連載は続く~SF掌編『過疎化と時系列把握』編


 過疎化という問題は継続中。
 たとえ一人前に育てて世の中へ投げるタイプの個々尊重が働いていてもその故郷なりでのなりわいを得て、土地柄での改良も含む関わり方を人生と出来てきた時期もたっぷりありながら、今は、そうはなっていない。
 経済の営みがそのくせを発揮して自ずからそうなってしまうのさ・・ということなのだろうか。
 列島独自の趨勢なのだろうか。
 相続ということの内実をとことん突き詰めて性質のリアルをあばくような研究・探求を欠いた時期的要因というのがあったのでは・・ここらが素人観測になる。
 観念としての含みが継承され続ける中で、形だけ、形骸化させてしまう。
 長男だから・・とかだけで、他は出ていくタイプ、だと、それなりに齟齬を生じさせやすそうだなとある程度簡単に想像できる。
 土地土地の人脈が好作用して就職の機会が人生の歩みとともにのような事態を誘いやすくすれば、ぐれたりする機会もいつの間にか過ぎ去った戸惑いの瞬時程度のことで流れ去る。
 ヒトの観念系が既存のしくみを規定の重さ度合として据え置くように仕向ける傾向を持つと想定できるなら、今見えていないけれど他では十分に可能性含みに機能していることはイレギュラーな事態だし、今見えてしまう可能性ということも既存でないということで、当人にとっては一歩踏み出すことすら自らの観念系とすら反発し合うような経験となるはずだ。
 社会改革の脈々はそこらのヒトのくせを汲み取って、ばらけさせて必要な集合へといざなうことを試みた一面を想定可能だ。
 ただ惰性ゆえにしぶとく世の中の営みの苦難にも打ち勝って持続的な努力の辺りも普通のことと意識できてしまうような"不思議"をとらえ損ねて、過疎化への趨勢に加担してしまった方の可能性を想定もしやすい。
 資産をいたずらに食いつぶすような試行錯誤タイプでは困る。といって試行錯誤はいつでも必要だ。
 そこらをめぐって伝統的な集団の営みの各地、各土地柄の諸条件に応じるタイプでの制約を形作ってきたと大雑把な言い方は可能と思える。
 それを足枷(かせ)・手枷と大げさに受け取るか否かはそれなりにその後の展開に響かせそうだ。
 江戸期における試行錯誤のその先については、わからない、としか言いようがないのだけど、英米流により寄り添った近現代化というグローバルに局地的に散らばって生じてきた趨勢のみでは、過疎化は加速してもそれの代替はなかなか生じさせられそうにない、と素人老人は見る。超大国イデアとかがあるとすれば、そこにはなんらか欠陥を含むことが今になっては明確になってそうだ。
 しかも情報授受の諜報ネットワークを高密度に機能させて各部門の中枢に近ければちかいほど各人において(人事や給料査定やと)疑心暗鬼を生じさせやすい事態を招きやすくしてしまうという決定的な欠点も多分相当に働かせてしまう。
 隠して統治とオープン基本もちろん隠し味込みで作戦では相当に世の中の出来方に違いを生じると、表現としては大雑把すぎて、諸氏においては一体どういう営みになっている事態を指しているのか?と疑問を持たれるかもしれないがここは不親切を通して、このまま流す。

 ニュアンスを伝えやすい時系列で見ると実に参考になる事例を今日のニュースと昨夜かおとといのニュースかで知った。
 集約的に表現すれば、見誤った、という事態。
 ウクライナでの現出来事については経過順のいくつかの要素を引用的に指摘させてもらっている。
 超大国 US がなんとネオナチを国際的諜報工作利害の都合からウクライにて使ってしまった。そのネオナチ人脈はウクライナでは中枢人脈にまで育っていた。
 ロシア系のウクライナ国民には辛くあたる勢力と化していた。
 で素人老人にはわかりにくいUSとロシアとの駆け引きが戦争へと誘う駆け引きを濃くして、戦争は始まった。
 精度も破壊力も桁違いのロシア製の兵器をもってすれば、ひょっとして短期間で戦争状態は解消してしまう、とUSもロシアも考えた可能性が大、と素人はニュース情報から想像できた。
 ところが、ウクライナの大統領は政治に関してど素人もいいところだった。戦争ということのリアル感を欠いていた。言い換えれば酷く野蛮だった。
 で精度の落ちる兵器を猛烈に使って対抗に出た。
 だから欧米から高性能なつまり狙ったところを外さないタイプの兵器をもらってからのウクライナ軍とはまったくことなる野蛮な戦争で応じる事態が生じてしまった。
 ウクライナ軍が大綱の措置という大儀の下、ウクライナ人の犠牲はしかたないというしてロシア軍へ向けて攻撃し続けた。
 そのころのロシア軍の攻撃の結果はニュースからもわかる程度の精度を多くの現場で発揮していたと想像できる。
 が、USが制裁の具体的な手法に含めた精度と関わる部品の調達を困難にする制約が、戦争をはじめて双方が引くに引きずらい時期になって効果を表しだす。
 お互いが攻撃してその際、ウクライナ国民一般の犠牲を伴うようにした。
 そしてウクライナ軍に精度のよい兵器が提供され始めると、ニュースの通り、ウクライナ軍がウクライナ国民一般を犠牲にするタイプの攻撃は激減する。
 時系列的に少し戻って、ウクライナ軍が精度の落ちる兵器でウクライナ国民一般を犠牲にしているというニュース報道が機能すれば、戦争が想起に終結した可能性も指摘可能だ。
 戦争に情報統制が組み込まれて、欧米発想でのどちらかについて応援しなさい圧が機能しやすい世の中だと、こういった事態の収束へ向かわせる応用力の一端を減じさせる。
 未だに近過去の超野蛮な攻撃に出てずっとそうしていた現ウクライナ大統領のままだ。
 どちらかにつけ圧作戦が機能している間は、頑張っている(ウクライナ)大統領像で通せるけれど、戦争自体の趨勢ということでは、込み入ってしまった現状のはるか以前の頃での、判断として、リアルに検証されることになる。
 そして現状ということでは、精度のよい兵器で攻撃を続けられるウクライナ軍と欧米メディアが当時の野蛮な兵器による犠牲のリアルを伝えなかったことに腹を立てたかどうか、精度がいまいちのも混じるロシア軍との込みいった戦争状態となっているようだ。
 時系列から察するに、ネオナチ勢力退治に欧米は、ゼレンスキー氏の政治的無知とか野蛮さというリアルを見誤って、ウクライナ一般国民の犠牲をほとんど生じさせない短期解決という過程を実現しそこねた。と広瀬本読者発想からは憶測する。
 ここにはマスメディア機能の使い勝手の問題を控えさせている。
 国際的紛争を避けられないとして、犠牲を生じさせないやり方が可能になっている時代であっても、事態を構成する主要な人員のキャラの把握を怠ると、犠牲をともなう迂回路を生じさせてしまう。
 表向きのストーリーと裏のストーリーを使い分ける旧態の手法は現ネット社会でのリアル把握力との間に齟齬を生じさせやすい。だからオープンに適格に情報を整理して混乱に誘うことも抑制できるタイプの手法への移行は大切な要素だ。

