連載は続く~ SF 掌編『持ち時間感覚はどうして年齢とともに・・』編


 ことば表現上は大雑把そうに受け止められそうだけど、とにかくズルが相互関係の働きゆえに、逐次、落ち着くところへと誘い続けてくれる。
 そこで、差異観点からするヒトの為す経済の営みについてはおしなべて、ズルが見つかり易い程度には各構成員諸氏にとって生活し易さの方へと誘い続けうる、と押さえ易い。
 ここらはより広く人々が範囲を意識しあえるくらいに経済の営みについて関わる決まりごとの個々の事情において熟知していればいいことと汎用的に作用しあういくつかの要点などはお互い共有しつつで、残余の不可抗力的出来事については、その都度、範囲の内部での調整装置(人や制度や)が作動してくれて、時間を経て解決へと誘(いざな)ってくれる。
 理想的にはそうだろうが、それでもぎくしゃくは残りそうだ、程度の事々については含まれるということで、それも知らんぷりされるようなことはないはず、と押さえて、差異の観点からするヒトの為す経済の営みにおいては、たとえば、江戸期の出来事として有名過ぎる銀についての計り方の違いが地表面の地理的分布において生じていて、そこらを全体像として理解出来ていただれかたちはそこに生じていた差異を利用してぼろ儲けも可能になった、というように、遠隔地貿易商人がどう工夫しあって莫大な利益を生じさせえたかの辺りと差異をどこに見るかの嗅ぎ分ける力量などが、当面のぼろ儲けを生じさせるにしろ、それが追々、その違いを使い分けうる力量中のズル要素に気づかれて、更にズルしてその状態を保持しようとしたこともあったかもしれないが、大抵は時間経過の中で、平準化していく趨勢は避けえないできたのが、ヒトならではの経済の営みだ。
 だから、今時の経済の営みにおいてぼろ儲けできている原因が発明発見という今でも特別視されている約束事以外のズル系の要素たっぷりな要因ならば人々の営みがそれを許してくれなく、その許さなさは、もっとズルじゃない商品をより買おうとかするかもしれないし、露骨に不買に走るかもしれないし、罰金とかのルールを作るかもしれないしで、色々手をつくして対応するようなことが起こる。
 市場を上手に使いこなしているならば、価格の上下動が激しく動く前に、市場からする調整機能が働き易い。
 ここらもより広域において、差異の観点からしてその悪用、ズル的応用をしにくくしている安全、安心な人々の交流圏模索が意欲的に営まれている時期を想定することで、なんとなくであっても了解してもらえそうだ。
 利益はそこそこに均されていくのが市場を上手に使いこなしている状態と言えそうだ。
 世の中に不要なものは滅多にありそうにないのだけど、それでも、似た働きのものが重複するようなことは生産から消費行動の間に生じやすそうだ。
 そこで無駄というか、余計なゴミが生じたりもする。
 ヒトがいくら大食といっても限界はあるのだから、作り過ぎも似た現象を引き起こしかねない。
 足りないこともあるだろうけれど、ある時期を区切って足し算してみるとヒトは結構余分に作りすぎていたりし勝ちのようだ。(根のところで不足・飢餓への恐れがありそうだ)
 より実際的営みを列島の人々に見ることができるとして、その人々は利益を盛りだくさんに上乗せして隠して商品のやりとりはしないタイプだ。
 他所ではそういう激しいズルタイプを演じ散る土地柄もあるらしいことを、土曜日中の経済番組で知った。今時のことのようだ。それだから景気がいいらしい。
 そのズルは市場が上手に応用されているか、差異知見なり差異感覚をその土地の人々が育んでいて、ストレス耐性と相関しやすいタイプのふくよかなだれかたちがついその切迫性に油断してしまうようなことが無いならば、経済は実力相応のところへと落ち着く方向を選ぶ。
 生産の担い手、流通の担い手、販売の担い手諸氏がそれぞれの思惑で動くから、いつも適切な落ち着き方へと誘われやすいとはいえそうに無いけれど、長い目で見れば、そういう落ち着き方を広域で経済の営みに工夫をくわえようとし始めたヒトの世の中においては、ある程度の安全・安心・安定をもたらし始めている。慣れない頃の(他人任せが膨らみ始めた営みの世の中での)経済の営みの激しさは経済学や社会科の教科書などが散々紹介してきた。
 巷での詐欺系のズルも未だに無くならないけれど、ネットを通じた詐欺系のズルは繁盛しているようだ。巷での知恵を応用するには、ネットの気安さに巷での濃度が注がれることになって、ネットらしさを損ないかねない、ということもあるのかどうか、ネットを通じたズルについては、市場任せの上手な応用面を働かせられるかかわり方くらいのアイデアはいくらでも(一方の悪用の勢い同様かそれ以上に)若者達も事情通の老人達も
提案してくれそうだ。
 定期的なくらい頻繁に兄弟の妻にあたる人物がなにかと面倒を見にやってきた独居老人が孤独死した上に勝手に火葬されてしまったという特ダネニュースを先日テレビで知ったのだが、最近の市役所職員は、職場の戸籍等のデータを漁りはするけれど、救急で独居老人宅に赴いた諸氏や独居老人宅の近所の人々にそのお宅を訪ねて来ていただれかはいなかったかどうか程度すら聞きに行っていないことが事実経過を紹介するテレビニュースからは判明している。戸籍を調べられる範囲をなんとかしろとか、親族に火葬を任せるなとかの話でニュース担当の編集係り氏はまとめていたようだがそんな台本を読まされるアナウンサー諸氏にとってはいい迷惑だったに違いないと、素人のかなりの老人ゆえ、冷静に受け止めていた。
 差異観点から経済の営みの広域を達成しつつある(地表面上の)人々がより安全・安心・安定的な生活を営めるようにするには、公務系も油断し過ぎてもらっては困るという程度の指摘は老人ということでお許しいただきたい。

