連載は続く~SF掌編『魚たちの関係性感受としての距離感把握は相当なものだ』編


 つい先日も、『イージーライダー』を放送していたから、見る奴はきっと見ていたに違いないと素人老人は言い放ちたい。
 当方はというと、録画はしたものの、出だしの少々を見て中断している状態。
 USはもう既にたとえの意味で瀕死の"病気"だった。
 ヒッピー系の緩さの一方でCIAとか諜報脈の貴重な資金源となる麻薬売買としっかりご一緒している。
 いい意味で長距離のオートバイツーリングを楽しむ(政治思想的には左中右がごっちゃに入り混じっての)保守のあり方を表現できるところを、当時で既にの辺りを、表現してしまう連中はそれなりに正直にエピソードにしてしまった感じだ。
 適度に働けばそれなりに稼げて、週末か、列島流にはゴールデンウイークのような多少の連休を使って長距離のツーリングを超大型オートバイに乗って(息の合った連中とともに)楽しむ。これぞ一種のいい意味で保守的あり方だととうしろう老人は想起してしまう。
 体に合わない!?と思えるなら、ホンダのかつてのjazzを中古で探すといい。
 20万から30万くらいの値が、ネットでは漂っている。
 もうとっくに終わっている、と辛口系なら鋭くしつこく指摘し続けるようなことに、'70s にはなっていた US 。ヴェトナム事態や各地の代理的諜報工作事変が猛烈に関わって、それ以前の列島で見ることのできたテレビドラマのニュアンスとの隔絶からも察することができる、と老人年齢諸氏なら思い起こせるのではなかろうか。
 そんなひどさを発揮しだしてもいた US に住んでいる諸氏が愛想をつかさないのはなぜか。それこそ批判的である諸氏においては猶更、説得力を削ぐ事態と素人的には思える。
 (半端な)裕福系は持て余した時間とお金を民間の福祉事業に(たとえば食料・食事支援などに)加担することで満足感を得られやすかった
 当事者諸氏は、太ることで、ストレス源をそれとして意識する強度を太ることの内実が起因となる耐性によって緩和し続けてしまった。だからそれほど深刻にならずに済む。そうでないタイプの中には、なんらか政治的意図から先導されやすい尖ったごくごく少数も生じさせる(現象的には不平分子の問題行動のようなニュースで終わる)。
 超極端の数%を除いて、極端に金まわりのいい層が、表役をこなしていろいろな娯楽を提供する。そういう社会になってしまっている。
 列島ではIT系のバブル万歳脈を除いて、大勢は、極端なリッチにならない給料の分け方に順応してくれているようだ(本当のところは、経済事情通諸氏の率直な発信の数々が必要だ。)。
 介護職の諸氏なら簡単に気付けるように、太り方の異様は、即介護技術の適用困難に結びつきやすい。よほどの工夫系ならいざ知らず、標準的に熟練してきたまじめな諸氏にとっては、口に出しにくい困難と直面することになる。
 それをUSだから巨人・巨体諸氏が介護担当におおぜいいてなんとかするのさ、と見做したくさせるけれど、おそらく、素人老人の想像に過ぎないけれど、列島の劣悪な施設とどっこいか、それ以上のひどい扱いになってそうに勝手で失礼とは思うが、だろうな、と思う。介護世界はどこでも、やり方次第では、ストレスの悪循環として受け止める方に陥(おちい)りやすい。するとその先は目に見えてくるわけだ 。
 というように、US が或る種の実験を勝手でて、英帝国から、を引き継いだのだけど、個々性を面倒見るしくみの模索は放置された、と素人は見做している。
 出会いに任せた格好だ。たまたまいいめぐり逢いの諸氏においては、適材適所の配置を得て、さらにそのノウハウを引き継いで、後の世代に応用されていると予想できる。
 でも、それらはたまたまの出来事だ。
 近代市民社会の試行錯誤は、伝統的、小規模社会が営々としてきた、個々への目配り役の密かな育成と伝承と、その結果の重層を、ばらけることの方で励んで、会社にして試行錯誤の一面を活かそうとはしてきたのだけど、その質のところを押さえ損ねている、と素人で年寄りの当方は、押さえたくしている。