 列島での必須の要素とも関わるのだけど、底上げが要る。
 ニュース報道では、再就職支援を応援できる具体的政策が提案されていた。
 ここらは、有効需要にも直結してくれる安定的に稼げる人々の層的な裏付けとしうる。
 再就職しようにも手に技能がないし・・何についたものかなどなど不安を抱えている諸氏がきっと大勢いらっしゃる。そこへまず技能を身に着けることでの挑戦の機会が経済的苦境を邪魔としない条件で可能になる。数えられる程度の数試す。自分にはどうやれこれが向いているかもというケースがありうる。ないし、技能を身に着けては再就職を試し、現場感覚から、自分の適正を補正しつつ、いくどめかの挑戦で、ここに落ち着こうとなるかもしれない。
 就職できた現場の多くは、今でも、現場に年月をかけてなじんでいくことで事情通にもなり自らが関わってそこが成り立つ実感を得やすくするし余力があれば改良へと打って出られるような立場も不可能ではない。
 介護現場の問題は、機会を見てふれるつもりだけど、そういった新人諸氏が試行錯誤できやすい先達が育っている現状と多くのところがいいずらいのが多分リアルだと察する。
 知ったか系が煩くしてヒトの育つ過程の芽のところを摘んでしまいがちにするわけだ。
 そこらを含めて機会を見て。
 で、通常の安定的収入構造の中にいる諸氏ならば、景気・馬鹿げあ物価上昇と同調させた一時金(退職金計算にどう組み込むかの応用話も必要)払いでなんとか生活水準は保てそうだけど、そうはいかない人々を意図していない層にまで広めてしまった経緯を列島は持つ。
 或る種の自由を欲して、終身雇用の形態に組み込まれることを意図して拒否した層も実際にいたはずだ。けれども、そうではなく、そういった移ろって就職機会を得るタイプの人生を想像すらしていなかった人々までが就職機会の得にくさから、その志向性からして不安定性と受け止めざるを得ない就職のあり方を受け入れるようなことになって、生活のリアルとして貧困の状態をかかえてしまう、そういう、列島の特殊な事はできるだけ早めに解消して上記と同様に経済的にはしっかり有効需要を発揮してもらって、しかも納税者として活発に人生を謳歌(おうか)してもらうことで、元気な老人たちが満ち溢れている列島のある時期が可能になる。
 そうなればそこらのおじさんおばさんのりで介護仕事について、ストレスに耐えきれずにトンでも介護に走って、お互いがばれないように隠しあうタイプのやばい介護施設化も元気な年寄りたちがいざというときには団結して外部の知人友人親類縁者の加勢も得ながら(死人が出る頻度とか(知りたい側がとことん疑問解消になる詳細)死亡原因とかからある程度の質を測れる)暴虐介護現場担当諸氏へ筋を通させて、危ない度合いをかなりの程度抑えておけるはずだ(これも機会を見ての話だけど、家族とか関係者が警察とか消防とか倫理の厳しい公務系として、或いは熱心に新人深く宗教布教活動をご一緒した関係者の家族だったり親類縁者だったり知人友人だったりの同じ人脈だったりが介護担当の現場にいたところでそれらはなんの役にも立たない(元気なころには気付きずらいし)し、かえって言いそびれたりでストレス源ともなりかねないし、うんざりさせられてか逃げの投薬に誘導されたことによる死期を早めることも珍しいことではない)。
 しかも多分、グローバルに介護の達人技が達人にしかできないことだと勘違いしたままで(NHKの放送からもおおまかには気付けるように伝授は十分に可能、教えじょずを沢山育てて各地でいつでも習得できるようにしておけば、いつか実(みの)る)、ひどい介護現場が成り立ちやすい状態ではないか、と時々報道されるより工夫した介護施設のケース紹介から素人推測している。多くはそうなのだから老人諸氏よあきらめなさい、だとこれから年を取って老いていく、頼りにしたい現役世代への示しがつきそうにないと思える。