連載は続く~SF掌編『「素」のべらぼうな元気さに関わる話』編


 生命が最終型であるかのようについ勘違いする先入観に埋(う)もれているならば、多分、よりわかりづらくする。
 生命とかをニュアンスすることばを各土地柄が育ててしまっている。
 それも勘違いの素になりそうだ。
 仮りに超々高密度な点っぽいのがありえて、ということはその他のところを想定させるわけだけど、そこで信じられない勢いでの爆発が生じて拡張のとてつもないのが起こっていても、そのほかのところとの関係性は継続可能だ。
 たまたま方向性をもつ圧を得て、そのほかのところがわかりにくくなっているだけ、ということに近そうだ。
 そういうそのほかのところを想起する以前に、この宇宙を扱う際に、放送大学がテレビで紹介していたような、既知の宇宙の物質のまとまり以外に、既知になっていないそのほかが厖大に隠れている。その多くがエネルギーということばで指摘されている。
 そして"この宇宙"も物質に満ちている。星々で溢れてそうでスカスカもしている。
 そのスカスカが実はその他で満ちている。
 この宇宙が出発した138億年前以来、水素がずっと住み続けている。
 それ以後に新たに水素は生じていない。
 ヒトの好奇心は水素よりも更に細かい構成要素を探求し続けて、"動いている要素"観を示した。
 その動きこそが素の素みたいで、地球生命に結びつけるならば、とにかくべらぼうに活発だ。
 元々が活発に絶え間なく動き回る。
 そこにあるくせが伴っていて、それにも散らばりがあるのかないのか、そこらは素人は確かめていない、諸説に当たっていない。
 くせはべらぼうな活発な動きの中でべらぼうに出会い、その中で、エネルギー状態に応じて、構成する。
 だからくせの単方向性に散らばりが伴うようなら、その時々の偶然の出会いがその後のたとえば地球生命的組織化に向けてその他の経路を簡単に端緒として作りうる。
 生命的な振舞いの組織化以前に、"物質"的な様々を生成/崩壊させ、べらぼうな頻度で繰り返す。
 状況とのたまたまの遭遇により再現し繰り返し続ける時間的な偶然がもたらされることも起こる。
 そこではその先の展開、その先の展開ということが可能になっている。
 といっても初期の条件が続いてということもあるかもしれないけれど、変化して更に変化してのべらぼうな展開がありがちとみなせそうで、その中で、持続的な変化とみなせそうなある区画でのできごととして地球生命なり、各銀河の展開なりが想起されそうだ。
 だから地球生命の群れも相当にというかべらぼうに活発なはずだ。
 絶えず変化も含ませながら生命っぽく増やし続ける。
 安保氏のヒント発信は、そこらを押さえている。
 未だ知見不足からその細胞スケールにおける回帰現象の制御を構想するところまでいっていなくて、あたかも空論であるかのように見做してしまうかもしれない現状なのか、対症療法でなんとかして時間かせぎしながら、そちらのオルタナティヴに既に取り掛かり始めているところなのか。
 だから生命の基本には狭苦しさを嫌うところに気づけそうだ。
 閉じ込める技は、中長期にはまったく効果しない。むしろ生命現象には困ったことをもたらす。
 またもやバタイユ氏のヒント発信引用、ということになるけれど、ヒトはべらぼうに作り過ぎてきたし、これからもそうしてしまうだろう、という貴重なヒントだ。
 なんらか今の事態を問題視して制御しようとしたとして、その制御を支える活発さは、ヒトの性能からして、過剰に生産されがち、との予測が成り立つ。
 じゃ、それに制御を加えれば、となる。"加え"れば・・・。
 ヒトの性質・性能に反して、ほそりにほそらせる手法を無理やり採用した場合、多分、目も当てられない、局所を経験するだろうし、長続きしないから、過剰な心配を持ち出すこともなさそうだ。
 と同時に、過剰続きは続きに続きやすい。
 動物たちのように謙虚に天然・自然の圧に翻弄されやすい本能の縛りに囲われた生き方を選ばずに考えることに飛び出してしまったヒトは、ずっと過剰をかこちやすい。
 生命のほとばしりのある面での正直な表現型とも言えそうだ。
 そういう元気爆発寸前の現生人類だとしても、氷河期の荒波には勝てそうにない。
 氷河期よりも心配なのが、氷河期の終わりだ。
 氷河期の氷期の長年月(間氷期より断然長い)、いかに共存を試行錯誤する余裕を持てる環境作りに成功しているかどうか。
 そういう入り口が顕著になってからでは多分遅いんじゃないの?と年寄りゆえ想像する。
 だから他のことで騒ぎをつい起こしたくなる今時であっても、気象事象や経済の営みの不具合由来の人々の生活困難などに、自発性の呼び覚ましや個々性の身体特徴の限りなく様々性、制約性を取り込めた、共存可能性の考え方模索は、これからの世代諸氏にとっては基本を支える試行錯誤分野となるのでは・・など老人の余計なお世話っぽい話になる。
 全体で事に当たるとしても特定勢力の専制はたとえ段階として今はそれが要るとか、長い目で見ているかのようなレトリックを用いようが専制ではなく、衆議をもって、いつでもどの段階の場でも衆議と必要に応じたショート作戦が効果するような柔軟なヒトの群れ構成が大切になりそうだ。
 ヒトの組織化に関わる層のところでは一応フィルターを機能させやすい。一方で巷はそれを持ち込むことはかえって不都合だからそうしない。それでいいけれど、乱暴者が力で乗すとか、あくどい集合力を発揮して専制的に振舞ってしまえたりが起こりかねない。そこらをセクハラ、パワハラのたぐいの用語で列島ではそれなりの制御を試行錯誤している最中だ。世界ではどうだろうか。