連載は続く~ SF 掌編『数十億年をかけて・・・(も)』編


 "働き"が含ませる志向性ニュアンスとともにの機能性をつい含ませてしまうことば使用に慣れていないだろうか?
 生命、地球上生命が繰り広げてきた不思議を最終的に解消させるのに、そこらが邪魔してそうだ、というのが今回の素人老人ゆえの仮説提案だ。
 とりあえず生命の現象ともう一つ生きているなにがしが活動しているという現象の二つは同一のようには見なさない押さえ方も添えたい。
 後者は、なにがしか試みる。生きて活動中はそういう能動性、志向性ニュアンスから探りを入れられる余地を発揮している、と見なす。
 一方、生命現象の方は、とにかく身勝手に、環境がどうだろうが、とにかく生命の都合から変化、増殖を繰り返す。こちらは決定的に結果、そうなって生命活動の余地を得てそうだけど、間違っても生きながらえるように機能を働かせるなどとは見なす「べき」ではない。
 長年月のフィルターを潜(くぐ)り抜(ぬ)けてきた結果として、変化しやすい方向性とか、増え方とかに潜(くぐ)ってきた経路が関わって、結果或る絞込みが、時間軸に沿った現象ゆえ"身についている"だけの話、と見なせそうだ。
 たとえば、なぜ『ガン』なのか。安保徹氏は特別扱いしない思考の為の脈絡について、欧米系知見(ワールブルク氏の知見)を頼りに一般にも通じ易くヒント提供してくれていた。
 でも中々、その知見ですら、一気に解明へという動きにはなっていないように伺える不思議の辺りを、素人老人は疑問にしてきた。
 また『恐竜系の大方が』今時だと鳥系と見なしているのを残して『絶えてしまう』ようなことが起こりえたのかの不思議。
 安保氏はストレスの作用の一方として、細胞が対処としての先祖返り(元々生命現象の中で活動中の細胞とかが持っている機能要素としての働きが活動状態の方へと目覚まされて、そのありさまがガン現象の振る舞いというわけだ)を経て、通常ならホメオスタシスの制御範囲のこととしてアポトーシスとかへと誘うだけで、その過程にストレス発の体内での支障を生じさせようとも、なんろかクリアできて、落ち着きを取り戻すだろうに、そうはならなくなって、手に負えなくなってしまう。
 本格的なその現象とは違って、制御できてしまう方向性を含ませて擬似先祖返りするような対処の場合、活動中のヒトの手技や知的活動がそれらを治したように振舞える。
 つまりガン細胞といっても、長年月のフィルターを潜ってきているため、変化して、増殖して、結果を待つという激しさは相当失せさせている。そういう現象として発現(はつげん)し易い。
 そこらを踏まえて、先祖返りという貴重なヒントを踏まえた研究者質からの実験なり観察なり考察なりが時間を得られるなら、それなりの時間を要することである程度の知見を得られるのでは、というのも素人老人のお気楽かもしれないが仮説にしたくさせる。
 恐竜の方はこの程度の話の筋ではわかりにくいままと察する。
 身勝手に、膨大に変化と増殖を繰り返す生命たちは、結果、とにかく膨大な死に絶えを並行させつつ、膨大過ぎるその現象の一部は結果的に膨大な生命の現象として残らせてきている。
 そこにはヒトが観察してしまえば、環境との対話のような作用系が働いて、機能的に残って、はびこって・・・のような現象を垣間(かいま)見させる。
 でも、そこにはなんら志向性とか機能性のニュアンスは見ないほうが事態を掴み易くさせる、というのが素人老人の提案だ。
 どの地球型というよりも生命現象としての発現が生じるような"場合"、そこでは変化し、増殖し・・で、結果的に、そこで結果的に残る変化と増殖の方向性なりが結果的にもたらされている。時間的経過が必須の現象ゆえ、すべてを含みつつ発現順をそれぞれとして持ってしまうわけだ。だからそういう記憶を担うようような順を伴わせるようななんらかはもともと生命現象の一要素と見なせる。そこにも、機能的とか環境をめぐっての志向のようなのを感じ取ったり、皆したくなったりしない方が無難だ、と素人は考えたい。
 多分、どこでもどういう状態だろうと生命現象の起点以後は、結果的ななにかが生じている限り、結果オーライということではびこるし、地球生命からは想像もつかないようなあり方のべらぼうな生成を経ているし、起点を持てるかどうかの辺りは、素人考えからすると、そう簡単なことにはならない(見つけにくいかも・・ハビタブル概念というヒントも既知にできているけれど、ここでは生命現象はもっとタフな方で素人は見なしている割りに、長年月現象としてはいつでも極端微細に要素分解に向かわせる環境の方が圧倒的そう。たとえば太陽系の行く末とか)
 そういう時間軸要素(生成順と繰り返し)が、ホメオスタシスと観察されるような結果的残りやすさ(順を経させる時間的余裕を生じさせている状態)はとにかく生命現象の機能性のようにも見させやすいけれど、順を経るのに都合良いだけで、結果そうなりやすかっただけのことだ。
 だからあくまでもそこでの変化、増殖は身勝手な生命系の都合でしかない。
 そして発生する順ととともに多様性を帯(お)びて(もっと膨大な多様性を死に絶えさせて)、けれども、順と繰り返し要素が、或る環境下では、多少の変異ならやり過ごせ、とにかく長が~い年月を活動中にしていた恐竜が、とうとうある時期を持って、死に絶えてしまう。活動中の個体たちは、なんらか、今時のヒトと似て、色々と危険回避のための行動を採用したはずだけど、ヒトほどデータベース作りは上手ではなかったため、迫られる起源がより短縮してしまった可能性という見なしも素人的には可能と見る。
 ヒトだって、生命現象の結果的今のあり方だから、期待しすぎない方がいい。
 ただもう一方の活動中の生き物として、関与の機会は得ている。
 そしてヒトの振る舞いの実相すら未だ研究分析中のようなありさまだ。
 けれども、ヒト生命がお得意とする知的活動の中途半端さゆえ諦(あきら)める、ということにならない考え方の提案くらいは、素人でも時々はできるかも、ということで、押さえ方の工夫の一つとして、生命現象は身勝手に、変化し増殖しを順を組み込んだ形で繰り返しているだけだ知見に集約してみることを提案するくらいは、できそうに思えた次第。
 ちょっとした生命現象をいじくりまわす実験の際でも、機能性、志向性の頼りになるあたりを、ホメオスタシスは大雑把だから、とかで回避しているつもりの諸氏においても、きっと働きの関数とか規則性の方でちゃっかり応用してたりしてそうだとか素人想像もついしたくさせるので、そこらに、ぐっと冷静になってもらって、(ヒトである個々のことにはなるだけど)やつらは決して細胞とか意識的活動中以外での生命現象として扱うべき事象においては、志向性や機能性とかの方向付けはとりあえず外して、身勝手にやつらの都合で変化しているだけだとかの方で接近できることで、見え方自体がそれなりに変化を呼び込めそうに思える。
 とはいえ、これまでの知見を手繰り寄せそれらを踏まえて、という話ではないので、こういった考え方くらいは関心のある諸氏においては既知のことかもしれないが、今時、ちょっと振り返って、少しでも軌道修正してみることは、それなりの、お役立ちを誘えるのでは、くらいなら、素人老人としてもいつもの余計なお世話の一つとして、受け止めてもらえるかも、文字にしてみた。

