連載は続く~ SF掌編『稼いできた高齢者諸氏は考古歴史検証旅行しまくってネット発信してくれ』編


 若いうちはことばなどを駆使して知識を扱うことにおいては未だ大バカ者の時期だ。
 この指摘に抵抗を感じる諸氏も多少はおられそうだけど、自らの若い時分を記憶違いの介在の危険度も考慮しながら、潔く振り返っていただけるなら、それなりのほとんどの諸氏からの賛同を得られそうに素人老人は考える。
 若い時分の独特な才能の状態を示す典型的な事例は、数学天才たちだ。
 なぜか子供の数学天才はいつの時代でも登場しやすい。
 一方に、コードを演奏とともに身に着けたキーボード奏者の子供たちの天才ぶりも、登場しやすかったりする。クラシックタイプもいれば、即興演奏タイプもいらっしゃる。
 しかもジャズ好きたちからするとその即興は"聞くに堪えない"場合がほとんど、ということになりがちにする。
 映画、ドラマ、小説、ドキュメンタリーなどの個人に限らない作者諸氏からは若くして兵隊に抜擢された少年や少女やの武装兵たちの冷静無垢ゆえの残酷度などを冷静にそれゆえにその度合いの深刻さなどが伝わるようなシーンは、散々、そして時々、紹介されてきている。日本語タイトル『禁じられた遊び』などもある程度の年齢層諸氏にはお馴染みと察する。
 で、ことばのいたずらが作用しやすいように、若者ってのは、子供たちってのは、そういうものだ、と若者、子供たちにそうなることが普通の趨勢であるかのように誘導するようなメッセージ性を働かせることも、当然慎(つつ)しむ必要ありだ。
 また汚染と清潔の対比において情動を揺さぶるタイプの仕掛けにわざわざ乗ることもないくらいは、今時の諸氏ならば、少しくらいは気づいてもらえそうだ。
 大変な人生を引き受けた生々しいこの今の状況において、という諸氏からだと、そんな時のむしゃくしゃした気持ちの持って行き所を、つい、身に着けたパタンの方で受け止め、考え、その線で次なる観念を育てて、どこが悪いの?となりそうだけど、そこは今時のことばに関する研鑽の積み上げを整理したところを得やすいという条件下、そのパタンに乗せられることもない、で、丹田を意識して深呼吸くらいはしてみることが結構役に立つ。
 (唐の時代の高宗武則天氏の頃の大国風と照らした程度からも)超大国らしからぬ超大国がいかにその必要条件を満たしていないかは今になってかなり指摘しやすくなっている。19,20世紀作戦のある時期以後勘違いの方に転轍機を切り替えてその惰性が強いという見方が可能だ。その一つとして、諜報網の世界大での展開の副作用のひどさを指摘できることは、素人だからことばにできるけれど、公式筋は、お互いのことであるし、超大国のその実力度からして、下手に公式にことばにできにくい(情報網とか力作用が入り組んでしまっている)し、公式ジャーナリズムのメインストリームも、マイナー系も、その中での作用因でしかないから、ある意味、諜報の脈絡にとっては使い方次第の要素になってしまっているため、結局、よくはわかっていないだれかたちが、空想で語って、時間をかけて追々、察知できたメインストリームが少しずつ改良していくしかないような入り組みを、素人老人は想像してしまう。典型が麻薬生産・販売・流通・消費地のネットワークで軍資金としての重要度が最優先ならば、とっくに内部から壊れていると素人でもわかるけれど、恐らく、情報とか、ワルに走りやすいだれかたちが絶えず生まれ育ってくるその経路において誘って参入してくるくらいワルなら追々絶やすくらいのフィルター役プラス危ない情報の流通をいつでもチェックできるための装置になっているはずだ、とあいかわらず映画仕込みに素人老人発信になってしまうが、そこは素人、映画の作りて諸氏の情報網をちょっとだけ頼っていたい。(もちろん、列島の出版、オルタナティヴ地味目発信諸氏の貢献を忘れてはいけないし、一方的に信じ込む読み方ではない工夫が要る)
