連載は続く~SF掌編『やっとなんとか「ニノチカ」』編


ヒトが成す集団的営みは、とりわけ近代化のその先のような土地柄では大変に一人一人を忙しくさせる。
その為、近代化とともに起こりうる統制性由来の情報扱い上の質的格差ゆえ、公的立場への使命感ということもより濃く意識できる属性のところについ引かれる形になり易いし、客観的には非常に、非情にも、心細いと素人であっても推測可能だったりする。
逆に言うと、公的部門の各地が、USのような土地柄であれば独特の"私的"権力による指揮命令系の操作対象になりやすくなる。
弁証法役割分担よりもより個別性を帯びて、役割をこなすための使命感のようなことにしがちにする。
だから・・、と言っておきたいのだけど、時々の組み合わせ次第では、素人にとっては、US由来の映画群が非情に見通しのための参考資料となってくれた、と指摘してみたい。
今でも、観点の持ち方によっては、相当に参考になる内容を発信してくれているのかもしれないけれど、コロナ騒動での映画上映制限などが重なっていて、列島在住の老人にとっては近づきにくい場になっていて、折角の情報源と距離を置いた格好が継続中。
21世紀に近づいた20世紀末の頃から21世紀のごく初期にかけて、ほとんど映画、テレビドラマを見なくなっていた時期を持つ当時も老人であった素人にとって、今再放送されているテレビ放送での映画、ドラマが一種、情報源になってくれているので、相当に時代を遡った内面世界を、この忙しない世の中、遅れに遅れた位置に観念世界を育みつつ生きている格好だったりもしてそうだ。
とはいえ、不易流行という一面からして、古いのからもこの先へと応用可能な観念世界のなんらかを引っ張り出すことも可能と素人は見ている。

そこで、やっと『ニノチカ』を持ち出す機会を得たかな。

欧米発想系の医薬業界は、免疫系の要請なんてことを多少軽く見て、発熱!じゃ、解熱剤それも相当に効能のいいのをね、とやってきているように伺える。
節々が痛む、それでは、免疫系が働いているからこその機能の脈絡のことは関心外に近いところで、その作用機序を断つ感じで、薬を開発・処方しかねなかったりする。
大抵の諸氏にとって、平熱まで解熱して、仕事しやすくすることをつい望みがちにするような世の中の営みの状態かもしれないけれど、免疫系の都合にとっては喜ばしいことではない。
弱体な老人身体にとって、か弱い幼年期のヒト身体にとって、発熱負荷を軽減できることはきっと体調の持続性に相応しい。でもそういう限定条件付きでそう言える。
折角免疫系が活発になって、その後の100年間以上かもしれない長い人生を病気知らずくらいにやっていける可能性を蓄える過程の一つを台無しにしかねない機会ともしうるわけだ。
素人ことばで何度か指摘しているだけだけど、列島版である漢方は薬処方と一体のところがありそうなんだが、その薬処方以前に診断とかでの心身への接近法、診断法により内実を見るようにすると、解明未だしのホメオスタシスの抽象論・具体性へのオルタナティヴ発信にもなりうる。
発想についてついケチをつけるような欧米観ばかり持ち出しても話としてはつまらない。それにそんなことばかり素人ゆえ考えているわけではないといった辺りのプチ開陳になりそう。
人為という営みに関係する。
政治の郁美とか、ヒトの営みは工夫を重ねてきていて、分権の含みを忘れないようにしながら一方で制御を効かせて、個々の自由度をなんとか保とうとするために、ある規模のまとまりを得て、その仕組みとして営む方法を試行錯誤している。
一種"自然"任(まか)せ、とかのイメージを撒いているようにして、実は、制御を円満に効かせられるように工夫を重ねてきている。
だから人為と関わる、ということになる。
どちらかというと放(ほお)っておけばヒトゆえ、生き物性ゆえ、生殖して代を継続していけるように為にする衣食住をつくろい続けることで人生をまっとうさせやすくする。
観念系を遊ばせて時代を彩る方向性を相対的に薄くさせがちにする。
これもまた味の一つと見なせそうだけど、人口が濃密になってくると、共同性に即問題を生じさせがちにすることは経験的に熟知されてきたから、特に代替(だいか)わりしつつ指導層は、人々が飽きて、神経をピリピリさせるようにならないように、色々集団の営み上の工夫を挟み込もうとしてきた。
で、物知り諸氏には是非、歴史的な脈絡知見など発信していただきたいのですが、『ニノチカ』で男性の方の独身"貴族"氏は、同じように生きている女性の独身"貴族(実際にも旧ロシア圏の貴族の設定)"氏との会話の中で、最近、ボク、一人の女性を巷の人々と同じように、愛することをし始めたんだ。とか語る。女性の方は、しょーもないやつ的に反応している。
ここらは若者風俗での、軽い奴ら、ナンパ系がなんやかやしているノリとは違う、ということをまず指摘しておきたい。
将来にわたって自らの人生の様を独身的な位置を保ちつつ、相当な世の中の基底部分への関与を心得られる立場の人々間の会話のように『ニノチカ』では設定されている。
一般がそれこそそうありたい幸せと思えてしかもそう簡単には実現しない夫婦の幸せ観を共有しない人為に関する観念を継承している人々を欧米に見ることができると、素人は勝手に決めつけていた。(ということで物知り諸氏の助力こそありがたいわけだ)
一人を愛すると明確にことばにしていることがヒントとも受け止めた。
公的立場が今ほど統御されていない時期を想定できていた、からかもしれないけれど、一人に執着しないことがもたらすヒト観念系への作用を経験的にしっかり整理されてもいたと素人には推し量りたくさせた。
なんらか争点を生じた際、えこ贔屓(ひいき)とことばにしてしまうと単調な、片方からする我儘のような印象にさせかねないので、言葉としてはもう少し相応しいのを選びたくなるが、イメージとしての大岡裁きのように、平等な扱いをベースにしながらも、実情に精通して、利害関係者の腹にすとんと落ちるような解決を目論める試行錯誤にとっての基礎的観念系を日夜育んでいる奴(やつ)ら、としてみたくなる。
家族を持てば、そうはいかない。当たり前のことだ。それはそれで、そういうことが日常だ。
でも、捌くとか、公的な立場で、わたくし関係に介入する場合には、だれかを忖度してそうだとか感づかれただけでもう公的立場は粉々だ、その建前を信じてもらえなくなってしまう。
そして欧米でも、そういう立場を継承する伝統があったのかな、とエルンスト・ルビッチ氏や脚本担当の超有名人物諸氏らの発信を受け止めていた。
ジェームス・ボンド氏になると、ちょっとはめを外すノリの介在もありで、そこは極端なストレスに晒されやすい職業柄ゆえと見なすこともできる。
でももう少し引いた立場ででも責任は同等かそれ以上というタイプ諸氏に継承され続けた生き方ということの欧米版を垣間見た思いを素人は経験したつもりになっている。
一方の性がそれを選ぶということでは成り立たず、両性がそういう生き方を選び継承され続けてきた、という辺りも興味を誘う。
とはいえ、成すことの内実に関わる観念はいつでも更新され続ける必要くらいは、素人でも気付ける。(いつでも新たなもめごと、技術、観念系が登場してくるのだから、それへ接近する公的立場を確保できたとして対応能力ということでは"書き換え"を欠かせないというわけだ)