 

 先日の女子サッカーの試合では、WEリーグ他チームにここらも注意しておければ、得点されることをなんとかクリアできるかもの辺りを紹介できそうに思えたので、(すでに強豪チームではあるけれど)育ち盛りの若者達がとにかく試合毎に工夫を重ねているところの日テレベレーザチームでは、なんどか引用してきている岩崎選手と柏村選手のお二人が、巧みなシュートを放っておられたのを、少しだけふれておきたい。
 決して力任せではないシュートを二人ともが放っている。
 お一人はゴールの天上部分スレスレを狙ったシュート(岩崎選手)。
 もうお一人はゴール上段隅(すみ)を狙ったシュート(柏村選手)。
 どちらの選手も途中出場が多いけれど、場数はカップの試合の頃からでも相当になる。
 そして、狙いをすましてのシュートをちょっとした瞬間に蹴り出している。
 両ケースともわずかに外しただけだ、とふれただけでも、多分、現WEリーグの女子サッカーの選手諸氏にとっては相当な脅威と受け取られるのではないか。
 実際、もうちょっとだけ実試合での圧に慣れてしまえば、かなりの確率で、その精度のよいシュートを決めるようになるかも、と思わせる蹴り方だったのだ(素人老人の感想)。
 こう紹介してしまうと、両選手への試合での圧が大変なことになるようなことを誘っているようなことになるが、ベレーザチームにはより多く、シュート力のある選手がいるわけで、特定の選手向けにマンツーマン守備体制をとったところで、一対一の弱点が露呈するだけと(素人老人は)察する。またパス連携巧みなチームの相手チームがまったくボール支配できないような試合はつまらないものだ。お互いがボールを支配し合えて、得点までこなしつつ、せめぎ合って、それゆえに技の様々が披露されるタイプの試合はこれからの季節、観客を大いに湧(わ)かせてくれそうだ。
 自動車とヒトの関係への想像力がよりリアルに働かせ合える時代になってしまっているから、多くの自動車のドライバー諸氏は、今時、年寄りにとってはかつてを思えばとても(大げさに感じられるかもしれないが)幸せを感じさせてもらえるくらい、状況に応じて待ってくれたりする。昔の若者、今たいそうな老人なので、恐縮してしまうくらいの経験になる。
 男子サッカーも格闘技売りは、そういった自動車とヒトとの関係についての感受性を勘違いできた頃までなら、お互い放任し合えたかもしれないが、今なりこれからはそういうわけにはいきそうにない。
 寸止めには猛烈な力量を要する。技術も。
 だから雑な力のぶつかり合い以上に筋肉系についても工夫が要るのはこれからもかわりはなさそうだけど、ヒトどうしが体を接しあう場面でのサッカー競技版としては、相撲タイプでの力の我慢比べシーンはありえても、ぶつかって弾き飛ばすタイプの力技は即反則となることで、体の大小が邪魔にならないスポーツ競技としてもより育ち易くなりそうだ。
 女子サッカーでも、男子サッカーのあらっぽいのを真似る必要なく、女子の筋肉系、肉体系、技(発想他を含め)系前提に様々に工夫しあえそうだ。