 会社は既になんらかの専業部門であることが多い。
 列島には商社のような会社を育てていて、或る意味、"空地”に役柄・役割を見出した奴がそれめがけて稼ぐ算段を熟練させるようなルートもありそうだけど(医療部門のなんらかに興味を持って、事業化して一部門にしてしまうということだって、多分、商社の事情次第では可能なのではなかろうか。素人想像)、大抵は、或る特定の技量のいくつかを組織化して、その必要数の中でのやりくりが実質と察する。
 だから一般論として、就職して、能力を伸ばせる、ということの実際の内実となると、その会社の射程の中において、という極端な制約を指摘できることになる。
 けれども、今日もそうだけど、事業展開に変化が必須という場合、新事業の立ち上げに向くだれかたちを新規最小する必要が生じる。そして雇う。ところが、万が一の何事が起こって、その主な担い手の上層がその立場を引くことになった、という急展開が生じることだってありうる。そういう時に、その惰性の状態では不要な役割に向いた新規採用された若者たちはそのままでは途方にくれるだけだ。中には、自力で活路を見出すのもいるだろうが、多くは困惑して、一定期間くらいは、せっかくの人生に、要らない寄り道ともさせかない。そこを、だからそういう事態が生じたときに、それらの人々の個々性に応じたその先への転機くらいまでは提供できて、引き下がれるくらいのことまでできる、会社でないとまずいわけだ。
 そして一般論としては、だから会社に就職する時点で既に特定の役柄が期待されているし、よりその熟練度、精錬度をその先期待され続ける。
 ところがヒトは、そういう近代化以前の方での生活がずっと長かったから、一族の生活総体の中で、どんな役割的必要が生じているかを自ら探ると同時に、主だった大人たちから今ここに専門的な必要が生じているか請け負う意欲はあるか否かとか頼りにされたりするわけだ。そうやって人生の一時をやりがいとともに送ることができてきた。
大変な人生だったかもしれないけれど、そこにはなんらか選択の機会も介在していたし、自らが万能ではありえないけれど、必要は万能としてそこら中にあって、そのどこに今必要が息づいているかを探る楽しみも並行している。
 そういう生のあり方と、予め必要分けを成して、そこに振り分けるようにした、産業的あり方とご一緒の近代市民社会の一般的なあり方の質的な違いに十分に配慮できて、その先のオルタナティヴを構想できることは大事なことのように素人で老人の身としては、切実なことのようにも思える。
 以前、京都の元英国貴族系のご婦人が外国語講師をなさっていたし、テレビ映像では、生活全般をきりもりできる知恵を沢山持って、てきぱき実践できていることを紹介していた。
 たった一例で十分だ。世界各地の忙しさを言い訳にしないで人生を楽しんできた諸氏は、大抵、そういう万能タイプ諸氏なのだ。
 でも近代市民社会はそこを極点に独特に制約して人生に落とし込む仕組みにしている。
 すると無理が無理を生じて、、のようなことをだけど娯楽の数々が時間を費やさえて、気付きにくくしてきた。
 もちろん、代案があるならば、代わってもらいたいけれど、現状の推進役脈だって、それなりに苦心の末のアイデアと素人の追跡程度だけど、押さえていて、だから、軌道修正にもその過程での平穏は基本のように思える。
 激変で変わってみれば双六(すごろく)の振り出しに戻っただけ・・ではお話にならない。
 歴史の逆たどり知見の精度もだから重要だ。
 そして軌道修正の経路をなんとなく模索くらいはできる。
 今どきは基本としては他人をぞんざいに扱うタイプが躍り出てくるようなことがごく初期から抑制できるくらいの働きかけを可能にする人々が忙しく動き回っている時代だと、理想的に押さえすぎと思われようが、素人老人は踏んでいる。
 その先が、だけど要る。修正はいつでも必要だし、いきなりではその正しい方向は?という問いかけ方もどうかな、とは思う。

実に猛暑の気配、(暑気払い)多少ぞっとするジョーク調に。お笑い系の自由律ハイクっぽく

路上に亡くなったカエルくん、うまそうなスルメと化す