とはかなり違う。
 ある年代層に豊かさを提供した手法がいざ出来上がった構造物の耐用年数を経て、新たに作らないと・・という時に、先細りの趨勢のリアルをだれもが知ることになる。
 たとえば先達の保険金が頼りになって家を建て替えられたとしても、その後のわずか数世代の間に、その可能性の実質がぐっと低下してしまいかねないのが実勢だ。
 支払い手段が、消費の膨大なちらばりと、それを支える生産と流通のかなりの量のちらばりとをめぐりめぐっての循環として保てていないと、物価とかで生活の質へとじわじわ影響してしまう。
 一時の流行とかで購入するタイプにはかなりの額がでたりするけれど、流行り廃(すた)り系商品は、そのものずばりで使い勝手の持続性も流行り廃りとしてゴミ化させやすい。なんらか買い替えとか、別の新式の何かを流行り廃り動機から購入するかどうかという流れにしがちにする。
 生活の質を無視するならそれで額は動くという現象を持続させていることになるけれど、とにかくそれだけの話と冷静に押さえておける。
 高度成長の巷版はそれに相当近いところで力技で作られていたと素人老人はその昔から理解しがちにしてきたので、今各種製品を持てて利用できていることの恩恵まで否定しないけれど、後代にとっての否定的要素の前倒し現象の一つと見なせる経済現象研究家、専門家、事情通諸氏こそが生活の質を踏まえた政治経済学の要点を今からこれからに合わせて整理しなおしてくれるのではと期待する。
 当面の暫定的対処も不可欠な事をわからない年寄りではないつもりだけど、中長期に影響することの一手ともなりかねない何がしを成してしまうことには慎重な検証を逐次早く考え抜かれる政治経済学っぽい思考法が必要だ。
 経済指標については今時は色々工夫して、いたずらにアルファベットの略字を多用しているわけではない辺りは、素人ながらなんとなくわかったつもりだけど、それでもの辺りは老人なので、かくかくしかじかということで別の提案ということで持ち出しておきたい気がする。

* 購買力増強の惰性は様々の印象的ニュースにもなったけれど、その無理をいつ解消するのかと思っていた素人には、意外にもバブル崩壊的事件によって、その趨勢に終止符を打って解決の手段としたように印象付けられた。
  その事件に批判的な考えの諸氏において、正直な経済事情通氏はバブルが起こったらそれはつぶすことができないとことばにされていたのも印象的だった。
  バブルも解消すべし。だけど豊かさの惰性は続けるべしの考えの方々は、どうすべきだったか、そこらをめぐっていただけても、また別の政治経済学っぽい話が聞けそうだ。
  素人老人は発明発見、或いは天体や地球史的事象への観測のための支出も重要だと考える一方で巷の生活の質をグローバル(展開での人々において)に保てるような支出も重要と考えている次第。
  生活の質論議もきちっと説明を要するはずなのに、端折ってしまう。スマホ系必携の時代に・・とか、鉄道網が良好で全国を暇な時に旅しまくれる土地柄だったら・・とかいう話もだから可能になる。

連載は続く~SF掌編『年寄りの余計なお世話をひとつ』編


 いくつかの前置きを。

 最近は再読もしていないのですが、かつての広瀬本読書から、"ロスチャ"脈のなんらか、主に 19、20世紀を通じた世界史における関りの独自性についての先入観とその後ということで素人個人の感受のあたりは何度も紹介してきた。
 極度の危ない連中で近づくつもりにさせないには充分なのだけど、市民社会構築、形成に当たってはまったく出鱈目な"奴ら"ではない辺りにふれてきたつもりの素人感受という辺りに気づいていただけていれば幸い。