 レーザー測量の装置は一般にとっては相当に高価なようだ。
 貧富の格差が巨大な土地柄ではその巨富を用いてそこらは抄き放題な感じかもしれない。
 そのレーザー測量をドローンを用いて古墳測量に応用する番組を見た。
 3D可視化すると、デジタルデータ上、樹木の部分を簡単に除いて、地肌にごく近い凹凸の表現もできてしまう。
 その少し広い面の観測から、凹凸の読み取り知見ゆえに発見も十分にこなしてしまうようだ。
 他の歴史番組では桓武の時期を紹介している。
 なにかと事情通諸氏においては桓武についての話題が豊富のようだけど、かするくらいには、そこらまで踏み込んでいる感じだ(初めの5分間くらいしか見ていない)。
 確実に扶余系(ひょっとしてことばが近いのか、また、その系脈を意識し合える古代での関係性などありえたのか(九州系すらが巨大噴火ゆえに住民はその後の新参者諸氏だ))が膨大な意味での多数派なのが古代列島人脈のはずで、しかも660年を想起できるならば、権威のよりどころである中国筋との出来事から百済系の一派が扶余系の中でもなんらか意欲を発揮したくなっていた仮説も持ち出しやすい。一方で、中大兄(やその密さから鎌足氏)の立場は危うい。百済脈においてもそちらの方は危うい。
 そして高句麗系は、福信氏を代表させることで、多分、それなりの有力脈をその後も保っていそうだ。明治の頃にも高麗郡や高倉地名は残っていて、かつての古代ハイウェーが入間郡高麗郡も貫いているが地面の下だ。すごい瓦が廃寺跡から出ていることも不思議にはならなそうだ。
 そして扶余系の時期をずらした移住も関わる各地性が古代のある時期にはより争いを誘い易くしたことも押さえておけそうだ。
 ことばは通じやすかったら、それはそれでケンカもしやすくなる。困ったものだ。
 九州系に女性の呪術系トップを輩出させたことの内実を、加耶系の男子持ち上げ系との対照から興味を誘う。九州を意識できる脈々は今日において、少しは女性のリーダー層が育つ環境整備に(古代以来の発想からして)力を注げそうにも思える。
 男(おとこ)脈はだったら女性に任せてしまおうと、楽な方を選ばせかねないので、そこらはいっしょに研鑽し合えることが望ましいとか妙な言い方になってしまうが、素人老人はそう考察してみる。

 

   川柳もどき

    タイヤの注意書きに
     このタイヤは雨の日だととがったのを拾い易くなるとあった
     前日の雨降り後の水溜りが続く道を、自転車で走り
      翌日はパンクの修理となった
    先日、生演奏でギターの引き語り(ギターの(特に)音色や弾くリズム・テンポがよく)
     空が抜ける感じでその響きと空の色が・・・
     先に浴びていた木琴と踊りの質感や沖縄の楽器がヒトの声と重なるメリハリ感
      それらをバックにもしていて
     とうとうフルート演奏まで登場して、スピーカ音響の歪みが邪魔にならない生な演奏
      をいつのまにか満喫
     持参の(隠し味が蜂蜜)チャイをグビっと少々
      そうとうに老いぼれの日々が更に過ぎ