 全体を支えている様々を熟知できて、そこに関われるなら、それなりの関与も可能、という見方が可能ならば、全体の様々を知ろうとして模索している時期の考えたがるだれかたちにとっては、(規模の大小ということではなく)細部微調整の困難を引き受けた格好に近そうだ。
 動物達がヒトほど考えないことにしているゆえの上手な生き方を可能にする一方で、食物連鎖の落とし穴にはまって、激増・激減現象にも誘われ易かったりとか細部微調整の激変効果を招き易くしていそうだし、考える要素すら探し出して研究して効果を試してを繰り返せるヒトの場合、或る期間、細部微調整の巧みゆえに、持たせることを可能にするけれど、そのうちボロが災いするようになって、更なる微調整が必要になって、だけどたまたま微調整に入った箇所のいじくりが他への意外な作用を伴わせて、じゃあ、とそちらもいじって、事態を更に複雑にしてしまう、ということは漠然と持ち出していることばだとしても、意外と諸氏においては、経験されてきたことを思い出させるのではないか、と素人老人としては想像したくさせる。
 そして生命現象の方は、そういった活動中の思惑のさまざまなどお構(かま)いなくだし、順とくりかえしのくせゆえ、そうたまげるほどの極端は生じさせにくいから、ヒトとしては、なんとか細部微調整でごまかすくらいは成してきている。

 

  川柳もどき

   生命現象のわがままを相手にするなら、活動中のやつらはがっかり気分で
   つい市場任せと、手抜きの方でストレスを逃れたくなりそうだ
   わかっちゃいないけれど、考えることを苦痛の方で受け止めないで済むヒト生命の場合
   微調整を失敗したからって、不可能に挑んでるんだ、いいストレスも呼び込んで、楽しくいこうじゃないか
   植物や巷の小動物たちからすれば、いい気なもんだ、ぜぇ!とメス・オス・今年生まれたばかりのや、それなりに経験を積んだのやが、おっと危ない、ヒトはなにするかわかったもんじゃない、と茂みに隠れたり、陽に葉を向けたり