 "市民社会的"ではない、たとえば、性別ということの扱いのそれまでに経てきた大変な状況ゆえに極度に変形させた途上を想起しておいて、その途中下車のようなあり方の中、変化を模索、試行錯誤中のあたかも強権的に見えてしまう土地柄もちらほらするし、一つの制度的体制下にもかかわらずリアルな土地土地の表現をそれをより率直に語りうる媒体次第でその様々性が露骨にわかってくる土地柄だって先進諸国にはいっぱいだ。
 家族構成次第で、その家庭的雰囲気が多くは何気に良好だとしても、感情のたかまりの処方を鍛錬できているかどうかとなれば、蓄積次第のところがありそれもまたミクロの様々としてグローバルには、ちらかって各土地柄において表現されうる。
 とはいえ、世の中、大勢として変化を受け止めざるを得ない各地も充分に想起できる時期と素人は押さえているところ。
 そこらを先日、ドラマの役柄を巡ってちょっとばかりふれてみた。
 今回も、そこらを少々加えておきたい。
 最初のところと関わることをここでも触れてから。
 USの映画の数々(といっても列島映画館で、テレビで上映されたものに限る)では諜報や軍事担当の諸氏の困惑を赤裸々に表現してきた。
 煎じ詰めたところはデンゼル・ワシントン氏主演の映画を引用してふれた。
 良いこととか悪いこととかの判断基準を人生の心身部分において失いかねない仕事をある意味絶対的に強いられる。だからその仕事から離れて世間の"常識"世界で判断基準とはとてつもなくかけ離れてしまっている"自身"と向き合わざるを得なくしてしまう。
 中には極度のワルの稼業で暮らすことを選ばせる連中も生む。
 そこらは大国の秘かな役割ゆえに必須だけど表立って自慢できる仕事ではないのに、だけど必須ゆえにだれかが担うという大国病の辺りを、素人なりにふれてきた。
 これまでの惰性で大国を担う場合、その役割は間違っても外せないのだ。
 相当にヤバイ場面だし、"19、20世紀"が生んだジャーナリズムは"底"のところを暗黙にして触れずにやんやと(片方の立場での問題視から)ことばを投げることになる。
 たまたま見た小杉健司サスペンス『決断』では、役柄として、浅見光彦役でもそうだけど、人柄とか決断する本体として物足りないムードを醸す役者氏が、話の設定とかが上手く合えばそのいつも同じようなキャラを演じるベテラン役者氏(でこの『決断』では、違った意味で物足りない位置を得てしまっているのですが、テロリストであるオヤジ役だった『科捜研』(これも第3シーズンは巧みの助走を感じられたけれど、他のシーズンは・・・と素人感想)ではそのいつものキャラづくりが馴染んでいて第3シーズンのりではないけれど、ドラマに誘ってくれた)とでドラマ上のメリハリが薄められていたようだったけれど、ストーリーとしては、正義をいかにリアルにするかの辺りをこだわる役柄をそれぞれ演じるようなドラマだった。
 正義のことは先日もふれたけれど逆に便利に使えるので、乱用もされがちで、決まり文句として正義面するなとか正義、正義と軽く使うなの類も発せられがちで、それなりに文字ことばの軽さということの実証例だったりもする。
 ドラマの中で具体的には検察の資金の流れが怪しい、ということで、問題視されていて、問題そのものへの対し方が正義と関わるという扱いだった。
 この問題を前にして、先のUS映画で表現されてきた深刻な事態が大変に役に立つ。
 しかも、そうではあっても、正義を貫(つらぬ)くべし、という言明もありだけど、更に困ったことは、困惑した専門職諸氏のセリフは正義の置き所に関してであることだった。
 合法性であってもかまわない。
 日常を円滑に営み合える法治の営み方は必須だし、大事なことだ。
 といってことば通りの営みが言葉、文字ことばの制約を顧みない暴挙と化すことだって大いにありなので、そこらの実際上の営み方は、普通に試行錯誤され続けている。そこらはリアルに、生々しく、現場の(どの立場であったとしても)担い手諸氏の苦心の積み上げだ。経験的に積み上げてきている。いつでも試行錯誤の途上であることに耐える一方で、満足感を経験できたりで糧ともする。
 もう少しドラマシナリオとか探偵小説っぽく言い及ぼうとするなら、秘密工作、だれかを救うために、それが法治の現状とはうまくかみ合いにくい場合の秘密性保持の下、作戦が敢行(かんこう)されるような場合、予算を引っ張ってこれるのか、できないとしてもやらなきゃならい場合、身銭を切るのか、身銭を切っていたらいくら収入があっても足りないとかで、秘密の資金源を探ることになるのか、という究極に近い選択を現場と管理部門は迫られてしまう。
 だから公的部門であるよりは私的部門に多くを委(ゆだ)ねて・・という話も一見説得力を持つように受け止められそうだけど、素人考えからは、私的権力肥大の危険よりは法律の縛り策を持ち込みやすいのを上手に使いこなせる限りで公的部門にできるだけ限っておいた方が市民社会にとっては得策と見る。公的立場ゆえに困惑の極地を体験できたはずで、民営化してそれぞれの勝手で生活の都合でたまたまその仕事についてヤバいことをやりまくるというのでは、困惑の根のところを持ちにくくする、と指摘してみたい。
 秘密資金源は・・・、(ここからもしばらく探偵小説のりなのでご注意を)大抵の場合、麻薬の類だ。銀行強盗的な現金を強引に他から奪う手法も諜報組織であるCIA系のお手の物の一つであることを、1980年代から90年代頃に放送されたドキュメンタリー番組の中で当の担当者のインタヴューとして素人にも教えてくれた。
 寄り道話になるけれどだから麻薬捜査とか付随的に薬からみだった事件の捜査は大変そうだ。隠密捜査部門との"通信"が常時密ということでは隠密捜査になるはずがないので、捜査そのものが、あるわざと放置された脈を故意にたぐってしまうことになりかねない。
 ジャーナリズムの関りもそっくりのことを生じさせる。闇資金で、だれかを助けたり、込み入った権力脈も巻き込む捜査の長い長い視野での活動にかく乱をもたらしてしまう。
 そこらもUS映画ではそれなりにエピソードにしてくれていたと思うし列島版ドラマでもごく時にそういう現代ならではの際どいあたりへ関心を誘うドラマ仕立てに触れることができるようにはなっている。
 前者の意味での物足りなさを感じさせる若い役柄は、列島版に限らない。
 もうすぐ21世紀という頃の作品『主任警部モース』の最終話から一つ前のエピソード、19世紀にオクスフォードで起こった事件をモース主任警部が一応解明してみせる回では、老いて現代版警察にしようという動きを抑えきれないほどになっている時世に、刑事モースのようにオクスフォード出の新人が、身体を壊して休暇をとって仕事には出ないのに有給のポストを生めている状態でそれゆえのお荷物と化している主任警部氏のところへお茶くみ程度しかさせられていない新人くんがお手伝いに来たわけだ。
 その新人くんは歴史を履修して学士卒程度の専門的訓練は経ている。
 モースは新人へ、過去の事件のデータ調べを頼(たの)む。
 そこは慣れたもので必要な場所へさっと行って警察に入るに当たって叩きこまれた基礎教養(多分制度上のしくみの数々)も踏まえて、証拠さがし、証拠品調べをこなす。それだけではなく、建築ほかの由来的歴史知見をこの場合に役立つように披露もしてしまう。
 それらが役者の演技に慣れた年寄りからは物足りない(先の浅見光彦役者氏への感想と同様)振舞い、感情表現の抑制の中、でも嬉々としてと言っていいような心身の軽快さを映像に納めて、こなして、モースへ提供し続ける。だからセリフ上も不満無し。
 モースの探索を論理的ではないという元ネタ提供の教授女史とは異なって、新人くんはモースへの関心を保持し続けている。どう解明するか興味を持ち続ける。
 そこらが見る老人には伝わってきて、事件解明への興味のノリに視聴者に向けて一役買ってくれている。
 つまり物足りない役柄演技にも関わらず、心身の振舞いの実際が解決へと向かう勢いとしえ表現されているので、ことばも感情吐露的ではないし、うねるような誘かけではないのに、ノリは確実にもたらす。ただし、演出の側の了見、(時代がそもそも移ろってしまっているとか)事態対応能力が相当に関わるはずだ。
 モース氏の病気休養はもちろん表の資金で動いている。
 闇の資金で何事かが成されることの検証はプロ中のプロでも判断は難しそうだ。
 だからとりあえず問題にすべし・・・のはずだけど、判別できて、時代の要請の適う方法も探っておく必要がありそうに素人老人には思える。
 ゴルフ三昧の(たとえ警察だろうと)管理職がイギリスにはありがちのようだけど、そこだって情報の経路への介入とごいっしょだ。でもちょっと油断すれば、ダラ幹(部)人脈がいつのまにか構成されて現場の苦労は報われにくくなるし、更には巷に不公平・不正感がたまりにたまる原因となりかねない。
 そこらをだけど、小説レベル、ドラマ・映画シナリオレベルでは先取りというよりは後追いのはずだけど、取り込んで、どう模索可能かの辺りを仮説表現できるといい。
 闇資金なしで、諜報活動できる大国ってなんだ?
 怪しい工作資金なしの秘密捜査って何だ?
 勝手に使える資金を得たいのならすべて民営化してしまえ、で済むのか?
 そしてそれらを演じる担い手諸氏は、若い世代とその成熟していく年代の諸氏ということになる。
 浅見光彦氏のような経歴の持ち主でなくても、オクスフォードで歴史研究のトレーニングを得ていなくても問題関心を誘う意欲的受け止め可能な世代たちが事件解決に飄々(ひょうひょう)と取り組んでくれる。
 できれば自責の念を持たないで済む資金を用意できると良いけれど大判振る舞いもヒトの油断を誘うしで、ケチることも欠かせない。一方で一時的であっても厖大な資金を要する事件だってありだ。
 それらが煩(うるさ)い世論に晒(さら)されながら試行錯誤する。でもその煩さに、ドラマ・映画・探偵小説由来の今日的リアルの中で試行錯誤もし暗中模索(あんちゅうもさく)もしている若者やその後何年かした中堅の現役世代たちが表現してくれる、ヒトの営みの生々しさを今とは違ったリアルの深度において実感しながら引き込まれるようにしてくれる。

