連載は続く~SF掌編『中央集権化を試みる際の留意点など』編


 純粋型の自由は・・、純粋型の民主制は・・、ととりあえずその目指される収束域を想定できる概念については、多くの場合、実際的ではない、暫定的に押さえておけそうだ。
 またある時点で構想しうる世の中のあり方、集団形成のあり方について、これぞ答えとたどりつけていると思い込めている集団の営みがありえたとしても、今の時点での考究の成果としては、軽重とか測れる尺度を持ち込めるか否かに関わらず、その尺度に乗せて判断して見せることが、そのうちのどれかを全体として選ぶということの指標にすることは不適切であるくらいが指摘できるようになっている。究極どう相対的に適切なのかの判断は、大抵の場合、実際的な時間内では解決しえない。ないし、ゆずれない頑固さが後々集団の営みにとってはより相応しく受け止められるようなことがしばしばヒトの営みにおいては生じがちだ。
 産業を育てて工業化の先には、だれもが適度に働いて、相当に暇を持て余すほどの生活が可能になりそうだ、との判断は、今どきの視点からして、無茶そうだ。ヒトを忙しくして、より忙しくすることで、多くを支えあえている。そしてわずかの余力を便利ななにかしらを使うのに費やすようにしている。
 ヒトが一生の間に様々を習得出来て、それを伝承させることで、世代越えでの余力を生んできた事象とは好対照な事態とも映る。この話はまた別の機会で。
 とりあえず純粋型の自由や民主制は、実際的ではないとハッキリ共有できると想定し合えるはずのことを押さえておき、更に、人々の成す集団の営みも、それぞれの家庭ごとの習慣をいかに尊重し合えているか、しかも集合性において、好循環を達成できているかどうかなど少々の検証をしてみるだけでも、それぞれの自発的エネルギーを基本において尊重し合えることがなによりもより大きな集団性を支え切る大本らしいことに気付けたりする。
 そこらから、いきなり中央集権化へ向けた試行錯誤ということばの群れを持ち出す前に、各人なり各集団の営みなりが思念する"こうあったらいいな"的営み上のビジョンなりを無理やり他の営みへ強いてどうなる?という疑問は恐らくかなりの頑固もの諸氏においても想像くらいはできると察する。ただ接しているだれかたちにとってはより切実な事態かもしれない。距離をおいて、そこらを懸案としてどうこうできる人々は、まさに距離感をもって問題を扱えるけれど、身近に軋轢を生じさせて、どうしましょう?!と戸惑っておられる諸氏においては、どちらか一方からするもう一方への順応なりを適用させたくなっているかもしれないが、この程度の想像事例からしても、棲み分けの巧みが必須な辺りには気付かされる。
 ヒトは多くを学んできて荒々しく民主制のなんらかを形にしてきたと自負する欧米系諸勢力においては殊更、その勝ち取ることこそが学びの機会となるとか思い込んでその思い込みの急所をつい啓蒙させがちだったかもしれないけれど、そこらも更に学んで、今どきは社会学者系が以前から発していた包摂概念へとたどりついているように素人の老人からは察せられている。
 18、19世紀の試行錯誤を経て、20世紀のある時点から超大国の位置をUSに継がせることにした諸勢力の企みのことは、そういうことだったはずだ、ということでここは受け流してもらいたいけれど、善悪あれど、USからはいつでもごく少数ながら20世紀の超大国が含ませる理念のいくつかを表向きの法治の網目に収まりきるか切らないかなどに躊躇させられることなく理念の試行錯誤としてオープンな発信に加担してきてくれたおかげで(ということは、これからの有力勢力は当然、ここらを生じさせうる理念も継承させ続ける必要があるということになる。