連載は続く~ SF 掌編『"植物の科学"』編


 非連続にその長さ、距離を測ることの困難さ、という辺りは、実際的な長年月においてヒトをして忘却の彼方、ソナタへと誘う。
 一応ありがちな30cmのものさしを持っているとする。
 それでもってそれよりも長い長さを測ることになった場合を想像してみる。
 その前に、
 おととしニュージーランド産のネーブル有機を意識させるような宣伝文句とともに、手ごろな大きさと手ごろな価格で並んでいて、結構あじわえたものだった。
 去年、突如それはアメリカ産へと変わり、宣伝文句も農薬の類への注意書きとなっていた。
 やや小ぶりとなり価格は同じ扱いだった。
 少しして、そこへオーストラリア産も並ぶようになった。
 おととしのネーブルの大きさは大雑把には7~8cmか。
 ということで7.5cmとしておく。
 実際、くだもの大きさは規格をそろえているとはいえ厳密にはバラバラだ。
 表面の仕様も個性だらけ。ならば、とたとえば75kmをそれで測ることを空想してみる。並べてみるわけだ。膨大量を用いるから性質上困らせる凸凹のばらつきは均されたと見て差し支えなさそうだ。とりあえず大雑把な7.5cm平均で測った時の使用個数で75kmを繋いでみせればよい。
 75kmだと直感しづらそうなので、cmへと変換してみよう。
 mに直せば75000m。でcmにすると7500000cm。750万cmだ。
 7500000÷7.5で100万個がつながっている、と出る。
 ものさしとか大きさを持つ(視覚上も観念上でも)ので測れると実に直感的に達成感を得られやすい。
 さて先に戻って、物差し二本すら持っていない時に、どう測る、という問題。
 実際の実際的厳密度からして、測れた終端からまた測ればいいだけの話には違いないのだけど、厳密には幅があっては困る。
 正確にその次?から測る必要がありそうだ。
 そこを0点とするなら、そこに大きさがあっては困る、という話になる。
 大きさが無ければヒトは認識できそうにない。勘?!・・で行っちゃえ!で実際的見地は事を運ばせてしまう。
 この場合のこだわりは、とりあえずもう少し厳密にだから、となると、見えない終点に重ねるでもなく接するでもなく起点を探してという作業が必要になっている。
 そこをどうできるかの話になっている。
 そんなこと考えるのは、子供時代に算数を習いながら、ついでの(数字にまつわる)面白話として聞かされたエピソードの一つじゃないのとかで流したくさせそうだ。
 ついでに、今時は超精密な長さ、大きさの道具の類が大活躍している。それらはちゃっかりか厳密にかしっかりと計測されて出来ている。現実にはそこらはクリアされてそうだ。
 だからヒトはいつでも実際的解決を手繰り寄せる名人達だらけという想定はきっと間違いじゃない。
 けれどもそこには便法というのが必ず介在していそうだ。
 誤差が極々小さく視野に飛び込むような、とか機械的な計測での達成とかで、同じヒトの癖(観念系の二本[どちらの性質を持たせた数値を想定しての操作をしているのかをごちゃまぜにしていないかどか、観念的に大きさとして見えてこないと区別しにくいとか])を邪魔にしないやり方でもってその極微小を達成してそうだ。そこらのコツを掴むと事業化も成功できたりする。測定や製造技術の現状をネット調べせずに書き込んでいるので、話としては相当にいい加減になっている。


 お互いが試行錯誤しやすい世の中だったら、それは市場原理主義とかけなされることもないと察する。
 そこらを閉じようと一方から身勝手を働かせる場合が生じると、老人的には時事問題につい、不満ぽい方でことばを投げかけたくさせる。そういうのりは、たらたら乗りに誘うから、いっしょになってたらたら乗りを共に、なんていう受け止めは禁物だ。
 話としてできれば読み流してもらって・・程度がせいぜいだ。
 何度かふれてきているように、列島(各地の)育ちの不良たちは瞬時に見抜く。しぐさ、目配り、表情、姿勢、力の入り具合、位置取り、手の位置、足運び、服装、手荷物、ボケットの中などなどさまざまを現代版シャーロックホームズ氏の瞬間読み取りのようにして、対相手の態勢を整えられる。たとえばそこから逃げることのできる一瞬の機会をそれによって見逃さない。
 だから救命ということではまったく(ドラマの筋上は助けたりを描いてしまうが、こいつらに人助けはできないなと落胆させるくらい)残酷感受性を丸出しの昔のドラマたちにしても、人生とかその手の話に載るようなエピソードでは、ワルも追う方もそれなりに繊細な観察者たちであるように描くことを可能としてきた。
 そして今時。
 その昔の世代にあたる警察幹部経験で警備の方でもプロフェッショナルであることを実地に他人が認めるようなことを為してきた人物が、今時の事件を解説する機会を得たりする。
 二、三度テレビでみている。
 ごく最近は多少、ことば少なめになっている。
 問題の在り処を多分捉えている。ことばにして一気にまくしたててしまえば、逆に現場のノリをそぎかねないことばたちのはずだ。
 警備の学問系も賑やかにテレビに出てくる。
 一面、そういうことだろうと思わせるが、恐らく、システムの方の完備は事態対応と費用との相性からして、過剰の方へ誘う。
 配置の巧みとかについても、既知の範囲で、相当な工夫が発明、発見、検証されてきているような話を警備の実務系はなんどか話していた。
 実際の場にそれがいかされない、という話を話すことばを使うことは先のようにいくつかの方向性を持って危険を含ませてしまう。事態認識が深まるにつれて、ことば使いを慎重にさせていく。
 それよりもなによりも、事件を起こす不良も繊細なセンサーを働かせることなく大雑把だし、それを取り巻く警備部門も繊細なセンサーをまったく働かせようとしていない現状というのは一体どういうことなのか。せめて巷の不良たちが、超危ないやつの一人や二人程度は察知してしまうはずなのが、それすらできていない今時ということを、繊細に他人を思えるセンサーが機能しにくくなっている現状を老人的には隔世の方で受け止めたくさせる。
 US映画でクリント・イーストウッド氏演じる公務系が『シェルタリング・スカイ(The Sheltering Sky)』('90)に出ていたジョン・マルコヴィッチ氏演じる暗殺プロを追う『ザ・シークレット・サービス(In the Line of Fire)』('93)では、怪しいそいつが変幻自在にプロ技を発揮して攪乱してくるのに応(こた)えて、プロ級の嗅覚でもって怪しさを追求しまくって最後の瞬間まであきらめずに追い詰める。US映画っぽく、大統領警備には体を張ってそのままの話になっているけれど、わかりにくい中でその怪しさを繊細にキャッチできる働きを保たせるなんらかをUS映画でさえ使いこなしているあたりは、今時のUS映画でも失われるようになっているのだろうか?
 ワルのこんこんちきを演じまくるマルコヴィッチ氏だが、雑を地(ぢ)でいくようなやつではなく、細やかに相手を欺き目標に到達することを目指すようなやつを演じまくっている。不良たちはそういうことができるから反面として、当然、相手の所作を瞬時に読み取れる。そういうことなのだから、今時はどういうことになっているのか、と素人老人は妄想しているところだ。

 

  川柳もどき

   気温変化ということでは
   途中経過の期間が
   あるのかないのか
   雨天、晴天の変化は相変わらずのようだけど
   気温は低い方から、一気に高い方へ
   で移りがち、かも
   それだからか、去年咲いてるのを買ってきた
   黄色柄で小さくラッバ様に咲く植物は
   いまや満開の状態だ