 テレビドラマ、映画作品、探偵小説などは一種総合芸術性を抱え込めている。
 要素としての踊り、ダンス、歌、演舞の類が玄人筋を惹き付けるようには一般客を集めて稼ぐことを難しくさせる辺り、と素人老人的には指摘したくさせる。
 歌のコンサートのように演出上総合性をもたらすとか、歌曲ゆえの誘う力や担い手にたまたま誘う力量が集中できているような場合は例外的に稼げそうだけど、大抵は持続性を保つのは難しそうだ。
 2019年時点でのドキュメントだったけれど、富山で演劇祭を成功させて持続性を持たせている超有名なご老人氏と新潟で現代的ダンスの興行で模索中の現役世代氏が出会っていた。
 かつての世代のようには日常も舞台上も表現形を異にする。
 どういう表現媒体として育てるか次第だろうな、と素人老人には思えた機会だった。

 これら前置きから、少々。

 公的部門が黒子の必要な主だったところで活躍してくれないと困るよな、と思っている素人老人からすると、公的部門による強制の使用は極力避けてこそ、だ、という辺りを強調してみたい。
 市民社会の土台を黒子的に担うのだから、市民社会の存立"常態"の基本概念と違(たが)うような振舞いは極力避ける必要を指摘できる。
 本末転倒になる。
 コロナ騒動でなら、ウィズコロナの本筋を忘れないことになる。
 ウィズインフルでずっと自信とともにやってきた現生人類であることを振返れたほうが良さそうだ。
 年々厖大な感染者を生じ、死者数もばかにならないインフルなのだけど、それでも現生人類が生き物である以上ウイルスとはウィズ・・・でしかありえようがないことを、深刻に悲観的にではなくごいっしょ意識で受け止めて日常を失わないことが胆(きも)だ。
 そして、秘密捜査の前段階において闇資金を使ってでもやりぬく必要のある事態かそうでないかを表世界とのコミュニケーション手段を新たに育てて、一気にジャーナリズム役柄に委ねたり世論に晒す手法で、それぞれの油断を抑制できることが、果敢に解決へと向かわせることが大事になる。そこらを一見ほくほく系の豪遊なのか、経過途中なのかを感受のアンテナで納得できる判別できる"ハカリ"を時代の推移に応じて早く作って心身化できる物語の力を使いこなせて置けるようにできるかできないかはそれなりに後々に影響するのでは、というのが、年寄りの余計なお世話だったりする。

連載は続く~SF掌編『少々補足』編


 世の中に伏在していそうな問題群が解決さるべく必要な経路へともたらされることは、世の中の営みにとって長い目に向けても、ゲンナリさせない方で人々へと通じる質の事態だ。
 とはいえ、その全てが同じようにして持ち出されることは、いつでも数の制限からしても、不可能なことだ。
 また仮に全てが持ち出されてと空想世界に仕立てたところで、その空想の前段階のところで、頓挫を予想させる。その全てを扱うことが、その後の推移において上がってくる”全て”に優先するわけでもなく、時差の蓄積が解決の蓄積と並行を必須とするという観点からだけでも、ありえそうにない空想で留まる。
 だから実際的には、ある限られた問題群として、しかもその中のいくつか(それが各地のを合計で数万とか数千万だとしても)が解決へ向けて具体的に取り組まれる程度の事態を想定できる。

 分権とか自治の考え方は重要なのだけど、現場の実際にうごく事態としてたとえばリアルなタイプのドラマを想定出来た場合、指揮命令系とか意見をまとめるやり方とか、中央集権手法が巧みを上手にして、円滑に営まれることを、構成員個々において期待されているいつもは外せそうにない。
 極端には独裁的な中央集権象ということも想像できないわけではないけれど、個人の思惑は相当に錯誤を招きやすいのだから、今時の知見の積み上げ質からして、合議の様々の中から、より事態に適切な手法を選んで、意見の出し合い、議論、検証、実行、そのまた検証などを繰り返すことになる。
 でも頭と口を使うことをまったくケチらないタイプたちが集まり過ぎて、落としどころさえ、探りあぐねるようなトンでもが予想できる状況がハッキリしているようだと、どこかしらが仕切ることも要る、という実際的な代案も有効になる。しかも、権威の固定化の集団の営み上での不都合現象知見くらいは昨今だと世の知見に限らすある程度注意を払えるようになっている。