表向きにしつらえた法治とその表現型のシステムがそれらを受け入れがたいと見做すような制約を露骨にしているとしてもそれら"勇気"とか"元気・活発さ・沈着さ、臆病・弱小でも通用する営みのエネルギー状態"が、オープンな受発信へと誘(いざな)う)、20世紀の超大国USの国家的利益に適うからということで、傍若無人なことをすることは、追々無理として忌避されるように誘いこまれる(何度目かの引用になるけれど映画の『イコライザー2』でのエピソードのようにヒトの営みに欠かせない測りがおぼろげにされて、他人を傷つけてこその商売人になるようなエリート層がそだってしまうかどうかギリギリの行為が人々の知らない諜報の世界で乱打されていることに気付かせてくれた)。実際に進行してる事態をめぐることばはこんがらかってしまってわけのわからないことになっているのだけど、今騒がれている局地の戦(いくさ)が招いた副産物の影響は地表面の経済の営みに限っても大変な付加的な迂回路を形成させてしまっていて、各地が費用負担に喘ぐようなことになっている。
 列島に限らないことだけど、同様のケースがUS国際諜報用宗教団体利用に乗る宗教団体問題だ。麻薬系が主に情報や人事上のフィルターに使われているとしたら、こちらは情報収集や人事上のフィルター役ということでは共通してそうだけど、宗教経営という特殊性を活用しての収益利用も可能にしている。そしてそれはあくまでもUSの公務系のネットワークでの営みだ。表向きはわからないけれど、既知の知見からして、us諜報利害に乗った公務系ネットワークの一端として扱える。
 だからUS諜報系の企みが相当な荒業を容認している時期ならばそれなりの悪業もこなしてしまう。けれども、USの公務系末端だから指令の内容次第では国際政治に貢献するようなことも為せるわかりにくい一面も有すると想像くらいはできそうだ。だから各地で各部門に食い込む努力を惜しまない、けれど、きっと各土地柄においては迷惑な諜報介入のはずだ、と老人的には推測させる。
 歴史の重みとして、現地表面を構成する主力も多くをかなり学んできている。
 だから一般が軽く想像できる共存発想に少しくらいは近いところでことばをかわせそうにも思える。
 コロナ風邪の熱とかインフルエンザの熱に似て、政治熱も多少は唸(うな)らせる。
 自分たちの考えに構成員全体を染ませたい!!!とうっかりすると自らが強いて思い込む。
 でも今どきは多くを学んだ諸氏であふれている。包摂概念だ。
 とりあえず、排他性一辺倒の指向の持ち主諸氏でない限り、ある程度の棲み分けの可能性を探り合えることに時間を費やすことには反対はないと想像しやすい。
 理念的にそう考えられる一方で、この瞬間にもヒトの持って生まれた活発さが、たとえば物やサービスについて地表面すら所狭しと網の目の動態を経巡(へめぐ)らせている。
 ズルすることを制御することも可能な限り法治の下に置こうと弱小国を含めて試行錯誤中だ。
 超大国の"知って何ぼ"の心配性(しんぱいしょう)が各地へ浸透させた諜報ネットワークゆえのわるさに悩まされてきたけれど、その情報のオープン化試行錯誤も可能なはずで、より抑制的な諜報網と各土地柄の自助努力の連係ネットワークでの代替ということだって十分に可能になると想像くらいはできる。
 そこらがクリアになってくると国際ニュースでの視聴者の受け止めも相当に変化する。
 口には出せない諜報をやる方とやられる方の困った状況をどちらの味方かで言葉の使い分けが為されがちだったニュース報道に、ちょっとだけわかりやすい状況説明のことばが適用されやすくなる。
 広く、こっそり、ファン心理を病的に醸成する手法が20世紀の特徴として後世においては説明的に為されそうだけど、芸能やスポーツについつい視聴者の立場だとだれかしらのファンとして近づいて、対象の勝ち負け的な位置関係に関心を集中させがちにして、心を揺さぶる練習を日々、時々刻々摘みかさねて何年めいた人生を送っている。
 関心事については、構成の要素に敵味方をうっかりあてはめて対してしまう。そして応援していたりする。勝ち負けにやきもきしてしまうわけだ。
