連載は続く~ SF掌編『綜芸種智院、勧学院から150年ほどして』編


 ことば運用は、歳月とともに、の現象の一つと素人が指摘してもそう無茶ではなさそうと察する。
 一方で、今時なら巷の諸氏にも関わるように、この今、たやすくことばで通じたい、にも関わらず、時間的性質がかえって邪魔となって、とことば運用の難しさを意識できたりしている、と素人なりに勝手に想像する。
 人生時間のいつでも伝え合えることばを身に着けて必要に応じた会話が可能になる。
 そういうことばを生み育てたりの何度か目をヒトの営みがこなしていたなら今日、(それが避けられるべきと受け止めうる事象に関して)何事かを迎える以前の時日においてそうならないための工夫のなにかしらを試行くらいはしていたと想像しやすい。
 同じ母国語を使いこなしている間柄だとて、行き違いの毎日じゃないのかい?と厳密な内容をぽろっと指摘する諸氏も大勢いらっしゃることだろうと察する。
 大げさなシチュエーションを想起しなくても、ことばそれ自体がそもそも問題を抱えてるのさ、というニュアンスが溢れてそうだ。
 それにわかったつもりにさせる慣用、ちょっとゆずって定型の数々をただ使いこなしているだけ、という場合、今や人工知能系の研鑽を時々刻々積み続けているはずの作文機能はヒトの能力以上にすばやく簡単に定型・慣用を用いて応答してくれる。
 ただそれだけのはずが、ヒトの営みが大雑把にはそういったことばの経済性に支えられていたことを振り返らせる機会となってしまっている。
 定型でもなく、慣用でもないのに、応答がそれはただのでたらめということ込みに、その先について慣用・定型ですぐれもののことばを連ねてくるならしょうがいないけれど、そういう経路に戸惑いを生じさせるくらいのその先予感がむずかしい定型でも慣用でもない言葉発信で人工知能へ返して、それにかぶせるように、慣用・定型の外しと脈絡つながりを提供して、人工知能に戸惑い系の応答を読めたら、定型・慣用にも関わらず脈絡的には定型はずしだし慣用はずしだしをそうは読み取れないように提示できることで、ひょっとしたらこの程度の段取りでも人工知能系の現状のからくりにとってはきついことになりそう、と素人が指摘してみても、それは無駄なことだよ、と今時の水準が返してくるのかどうか。

 ネット利用のばあい体臭とか気配とか体温とか表情の肌理とか8K映像会話でも伝わりにくい要素分類できにくい対相手が醸す"要素"やその場"要素"の数々(と数えられるようなそれ以上について)抜きという特殊条件(対面ならごく当たり前のことだらけだから)での会話が育ててしまう特殊性ゆえのことば運用という事態を想起させる。
 だから地表面規模でのライブ感、同時性、同位置性を共有できてのことばの育ちという長期展望を想像することは当面と限っても止めておいて差し支えなさそうだ。
 そこらからいきなりになるけれど、各地性は自発性とも関わることはいざ中央集権化を試行しはじめる主体たちにとっていかに長期的結果の事態として貴重だったのかが反省されうる判断材料にしうる、ということで、ことばも、広範囲に共通言語を育てる、となると面倒くさい方の動機がまじって暫定的な形に誘いやすそうだ、と押さえて、範囲は限定的になるけれど、その土地柄において、長年月使いこなし、しかも集団の営みと密接さを保ちして、進行中の状況的にも暫定的結果としてもある種の円満さをもたらしていそうだと第三者からしても見なされるようなら、そのことばは上手に育てられてきたのだな、と述懐くらいはしてもよさそうだ。
 市民社会の想定においてならお互い様(これは列島言葉風)、お互いの尊厳を尊重しあうとかで成り立つ脆い仕組みだから、ことばの成り立ちもそれらを支えることに通じているはずだ。弱みに付け込んで市民社会をいつも壊しまくっているようだと、市民社会はいつも試行錯誤のごく初期状態のまま、ということにしかねない。
 だから尊重し合えている安心感というか形式的錯覚を発揮できることば、といえば丁寧語をお互いにできているけれど、それがいちいち意識しているというよりは慣用にことばとしてこなれて直観的に交信し合えてしまっているようなことが成り立っている状態とも指摘できそうだ。
 たとえば今時のためぐちとか、上下関係を感じさせないようにのつもりからか以前なら目下に使っていたタイプのことばの群れをお互いが使いあうように慣れてしまうと、ヒトは不思議なもので影響圏を競うようにそこに政治をことば使い上含ませるようになって、かえって市民社会っぽさを希薄にさせがちだ、と素人老人年齢からは推測している。
 まったくその場は、ざっくばらんそうで決してそうはなりにくくする。
 ニュアンスを上手にするだれかたちが、ざっくばらんを演出して浸透させて、ということは演出としてしっかりできる場合はありうるけれど、人の出入りが激しい場面で、それは成り立ちにくい。つまり平常の常態としては、無理の方が大きなりそうだ。
 ことば運用におけるある種の流行らせ脈の思惑は、素人老人的には、ヒト理解をそっちのけの試行錯誤の一タイプと見なしている。ことばの使い分けを避けるなら、必ず他で政治を働かせて、落ち着きをもたらそうとしてしまうのがヒトだ。ことばを形式的に応用して、落ち着かせておいて暗黙の駆け引き政治を持ち込まなくて済むようにすることの方がヒトならではの知恵を機能させている場と指摘したくなるのが素人老人だ。

 ついでに、ヒトは考えながら厳密に使いこなすという作業には向かないから、ことば運用の工夫といってもそのタイプで繊細さを強いるのもまずいことは多くの諸氏が納得済みと察する。
 時々、自らの使い方が粗くなってそうだと思えたら、文字の群れと付き合ってみることが多くの諸氏の心がけとこれも素人老人ゆえの察しだ。

 元気なピジンクレオール状態のことば使用の時期をだれもがいつでもどこでも体験する機会を得やすい。一方で、使いこなし、その過程でことばの使い手との出会いから気づきを得て工夫できてしまえる気持ち良さとかもありがちに通過しているのがヒトの世界だ。
 だから外国語として覚える以前に、ピジンクレオール状態での会話場を元気が錯綜しているような場として遭遇できることがより近道とも言えそうだし、そうなると地表面規模での旅行・商取引業は栄えても言語教育の方はより専門家向けということになってしまうのかどうか。

 

  川柳もどき

   兼家(かねいえ)氏が自分を巷で評判のだれかにするのに女流文学『蜻蛉日記』を使ったと見抜いた今西氏
   列島のことば史との関りから変体仮名が溢れた状態にことばの経済が働いて
   千年余、今日のひらがなに落ち着く。
   しかも、現存の古典文献の多くは古くて鎌倉時代、その多くは室町時代の『写本』か江戸時代の『版本』
   それらはことばの経済が働いて変体仮名もそれなりに淘汰を経た時期のものと紹介され
   更に、日本古典の印刷は江戸期の印刷文化とともに、で南蛮脈すら関わって、古活字だって使われ、それが版木を彫っての整版主流となりで、古活字版源氏物語はネットからも読めるとのことだ
     九州大学版はこちらから
     https://guides.lib.kyushu-u.ac.jp/c.php?g=774839&p=5560033

* 参照本:今西祐一郎著「かな」をよむ・・・『文字をよむ』(九大出版 '02)p61から
           『蜻蛉日記覚書』(岩波書店 '07)から