 議院内閣制とか政党制とか、小選挙区制とかである局面は成り立っているけれど、またその局面が大局へ制約を課すということもわかるようになる今日この頃においては、かつての同じ党内での率直な議論ができたし、議論のための下準備にも熱心になれたかつてをただ懐かしがるだけでは済みそうにないご時世を意識できそうに素人でも思えている。
そう思えている以前から、世の政治系知見を体験的にも積み上げられた諸氏からの発信から学べていて、小選挙区制の問題、敵対的関係での与野党による議論の質の問題など、素人なりに意識して代案を模索してもらたい的発信を試みてきた。
 他政党とは少なくとも列島の気質(かたぎ)を前提に、率直に問題をあぶり出して、その問題の取り上げ方すら基本のところで議論し合えて、暫定手法も採用しながら、暫定的に、その先の議論へと傾け、その中身がまた率直に議論し合っている、検証し合っているタイプは成り立ちそうにない、と見なし、同党内に広いイデオロギーの含みを許せて、いつでも相対的に弱小の野党勢は同質的同じ党内ゆえの緩みから感知の鈍さをかこってしまった課題群を、弱小の身軽さとねっちり感から巷より吸い上げて、国会へもたらし、それを錆びつきかけていたアンテナに電撃刺激!とかで気づけた大政党の一党が党内で更に検討して、解決すべしとなったらたとえ野党発の問題群であってもしっかり国会内でも議論し、しかも実質一党内でしっかりより実質の所を詰めて、立法化するなり政府の課題へと誘う、ということが、上滑りするニュアンスではないタイプの円滑な課題解決手法になりうる、とか、素人なのでその程度の表現でしかないけれど繰り返してきたわけだ。

 たとえばワクチン問題については、問題の在処は先日ふれたけれど、コロナ騒動での解決手段の持ち出し方は、信じ込みに誘わない工夫が要ったはずだ、と素人流を発揮したい。
 極限状況を想起できるならば、カゼ系の場合、場面を絞りに絞り込んで、そこを閉じる、という手法が、極端なやり方であってもなんとか容認できそうに思えている。
 とにかくカゼ系は感染して症状に弱いタイプ諸氏においては命がけとなる。
 それが今回のコロナウィルスの場合は、限定的で済んでいた。だからもっともっと早い時期に、大勢が見える形で感染して免疫を付けてしまえる過程を持った方が相応しいタイプだったと今だったら指摘可能だ。
 列島の場合、ある程度の潜在的に数的には相当量(数千万人規模)で軽い症状のまま免疫を得ていそうだけど、表向きの数値だと、感染量をかなり少なく抑えることに成功したという話にしてしまおうという趨勢を感じられるので、その通りの量だったら、これからも未だ感染の数は諸外国の流行に応じて影響されると充分に想定可能で、だけど、素人みつもりからすると、既に多くの若者や現役世代が(ワクチンではなく感染して)免疫を持ってそうだ。それでも数千万にの残りについては、ワクチン接種に関わらず、感染の可能性は充分なので、PCR検査をたくさんし続けることで、その数はどうにでも動く。
 ワクチン接種を実質のところで強制している末端の各現場のその指示命令系のトップ諸氏はだからしっかり人生において責任をとる必要を素人でさえ指摘できそうに思えている。
 むしろ、ワクチンとかマスク着用にはほころびが(とりわけカゼ系の場合)生じがちなのだから、必用と思う諸氏はそうしてくれ、できればそうしてもらいたい、くらいの発信が重要で、意識的にそうしたくない諸氏で、マスクとか手のひらでおおうことなく激しいくしゃみの類を成す、"ふとどきもの"へは、間近のだれかたちが強く注意すれば済むわけで、多くは列島育ちならば、他人への配慮くらいは身に着けているものだ。
 そうしておけば、ワクチン接種での死亡事故の場合、責任問題も明確にし易くする。
 命令したばかりに、死刑執行者のような人生の重みを担うようになってしまう、管理職系の苦過ぎる体験は経ないで済ませられる。多くの諸氏においては、そういうことが起こっていようがいまいが他人事で流れてしまう程度のごく少数のできごとになる(数十億人の中でせいぜい万単位ということなら10万分の一の出来事)。しかもその出来事は当事者双方で深刻なのだ。
 病気の性質がわかりにくく不安が蔓延しがち、という場合への心の拠り所として、安心感の提供のきっかけとしてワクチンという現象を応用した面を素人は否定するものではないのだけど、今回のコロナウィルスの病状知見(ここらは本当は医療従事者において、頭を使うこと、ことばを使うことにおいて億劫がらないタイプ諸氏と見なされやすいわけでもあり)より素材的、時系列的には更に整理されて、危ないケースではどう絞り込めるか等、また多くにとって参考になるようにどういう治療(手技、薬品、処置など)をしてその結果、ケースごとにどういう経過を経たかなどを公開しながら、自らの知見を表にするようなことに積極的であってくれたなら、ごくごく限られた列島のマスメディア発信に過剰にゆだねるような情報あつかいにしないで、今日この頃版的な情報扱いが可能になったとも想像しやすい(ネット上の情報が検証抜きは扱いづらいように、実はメジャーなマスメディア情報も安全着実確実な情報にするためには、個々が持ち帰って検証する以外にない程度だった、ということが噂だけではなくて自らがおおっぴらにしてしまったのがコロナ騒動だった。で、がっかりさせられた、というよりは、既に馴染んでいたネット体験の延長で接せられるごく身近な媒体という再認識程度で済んでしまったわけだろうと想像する。ここらの実質をこれからのマスメディア営業にどう参照するかは当事者の問題と投げてしまいたい)。
 世の中の知恵の部分で、感染症の類へは子供たちに間違っても罹ってこい!とは言わない。細心の注意を払い、具体的な手法を子供たちへ心身化させるようにする。
 そこらは、感染症のわかりにくさを経験から知っていて、注意していて、しかも罹ってしまうから、罹ったら罹ったで、症状に応じた対処と、医療知見に委ねて、より相応しい治療過程へ踏み込んだりもする。しかもカゼ系の場合、症状緩和手法を土台に自らの免疫系を活動させる工夫をしながら回復を待つようなことをずっとやってきた。
 そういう意味合いから、軽い今回のコロナウィルス感染症であっても、また免疫を付けやすいとしても罹ることには注意を促すことを一般は忘れることはなかった。けれども、軽いのだから、罹って免疫を付けて、ただし罹ったらそのための対応をしっかりできるよう、新型ゆえの対処法を、医療部門の早急な事態整理から早い段階で提示されている必要があったのでは、と素人は"別の意見"を指摘してみたい。
 いつでも罹って免疫を得られれば御の字のはずだけど、症状に耐えられるかどうかは個々の違いが大きいので、そう安易に罹っておこうというわけにはいかない。それが実際だ。
 それでも、恐怖心を煽る方で慌ててしまって、冷静にヒトは免疫次第なのだ、という切実な辺り、冷徹なリアルのところを見ないふりしてしまうことも危険だったりする。