 でもそれは20世紀の遺物だ。そうやって冷戦を支えさせた、エリート層の中の単調に信じ込みやすい連中の暴走をそれで吸い上げて制御させてきた。相当に酷い事態だった。
 包摂出来ることは良いとして、ヒトの日々は、つい、ぐちったりもしてないだろうか。
 するとやはり捌け口もそれなりに必要と集団の営みのテクノロジーは必ず考えてしまうはずだ。
 テクノロジーの技能がそれらを平穏へと誘えるなら、それはそれでたいしたものだ。
 だから包摂する力量をもった人材が沢山育成され、その中から政治的な力量で束ねる方で活躍するより多くの人々も育つ。
 けれども、ヒトの集団の営みの多様の観点から、とりあえず聞き役が必要になる懸案を嗅ぎ分けて、それら暗黙の政治の中で、ガス抜きしつつ、落としどころへと誘うタイプではなく、ある程度の知見との接合を試しながら暫定的多様の現時点のリアルくらいのところまで肉体的性も伴う議論の場とかが活性して、一応、各人において腑に落ちるかも程度の落ち着きが可能になるタイプが営みとして形成できていると、包摂的試行錯誤の常態が上げ底ではないタイプとして動きそうだ。
 グローバルに向けて、自由を目指そうは、成り立ちようがない。純粋型の自由はまったく実際的な使用には耐えそうにない。
 同じく民主制もだ。
 けれども、各土地柄や更に細分化して、ちょっとしたヒトの集まり方の状態の性質の様々に民主制の具体性がそれぞれとして生じうる。自由のあり方もそうだ。
 法制で決めるそのやり方が思い込めている諸氏がこれぞ普遍的とまではいかなくても一般化可能と見做せる事柄が、他の伝統において代替的ななにかが埋め込まれていると言うことの知見は人類学が結構今日においてはフォローしてきたのではないか。
 一方からするそれは野蛮だと見做される事柄を歴史の観点で押さえると、そんないきさつがあったのか・・・で絶句するようなこともあるかもしれないけれど、相互理解の可能性も開けてきそうだ。
 ヒト一般がついそれを聞いて、見て、似たように反応してしまうんだよね、的知見もかなり積み重ねられている。それの悪用も可能であれば、ことばを異にする人々がとりあえず交感してみることで使って、ちょっとした落ちつきの時間を持ち合えたりするかもしれない(難しかったり、実に簡単だったり)。

 こう考えてきて、列島版の中央集権化試行錯誤の歴史を振り返れるならば、20世紀の超大国を任されたUSが理念に含ませるオープンな立ち位置をごく少数が勇気とともにしか行使しえないできたことの制約が、中央集権化試行錯誤にとっての必要な時間の足りなさにありそうなこともうすうす気づけるように素人老人には思えるがいかがか。
 お隣中国というずっと(超)大国できたのに、なぜか中央集権化では未だに苦闘しているのはなぜか。
 EUが上手くいきそうで問題を抱えたままなのはどうしてか。
 まとまりを試行はしてそうだけど、各国版のところでとどまっている諸国が、だけどとにかくその枠内での営みを支え合っていらるのは不思議なことなのだろうか。
 既にの条件は上記の通り、超大国が余計なお世話要素も含めて諜報のネットワークを敷いて情報収集に余念がない。だから各国版の自律性といっても、純粋に自律性を試行錯誤しているわけではなさそうだ。
 列島では神ということばを持ち出すことが適切ではない可能性大なのだけど、各地や各血縁集団や各地縁集団やがそれぞれに神っぽいなにがしを象徴的に使いこなして自然現象に圧倒されすぎず、集団のタガが外れすぎないようにとか、逆に自然にヒトが溶け込めるサイエンス知見ではないけれど共有する知見の束の収納庫のようにして尊重するようにしてきたことが、自ずと自律的集団の営みを可能にしていて、しかも個々性の尊厳へのまなざしを生き物個々性への視野から当然導き出して、それなりの社会的営みは可能だった。
 けれども、集団の営みの共存の放置がそのままの自発性では収まらず騒乱を招きやすいなどの想像から中央集権を積極的に目論む勢力も時々湧(わ)く。