 それゆえ、若者、こどもたちは、ある意味、わざと試されてしまう。若者仲間、こども仲間からも試されたりする人間関係に誘われがちかもしれないが、大人たちも関わって、そういうことが起こりやすくなった近現代試行錯誤の一面を指摘してみたい。欧米流の宗教脈な諸氏、ないし列島育ちだけどその脈から影響を知らず知らずも含めて影響を受けてそだってしまった諸氏においては他人を試すことに躊躇が無い度合いが高めと想像するがいかがか。その試すこと自体がヒトをさまよさせる方に誘う作用因となることを列島在来発想は熟知しているから、試す視線は、実際生活の中でいつでも大人たちは働かせてきた。どの土地柄でもそれなりに厳しい視線は交錯させてきている。どっきりカメラ発想は外来だろうな、と素人は憶測する。

 ここまでは若者、こどもたち諸氏にとってはそういうことかよ、程度のがっかりネタにしか映らないはずだ。
 だから、もう少しふれておきたい。
 なぜのあたり。どうして大バカ者なのか、のあたり。
 たまたま近現代化の過程は、専門分化と言い古されるような考える筋道を丁寧に扱う上での工夫のあり方を独自に研(と)ぎ澄(す)まさせてきている。
 だれもが忙しくて世の中の事全体を相手にして通暁している状態からはほど遠い状態をかこつように生活している。
 法律の専門家なら、その語彙の脈絡において他の分野のことばの使い手諸氏からはちょっとやそっとでは追随できない程度の整然として使い手として振る舞える。その世界内では相対的にバランス良く振る舞える。
 他分野もその線で推測可能と素人老人は一応押さえておきたい。
 あるころまでは、それぞれ各分野について精通度合いはそこそこでも各分野に精通して、ということは世の中での生きている諸事も含めてということだが、そういう物知りの凄い知識層っぽいのも育ちやすかったけれど、その程度では迷惑になってしまうくらい、各分野の専門的精通度が必須の時代となって、研究データが公表され合うことで、過去の知見の見直しの勢いは凄い事にもなってきている。
 だから専門分化の趨勢を片方からの視線で困った事態と見なすだけでは済まないことにも気づける時期にきてしまっている。
 けれども、ヒトの観念系の研ぎ澄ましの現象である各分野を足したり、掛け算したりなどしてみて実際的な必要に近づかせるかどうかは、また別問題と見なせる(ここでは説明は端折る)。
 ないし、実体とか真実とかへの漸近線を張れるかどうかも不確かだ。未だ、そこを追及する度合いが放置されてそうで、問題として一般には届いてこないけれど、素人だって、医療とかそういう心身事に関わる身近な分野との接近から、多くの諸氏が気づけていると察する。
 そこらの、専門分化の弱点の芯の辺りを考察するヒントになりそうなのが、その専門分化がもたらす、精錬のあり方と若者、こどもたちのことばを駆使した知識の状態との近似のことだ。
 昔から列島育ち諸氏はことばとして、聞きなれてきたかもしれないけれど、こどもたちが(大人の観点からすれば)教条的なことを多くのことがわかって言い切るタイプののりで、正しい、間違ってるの類を控えさせて強くことばで迫る場面で、未だ世間知らずだから・・・と状況に合わせて、言葉を工夫してその場を落ち着かせようと年長者、大人たちが試みたりする。
 ただ、その大人たちだって、忙しいから、世間という定型で事を流したくなっていたりする。その定型性は、土地土地、時期時期とか様々に形成されているから、個別ケースとして、実際にはどういうことが起きていたのか探る必要は欠かせないけれど、とりあえず、そういうことが起こりがちにしてきた。
 しかし、研ぎ澄ましてそうなったのではなくて、ヒトの育ちの年代的なものと素人は察するのだけど、すり身のような少し専門的概念をもてあそべるようになって、そうなると心身化できているわけで、本人たちにとってはある意味、全的に理解できている一要素のように受け止め得ているはずだから、いざ責めたくなってしかも責める流路(観念、気持ち、実際の現場とか)を得てしまうと堰を切ったようにことばにできてしまう。引かない。信念の塊に為(な)れる。