 異論、反論の類がそうとして議論を率直に成せる間柄というのは良きライバルを得られた関係にごく近い。
 それが恐らく列島環境では与野党関係では成り立ちにくいと(素人の経験からは)見させる。
 で一党支配であってもその中身の育て方次第では、より列島版政党政治として活躍させらるのかもと、ずっと指摘してきた中の一人だ。
 そして同系統で寄り集まった時に列島気質に生じさせがちな温もり感に安住し過ぎてアンテナを錆びつかせてしまってもそこへ異論、反論、別の意見を持ち出せる機会を提供させるために、その他の弱小だけど活発に巷の意見を吸い上げる政治家集団を列島版として育て続けてほしいとワンセットで指摘し続けてきたわけです。
 多分、小選挙区制はダメなんじゃないか。かつて(数十年前)読売の夕刊か朝刊だったかに、"青い鳥"案を指摘されていた有識者の方がおられたわけで、列島版、与野党政権争奪戦に熱を持ち込もうとするムードにオルタナティヴなヒントを、素人にも通じるように指摘してくれていた。
 その一党形成を、既に旧と化したかつての自民党ではない今の自民党が担うことになるのか、現野党勢の中から幅広い世論をたっぷり知見のフィルターも経て吸い上げて、党内で率直に議論し、議論できるだけの考え(機能)の内実をも日々育てていける(認識できることの難しさ(気付ける気づけないなど)は、アンテナ系の持ち物次第ということ)熱心な政治家たちを集めた一党を生めるのか、といったところ。

 

 

 

 

 

 

 

連載は続く~SF掌編『ごくたまに素人流で時の論』編


 雇用を保ち、物価の安定こそが・・ということを一応素人でも指摘できるくらいには近代試行錯誤ならではの観点として知見の達成の辺りを持ち出せそうだ。
 そうは言っても昨今、何気に日用品に関しても物価上昇傾向だ。
 貧しいかどうかはともかく、そう裕福ではない多数を形成するご家庭においては、それなりに収支を気にするような生活を強いられている格好だ。
 貧しいかもと自覚されている諸氏においてはとりわけ厳しく迫る。
 だったら物価に応じた収入を、となるとしても、その帰結はわかりきってメカニズムに応じ続ける。
 物価上昇圧を演出して、とにかく上昇の悪循環を生む。それが内側だけでのことならば、ただ追いつき追い越しの繰り返しで済むけれど、元々グローバル環境の中では、それなりの裕福な土地柄ということで、内部の格差などとは関係なく、外からの購入意欲とのバランスが微妙に揺れることに結びつく。
 内部的に、ぜいたく品を高価に作って売って生活の足しをより簡易に得られる技量を身に着けたい動機付けが、日用品の安かろうそれなり、の商品水準をもたらすこととごいっしょの趨勢を生じさせやすい。
 物価が安定して、品質保証付きの日用品の数々を使えて、その環境において、ごく少数がぜいたく品製造に流れても、多くの熟練諸氏が日用品の高品質を保つ分野で活躍してくれている土地柄がありうるならば、その土地はきっと生活し易い。
 グローバルに、同様に均された仮想的環境を想像してみるならば、内部的なその環境が成っているならば、そのグローバル環境もきっと生活し易いと見なせる。
 現状の格差グローバル環境が、低収入の生活でもそれなりの性能の日用品をごく安価に手に入れることができて、バランスさせているのとはかなり違ってくる。
 そういう生活の部分的な達成は、この列島でも数十年くらい前にはありえたのだけど、それがもう少し全般的にいったかどうかという問いかけは、動態的接近という観点からして、そう意味ある問いとは言いづらい。動態的観点において、試行錯誤し続けることは欠かせそうにない。
 色々な経済系の知見を持つことができるようになっているけれど、巻き込むお誘いの知見も相当に発達させているので、どうかいくぐって、少しだけ生活し易い方を選んでいくということも、それなりの工夫が要りそうだ。

 啓蒙の一旦を担うマスメディア部門にも期待はしたいのだけど、たとえば、カゼ系のワクチンやマスク着用に関するキャンペーン発信の有り様など参考にした場合、ちょっと問題ありだ。
 それらは万が一の危険な状況においては針の一穴現象を簡単にもたらす。
 どういうことかというと、そうしているならば保証付きだということをやたらと振りまいて、それが建前として通る状態で、今とは違って、危険で切迫した事態と直面した場面を想像してもらえれば簡単に察しがつく。
 完璧からは遠いそれらゆえに、一穴と譲った表現の事態でも問題は生じてしまう。クラスター要因が散らばって各地で感染を振りまいてしまう。しかも認証された状況下でのことだ。
 非情に危険な事態をもたらすことは、その仮想した万が一の状況において、ということでわかってもらえそうだ。
 今の状況は、ほとんどの諸氏において騒ぐかどうかはあなた次第で、済ませられる質のものだ。病院の準備態勢が実質のところで事態の逼迫度を左右した。そこへ至る保健所を含む仕組みの問題もマスメディアの担い手諸氏や政治家諸氏こそ熟知されている。そういう性質として素人でも示して置ける。
 ところが想定されるより危険な場合、針の一穴すら極小を試みられる事態だ。それでも・・という事態のことだ。
 その時に慣らされたワクチン、マスク着用信じ込み趨勢は冷静には冗談じゃないの、の類だろうが、いざその時には冗談では済まされない。そういう事柄だ。
 だからその扱い方からして、ちょっとなぁ・・・というのが素人の率直な今における見方に近い。なんとか元”気”回復してもらいたいところだ。

 多分、知見諸氏が時々指摘されたりしているようだけど、使える安心なちょっと先を展望できる仕掛け・仕組みが大事だ。それもグローバル環境が誘ってくる落とし穴やいい意味での将来展望との絡みを忘れないようにしながら。