 そうこうしてきたところへ、たまたま660年の契機を得た列島では、ある程度まで渡来人コミュニティが分散的に自律的に経営されていたのを、中国の権威を借りた九州系が、内輪の問題からそれまでの半島勢の来訪すら可能にした権威の元となる倭国を名乗りにくくして、リーダーも仏教に目覚めた元呪術王という体裁ではなく、天皇を新規に名乗ることにして、国も日本と対外的に名乗ることにする。全国をめぐる古代ハイウエイを土木技術と集団束ねのプロたちをたまたまその時期には使えて、短い期間で多くを成す。
 中国は大国なのになぜか易姓革命を地で行くため、知見と経験の継承性に弱点をいつも抱えた状態だ。
 列島では、そういう中国を後目(しりめ)に、渤海新羅ともそれなりに往来を持続させて、大乗以前の心身の基礎体力に、大乗の仏教を意識的に"政治思想"としても取り込んで営みの形式は大国を換骨奪胎含みで模倣させてもらえた。
 けれども、書類の山が出来るタイプの官僚組織が自動装置として回転するまでには相当に時間を要することになる。
 遅刻、怠慢当たり前のダメ男たちに代わって実力発揮可能な女たちへ向け紀貫之氏は、文字使用の堰を切る。(ここらは藤原氏利害も濃厚だとしても)
 流されてかえって超有名になってしまった菅原道真氏などは、中央集権化への試行錯誤初段の残骸を編集して、つまり光仁桓武の時期を経た古い文献から万葉集を編集してのける。
 頑張りの時期の藤原氏は冬嗣氏のような万能の人物を生み出している。
 ができるやつらが頑張っても他が付いていけるかどうは別だった。
 各地の自律性と中央集権化案(奥義)の消化度合が異なるいくつかの有力勢力のせめぎ合いを何も知らない勢力が勢力争いのようにしか受け取れずにどこにつこうかなどの思惑を膨らませてしまうのも仕方なかった。
 だから列島で、19世紀の超大国UKと20世紀の超大国USと密接に関わった一面は良い作用を誘う。一応UKはそうだけど啓蒙の知ることが出来ること理念(イギリス本国での学問の発達)は情報についてのオープンな流通、知ることについての尊重など、宗教布教圧に苦悩する体勢を潜めさせていた江戸期の情報面での構えにとっては相当に新鮮だったはずだ。
 それが列島20世紀半ばにおいて、一応の風通しのよい方へ誘える条件づけくらいにはなったように素人観測にすぎないけれど、指摘させたくする。
 人為での試行錯誤の先端役を引き受けた仏(フランス)とは江戸末の偶然を除いて、人脈の広い藤原氏脈は怠らなかったけれど、現仏と並行するような試行錯誤には乗っていない。
 ただ世界各地において中央集権化の試行錯誤がいかに難しいかは今の姿から察するとよい。
 各地に自律的・自発的集団の営みが息づいてくれていて、しかもまとまり感の方も共有し合える動態ということの成しづらさ。
 たまたま列島は、各地に半島以来の神々との付き合いの多様をお互いのものとして尊重し合いながら列島渡来後も各地に棲み分け、段階的渡来についてもある程度乱闘の酷いのを避けながら棲み分けて、しかもその前提をまったく制圧的に改良するのではなく中央集権化を試行し始めて、しかし、奥義の共有と自発的集団の営みの並行利用という明確な知見としての応用を欠いたために、各地勢力と地元じゃない勢力が各地に出張して入り混じる中での中央集権化試行錯誤のような様も出現させて、それなりに江戸期の辛酸努力のような過程を挟んで、20世紀半ばを迎えることができている。だから、勘違いして思い込めている諸氏にとっては、まったく欧米化の偏った理念染の戦後のように反発したかもしれないけれど、それ以前の長年月を打ち消しようがないから、欧米の短い試行錯誤発想からは野蛮に見える八百万信仰タイプのアニミズムとして馬鹿にする風習も中にはあり得たかもしれないけれど、そこらは人類学他が活躍して後の今だから、まったく問題はないと察する。