 そこには一面、ショートさせているが故の発明発見の契機も含むから、一概に大バカと言ってしまうことも間違ってはいるのだけど、そう譲って済ませないほど教条を発揮してしまう誘いにもなりかねないから、老若ごいっしょで動かす世の中という当たり前性を踏まえるなら、お互いがそのくせの辺りを察知し合えて上手にやりくりできるように時代状況に応じて具体策を探っておくことが欠かせそうにない。
 その一言(ひとこと)の含みを直観できる年齢の諸氏ならば即気づいていただけるはずの、その一言の含みを説明するとなるとなんやかや回り道だらけして、やっとなんとかその一面を説明できるけれど力不足を実感させられたりとかを引き受けることになる。若者、こどもたちはそこらのストレスよりは言ったことで説得できるかどうか、ないしその度合いがストレスになるようなことばのわかり方の状態(削ぎ落した語彙たちをもてあそべる年代)だ、と対比的に持ち出せるわけだ。
 そして、強引だけど、専門分化について余程その根源のところを押さえたうえで応用しないと、そういう運用の方へと誘われがちにするだろうな、と素人老人ゆえ指摘してみたくさせる。
 専門分化ということと、専門分化の現象面と程度でもその実際について、考察しておくことは、無駄にはならないと、この今の時点で、素人老人は考える次第。

 

 働いて稼いでこられた高齢者諸氏の方がたっぷり、と列島事情を想像する貧乏の方の素人老人ですが、何度かふれてきたように、列島ではたとえば鉄道網や地域の交通網がそれなりに整っている(廃線、廃バスとかが起こっていても)。
 仕事を辞めても、体を動かすという場合、興味の歴史探索の応用から、ということで、整備された交通網を使いこなして、しかも列島の研究者諸氏もそれなりにサービス精神旺盛でネット発信してヒントになるような情報もそれなりに整いつつあるしで、自ら考古知見を検証する小旅行だって稼ぎの使い道としてなら無駄にならない。むしろ人生の生命力の肥しにできる。
 宇宙系も観測データを求めて活発で、一応、既存の学問知見の整理に応じたような語りにはなっているけれど、観測データへの熱気次第では、やっとお待ちかねの物理系の新理論の脈絡が芽生えてくるかもしれない。
 歴史系もこれまでの研鑽を基調・貴重としつつ、尊敬しつつ、巷の知識たっぷりな素人とはちょっと違う諸氏がこれまでの知見プラスで自らの検証のための小旅行を積み重ねて、ちょっとした新発見データかもの辺りを提示して、ネットほかを巻き込んでのさらなる検証が重なって、学者系もだまっていなくて本まで出して儲けながらも一般にヒント発信してくれてそれを踏まえて歴史通の一般の高齢者層からさらなる検証作業が発信されて、白村江へどれくらいの兵が列島から行ったのか、その出来事と、遣唐使の船が事故で死人を出す度合いとの比較からその不自然を厳密に指摘してくれるだれかが今出現してくれてもちっともおかしくない情勢だ。
 ヒトの活動は積極果敢だし、でたらめじゃないから、安全安心も大昔から追及されてきた。今でいう貿易商諸氏もそこらはしっかりものが多かったのだから、もうとっくに技術、知見が広まって以後の時期の中国は後漢の頃の以降の列島からみの出来事においても、そこらの観点から厳密な検証が必須で、それぬきに時代相を語れそうにない。
 どこにどういう連中が往来していたのかとか、地域性の方での濃密な観点導入も不可欠だ。
 分権の必須は、内発的に物事を営む工夫と濃く関わる観点からしても、すぐに気づけるけれど、そうだとしても、いつでもその内部に中央集権と見なせる作用の必須を含ませていることに気づける観点も欠かせない。
 そういう観点からする中央集権化の試行錯誤としての未完の列島史をだれかたちが今でもきっと描いてくれている、と(老いぼれは)空想する。
 試行錯誤が分断へと誘いにくい工夫を、その要点を初期において組み込み得た列島試行錯誤を担った人々の色々が紛れ込んでいたかもしれないけれど要点を忘れずに来た発想の連綿をも描いてくれればと(老いぼれは)思う(たまたまの偶然お隣り超大国だった中国が高宗・武則天氏の頃という観点も欠かせそうにない)。