連載は続く~SF掌編『対話、議論、激論、会話、寄り合い、縁側談義の場を持つ』編


合意形成方式のうち、下々からの意見を多数決を重ねて集約していくタイプの最善とも取れるのを、右も左もないということで採用したかつての小泉政権が、内心凄く嫌われているということを"半"面鏡にできるかどうかは、多分、貴重な指針だ、と素人流政治の論はまず発信してみたい。
民主主義と建前はそうだとしても、結局はごくごく限られた筋と中身が時々においていくらか近い形で成る、というのが実際のあり様だ。
そう割り切って、わかったつもりになれる忙しい諸氏が政治や行政の担い手という場合、やはり最善っぽい方式、タイプが選ばれるし、表向きはどうであれ、実質のところでそれに近い方法を採(と)っている。
民主主義はいつも理念のところを感じて、実際に為される、折れた内実について、心身において理念との距離次第の熱い反応を生じさせられることが求められる仕組み・理念だ。
でないと、実際の過程がいつでも形骸化しているというリアルを下々はがっかりの方でしか受け止めにくくする。実際に携わる諸氏が、どう感じようとそれは通じにくい仕組み・理念の実際化行為に近い。
真実とか正しいか正しくないかということの法治由来の判断の過程を一応表向き機能させながらも、"正義"を心身で使いこなせるくらいの経験ほかを心身に育みつつの、とても強健なより多くの人々が、内心弱い者のと思えているだれかたちを、法律に照らして、絶対的ということではなく、ありがたい対処と受け止められるような様々な工夫に加担してくれて、総合芸術のような集団の営みとなっていてくれれば、それなりの落ちつきは持続しうる。
だから、という脈絡ではないのだけど、意見というのは、様々な人生を背景としているから、個別的にはことばのニュアンスがそれぞれに異なって息づく、ということを踏まえられるならば、自分こそそれらの代表ということの困難についていちいちふれることもないくらい自明なことともしておけ、けれども、漸近線を張って、支持者諸氏からこれこれの意見、要望が出ているのだからということをより政治的な争点にできて、予算のなんらかと連結していけることは、それなりに意義を見出せる、政治家ならではの所業と見なせそうに、素人の政治の論からは指摘してみたい。
だったらとここはつなげて、率直に思う所を、意見扱い上、軽重の忖度度を欠いた関係性を育てていて、いつでもその種の会話、論議が可能な人間関係は不可欠の条件と政治系の集団の営みには指摘しやすい。
と、いう辺りは、これまでにごくたまに素人流に発信はしてきた。ので、多分、またか・・と思われる諸氏もおられそうだ。
でも、ここらは今でも新鮮なはずだ。
かつてのお金が結局かかる仕組みともみなされたり問題視された"旧"自民党の「派閥をしくみに抱えたタイプ」は一方で、基本、建前も実質も仲間(地元での政治活動の熱烈さ度合を共有できる間柄っぽく(現野党勢がそこらの弱体を内部からも外側からも指摘される辺りとも素人でも言えそうだ))意識を底のところで持ち合って、激論もこなせる関係を成り立たせていたように今では、定説にしていると、素人伝聞では押さえている。
近い関係が、やっかみとか色々、潜るタイプの陰湿系を生じさせがちにもするけれど、そうならない傾向を帯びた営みが進行形としていつでも動いているようなら、単なるディベートタイプの論破合戦にしないで清む、実質の所に届くような論戦なりを論議なりを可能にしてしまう。それこそヒトの心身が活性しているわけだ。
ということで、こうことばにすればお分かりになる通り、欧米ノリを単調に真似して、与野党で論じ合うということの形式倒れということも充分に起こる。
ここらは身近な国会論議の有り様に飽き飽きした層がいたとしたら通じやすいとも思える。
実質の所を他人同士、そう簡単に気づき合えるものではない当たり前を前提にできれば、ことばのニュアンスをお互いがわかって、さらにそのつながったことばの群れ相手になにを含ませているのか探り合えて、とりあえずなんとかわかってくる。それを更にともしも時間があるならば、そういうお付き合いを経て、幸せな・・というか、円満をめざせるかもとかお互いに勝手に想像し始めて、でも、いつでもことばはそれぞれが心身において育てているから、同じようで、とことん外れまくる性質を帯びているし、それにちょっとばかり気づいて、余計な時間を費やすことになる。けれども、政治の実際ではそこまで悠長(ゆうちょう、気なが)なことはできっこないので、折り合いを付けることになる。
政治分野では恐らく、集団背景を意識しながら、"落としどころ"を探る。ここらは、全体の合意を得られないとしても相当に満足のいく、少なくとも、禍根をだれにとっても残さないタイプの下々にいきわたる説得工作も含め、ことばを選ぶ。
そういうことの入り口を探ることすらできない与野党関係ということになるのが、政治についての与野党発想の底を成してそうな事には、大方(おおかた)の諸氏においては気付かれていると思うけれど、表立った、基本のテーマとはなってこなかった。
今、与党である政党が、既に旧として捨て去ったシステムを内包した派閥の代替を、ちっとも採用しようとしていない。ということは内発的な議論の質は、追って知るべしの現状だろう、と素人は推察する。
一方の野党も、下から吸い上げる熱情を昔の自民党を知る諸氏からは実質激しく、遊離した理屈屋集団じゃないの?とか揶揄(やゆ)されがちにしている、と素人は押さえている。
下々は自らの利害に率直だ。だから、少し上の方の目線を心身化できているだれもにとって大切な事に関心を向けられるだれかたちにとっては、少々煩(うるさ)くて、煩(わずら)わしい相手たちだ。だけどそんなことはわかりきって、しかもそれも実質の本体であることに気付けるなら、面と向かって、聞く耳を持てることもごくごく当然と気づけないとダメだ。列島の使い慣れたことばに、聴くだけならタダ、という言い回しがある。
タダほど高いものはない、というのもあるから、そこは要注意なんだけど、でも、しっかり身を寄せて、目をとか表情とか、心身の状態変化に細心の注意を払いながら、見た目鷹揚に応じて、しっかり聞けて、ということができなければ、巷の政治を吸い上げきれるものではない。とにかく時間をケチることはできない。
だから、一方で表向きの形に執着する左系を自任する政党の弱点の一方で、汲み上げる吸着力ではしっかり地力のある勢力が野党の選挙に加担して、激戦小選挙区を演出できた事態を相当に選挙対策上恐れて、いつまでいっしょにやるんだ(ここらは野党内で、実際的に有意義なきっかけから離れることはいつだってありうるし、もう少しいっしょの作戦を練るということだってありうる。よそからいちいちケチをつけられる問題ではないと素人目には映る。ジャーナリズム系は外野的にどう反応するかを楽しみにして、ケチに加担する発言が目立つ。いじわるとも思えるけれど、ジャーナリズムのりの本領といったところのはず。動かしやすいかもと"急所"をついているのだ)等のニュアンスを含ませた論難ブームが現与党勢には生じている。
自民党の人脈を引き継ぐ勢力の中に率直な論議を可能にする集団の営みを生じさせうるのか、それとも、野党が結集しながら、離合集散も当然起こっておかしくないけれど、率直に広い意見の層を含ませた旧自民党のような太っ腹政党を成り立たせて、それこそ列島版政治が気付かせた、論議の実質を支える政治集団のあり方の一つの答えを、更に発展させて、更なるもう一つの答えとできるかこそが問われていて、そこには、欧米の持ち出す、建前と本音が実にこんがらかって持ち出されて、それにどう応じられるか次第で、その先の将棋とか囲碁の状況(自らどつぼにハマるか、自らの自由度を残すかなど)がとことんな位違ってきてしまうタイプの仕掛け対応力のない、ただ行政を営み知識だけ持っているような政治集団とならないための、余分、それこそが必須のような集団の営みにできるかも、試されている最中だ。
しかも、発信力の試行錯誤は、実質たいしたやつらのはずだけど、法律に照らして、安直に許すわけにもいかない主要二人物は未だ不自由なままだし、そうは言っても、欧米の中枢にはそういう自由な発信を踏まえた論議とか巷への浸透を経た政治過程を必須とみなしている人々が少なからず力を地力に控えさせているように映画とかからは学んだつもりになっている素人観測。
なんだかわかりにくい仕掛けを持ち出して、イニシアティブ合戦にもっていかれて、実際には、のところに後々気付いて、表向きを信じすぎたなぁ・・と後悔しても、航海の海原は相当に広かった、になりかねない。なのに、実は、中枢では、芯のところの理念をお互いにできるような層がしっかり息づいているはずだ。といった辺り。
だけど、細部と大局において利権とか目先のところで、がっぽりしておかないと、安心できない切実さバイアスも働いて、それは死活問題的に受け止められている場合もありなのだから、油断なんてできやしないリアルな日々刻々というのを意識できそうで、そこらを踏まえるなら、ちょっとばかり信じ合えそうだけど、そこは、お互いが実際に頼りになれる脈絡がそうは合致させる機会もないだろうから、表向きの論議に乗りながら、しかも、理念共有の試行錯誤に邁進するしかないのかも、とちょっと説明不足の結論を持ち出すことになる。
やつらはネットを介して相当にスパイシてるし、邪魔もしてくる。とどこかが派手に発信するなら、自分たちはそういう下手なスパイ行為や邪魔はしないよ、もっと上手(上手)にやっているよ。と言っていることと同じだ、と若者諸氏には今時のメディア付き合いに素人老人流のヒント発信をしておきたい。
しかも、ただ疑心暗鬼でやっている間柄ではない。そこには深謀遠慮という智慧の部分が作用し合っていて、放置も危ないけれど、近現代へと至る試行錯誤の賜物(たまもの)的な社会工学パスカルの原理応用面も含ませていることを、素人流ではあるけれど、こちらも一つ指摘してみたい気がする。
それと想像だけど、大局が動く各局面と密接に関わり続ける費用が莫大と想像できるならば、どんぶり勘定タイプで相当の"入り"が目論まれるはず、と見なせる。それが、今だったらワクチン業界を介した支払い手段の散らばり方だ。
映画シナリオ的には、その流れを察知して、『華麗なるかけ』タイプのニヒルなやつが動き出すか、『ミニミニ大作戦』のようなやつらが大金をせしめようとするかして、娯楽を提供する。
リアルには、税逃れ圏に多くがいつの間にか流れて、賭博(とばく)場を経由して洗浄されて、数年後に、ぜいたく品系のひそかなブームが訪れておしまいか、そのうちの何分の一くらいの規模で、きめ細かい関心を下敷きにできた投資資金として、新たな産業を育ててしまうか、とか、空想めいた話はできそうだ。今時は、株主もグローバルに広がっているから、各地性くらいは間違わないと思える。
ポトラッチ発想を信じ込めているだれかたちがいるならば、もう少し、巷に元気をもたらすばら撒きが、支払いのその先で生じる。
ちまちま計算高いうえに、簿記に熟達したやつらだと、ケチなめぐりになってしまう。
昔から、作り過ぎて、どうしても局所に蓄積されがちな"財"の取り崩し方には苦心していて、安直な情景でよしとするならその場でたっぷりばら撒くポトラッチになるだろうし、受け取る相手が大勢なら、たとえたっぷり撒いても個々にとっては少額ということになる。
でも、一時、食つなぐことができて、そこで準備する賢い連中もいるから、将来的には巷の地力を保つ層が生き残って、その後の育みに加担していける。
貸し借りの仕組みががっちりしている営みでは、そういうばら撒きは成り立ちようがない。
貸せるほど裕福だっただれかが、貸したばっかりに、食えなくなって全滅なんてことも夢のような話ではない。
借りられて、可能性を探れるまでは良かったけれど、その先のもう少しというところで借りることができなくて全滅、ということも起こりうる。
しかも、相場を操られて、貸し借りの相互作用を安定的に模索することも難しい時代だ。
それでも、ヒトの智慧がそういう不可抗力を極小にして営み本意に近づけるくらいのアイデアはどこかしらで模索され試行錯誤され続ける。

連載は続く~SF掌編『やっとなんとか「ニノチカ」』編


ヒトが成す集団的営みは、とりわけ近代化のその先のような土地柄では大変に一人一人を忙しくさせる。
その為、近代化とともに起こりうる統制性由来の情報扱い上の質的格差ゆえ、公的立場への使命感ということもより濃く意識できる属性のところについ引かれる形になり易いし、客観的には非常に、非情にも、心細いと素人であっても推測可能だったりする。
逆に言うと、公的部門の各地が、USのような土地柄であれば独特の"私的"権力による指揮命令系の操作対象になりやすくなる。
弁証法役割分担よりもより個別性を帯びて、役割をこなすための使命感のようなことにしがちにする。
だから・・、と言っておきたいのだけど、時々の組み合わせ次第では、素人にとっては、US由来の映画群が非情に見通しのための参考資料となってくれた、と指摘してみたい。
今でも、観点の持ち方によっては、相当に参考になる内容を発信してくれているのかもしれないけれど、コロナ騒動での映画上映制限などが重なっていて、列島在住の老人にとっては近づきにくい場になっていて、折角の情報源と距離を置いた格好が継続中。
21世紀に近づいた20世紀末の頃から21世紀のごく初期にかけて、ほとんど映画、テレビドラマを見なくなっていた時期を持つ当時も老人であった素人にとって、今再放送されているテレビ放送での映画、ドラマが一種、情報源になってくれているので、相当に時代を遡った内面世界を、この忙しない世の中、遅れに遅れた位置に観念世界を育みつつ生きている格好だったりもしてそうだ。
とはいえ、不易流行という一面からして、古いのからもこの先へと応用可能な観念世界のなんらかを引っ張り出すことも可能と素人は見ている。

そこで、やっと『ニノチカ』を持ち出す機会を得たかな。

欧米発想系の医薬業界は、免疫系の要請なんてことを多少軽く見て、発熱!じゃ、解熱剤それも相当に効能のいいのをね、とやってきているように伺える。
節々が痛む、それでは、免疫系が働いているからこその機能の脈絡のことは関心外に近いところで、その作用機序を断つ感じで、薬を開発・処方しかねなかったりする。
大抵の諸氏にとって、平熱まで解熱して、仕事しやすくすることをつい望みがちにするような世の中の営みの状態かもしれないけれど、免疫系の都合にとっては喜ばしいことではない。
弱体な老人身体にとって、か弱い幼年期のヒト身体にとって、発熱負荷を軽減できることはきっと体調の持続性に相応しい。でもそういう限定条件付きでそう言える。
折角免疫系が活発になって、その後の100年間以上かもしれない長い人生を病気知らずくらいにやっていける可能性を蓄える過程の一つを台無しにしかねない機会ともしうるわけだ。
素人ことばで何度か指摘しているだけだけど、列島版である漢方は薬処方と一体のところがありそうなんだが、その薬処方以前に診断とかでの心身への接近法、診断法により内実を見るようにすると、解明未だしのホメオスタシスの抽象論・具体性へのオルタナティヴ発信にもなりうる。
発想についてついケチをつけるような欧米観ばかり持ち出しても話としてはつまらない。それにそんなことばかり素人ゆえ考えているわけではないといった辺りのプチ開陳になりそう。
人為という営みに関係する。
政治の郁美とか、ヒトの営みは工夫を重ねてきていて、分権の含みを忘れないようにしながら一方で制御を効かせて、個々の自由度をなんとか保とうとするために、ある規模のまとまりを得て、その仕組みとして営む方法を試行錯誤している。
一種"自然"任(まか)せ、とかのイメージを撒いているようにして、実は、制御を円満に効かせられるように工夫を重ねてきている。
だから人為と関わる、ということになる。
どちらかというと放(ほお)っておけばヒトゆえ、生き物性ゆえ、生殖して代を継続していけるように為にする衣食住をつくろい続けることで人生をまっとうさせやすくする。
観念系を遊ばせて時代を彩る方向性を相対的に薄くさせがちにする。
これもまた味の一つと見なせそうだけど、人口が濃密になってくると、共同性に即問題を生じさせがちにすることは経験的に熟知されてきたから、特に代替(だいか)わりしつつ指導層は、人々が飽きて、神経をピリピリさせるようにならないように、色々集団の営み上の工夫を挟み込もうとしてきた。
で、物知り諸氏には是非、歴史的な脈絡知見など発信していただきたいのですが、『ニノチカ』で男性の方の独身"貴族"氏は、同じように生きている女性の独身"貴族(実際にも旧ロシア圏の貴族の設定)"氏との会話の中で、最近、ボク、一人の女性を巷の人々と同じように、愛することをし始めたんだ。とか語る。女性の方は、しょーもないやつ的に反応している。
ここらは若者風俗での、軽い奴ら、ナンパ系がなんやかやしているノリとは違う、ということをまず指摘しておきたい。
将来にわたって自らの人生の様を独身的な位置を保ちつつ、相当な世の中の基底部分への関与を心得られる立場の人々間の会話のように『ニノチカ』では設定されている。
一般がそれこそそうありたい幸せと思えてしかもそう簡単には実現しない夫婦の幸せ観を共有しない人為に関する観念を継承している人々を欧米に見ることができると、素人は勝手に決めつけていた。(ということで物知り諸氏の助力こそありがたいわけだ)
一人を愛すると明確にことばにしていることがヒントとも受け止めた。
公的立場が今ほど統御されていない時期を想定できていた、からかもしれないけれど、一人に執着しないことがもたらすヒト観念系への作用を経験的にしっかり整理されてもいたと素人には推し量りたくさせた。
なんらか争点を生じた際、えこ贔屓(ひいき)とことばにしてしまうと単調な、片方からする我儘のような印象にさせかねないので、言葉としてはもう少し相応しいのを選びたくなるが、イメージとしての大岡裁きのように、平等な扱いをベースにしながらも、実情に精通して、利害関係者の腹にすとんと落ちるような解決を目論める試行錯誤にとっての基礎的観念系を日夜育んでいる奴(やつ)ら、としてみたくなる。
家族を持てば、そうはいかない。当たり前のことだ。それはそれで、そういうことが日常だ。
でも、捌くとか、公的な立場で、わたくし関係に介入する場合には、だれかを忖度してそうだとか感づかれただけでもう公的立場は粉々だ、その建前を信じてもらえなくなってしまう。
そして欧米でも、そういう立場を継承する伝統があったのかな、とエルンスト・ルビッチ氏や脚本担当の超有名人物諸氏らの発信を受け止めていた。
ジェームス・ボンド氏になると、ちょっとはめを外すノリの介在もありで、そこは極端なストレスに晒されやすい職業柄ゆえと見なすこともできる。
でももう少し引いた立場ででも責任は同等かそれ以上というタイプ諸氏に継承され続けた生き方ということの欧米版を垣間見た思いを素人は経験したつもりになっている。
一方の性がそれを選ぶということでは成り立たず、両性がそういう生き方を選び継承され続けてきた、という辺りも興味を誘う。
とはいえ、成すことの内実に関わる観念はいつでも更新され続ける必要くらいは、素人でも気付ける。(いつでも新たなもめごと、技術、観念系が登場してくるのだから、それへ接近する公的立場を確保できたとして対応能力ということでは"書き換え"を欠かせないというわけだ)