 そこへ最近ネット発信でわかりやすい表現と思えたので使ってしまうけれど、列島仏教の一般にとっての体感は、心理的にも精神的にもしばりつけてこない、むしろ神だのみは、悪いことに旅立つときにも使われたりまったく、欧米の建前上の"生真面目さ"からしたらトンでもなんだけど、もっとずっと深い理念の含みのあることは人生経験豊富な諸氏が普段のことばで説明してくれそうだ。
 とりあえず、列島という範囲において、中央集権化を中国思想ととの長年月にわたる付き合いを意識できる勢力の影響の努力において、また共存可能性を探ることを面倒くさがらない列島の人々の棲み分け観において、明治が始めた欧米流の統制型国民国家試行錯誤からより欧米が試行錯誤してきた開明的啓蒙の線での近代国民国家の仕組みの学びなおしを経て、恐らくは各知賢において自らの持ち物の(平和下時間的余裕から)再点検が可能となって整理しなおせば欧米流も中国流も併せ持つ列島流の可能性に気付けるタイプの思考がなんとか起点を持てた時期を成し、今日ということで、中央集権化試行錯誤にはなにが不可欠化を整理できそうな段階だ。
 そこらを踏まえられるなら、列島での戦国時代は他国の諜報網によるかく乱が介在したとしてもなんとかやり過ごして、各地の自発性を保ちつつ、中央集権のまとまり感も漂わせながら動態へ身を任せられる。
 現欧米諸国の場合、あるいは、特権層を作ってしまったロシア圏では、まったく列島での経験からわかった事柄だけに注意して順を追えば中央集権化の試行錯誤は良好にはかどらせられる、ということにはなりそうにない。
 列島の場合だって確かに裕福系とそうでない系が並存している。だけどお互い様意識はそれなりに継承されている。それが即、欧米系がイメージしやすい民主主義っぽさを発揮、表現型を持つとは限らないけれど、いつでも可能態としては動いていそうだ。
 無理な助け合いをしないかわりに、結構、なにごとかに応じて助け合ったりしている。
 どさくさまぎれの盗人が派手だったらしい事例もちらほらするけれど、基本、そういうことを避けるのが列島に住み慣れた人々の継承してきた気質だったりする。
 そこらは多分、諸外国から観光にやってきて風光明媚にうっとりしつつ、ムードとしての生活空間観での不思議体験の要素じゃなかろうか。欧米でも根付いた土地柄、落ち着いた土地柄を成した人々の土地ではそういうことが多分育ちやすいのでは。
 列島でも大勢として落ち着かせたのは江戸政府初期を構成した人々だ。そして多分気付ける諸氏には即感応されるはずの群馬県館山氏(国道50号線域に含まれる)の人物が仏教の線で強烈な試行錯誤を為す(相変わらず列島版の女性の実力発揮ラインが鮮明な大奥人脈がらみだ)。
 一方で、列島事情を知ってか知らずか宣教圧が猛烈ということで身構えることを暗に強いてしまうイレギュラーともご一緒の時期を経験する。
 列島の人々における学(問)習欲旺盛なことは不幸な事例を含むとしても、シーボルト氏との交流の様はその良い事例だ(ついでに群馬の和算算額事例は有名だったりする。関孝和氏は児玉だ)。
 グローバルに、或る種の平穏だけど学術用語的な意味での遊びと関わる刺激的な環境を併せ持てておれば、各土地柄に応じて知的な関心が育つし、満たされると想像できる。
 今の列島は、文庫本が少し前の書籍と同額で流通している。
 素人老人はどういうわけか、文庫本は安いと自他ともに認めうる値段の頃に文庫本になった専門書というのを読むことができた世代だ。
 今どきの若者は余程裕福なのかどうか。公的な図書館がそれなりに蔵書は豊富で、ざっと目を通すくらいのことには大変重宝するけれど、手元において時に参照という使い方には向かない。
 少し前に理想のように受け取られそうなことを指摘したように、書物の膨大量のその一冊一冊のすべてが必要というよりは、適時、より相応しい整理の出来る著者たちが資料性を更新し続ける。その更新の内容が、検証の要所に明確であれば、あるほど、迂回路を短縮できる。
 古墳の年代測定は多分、今は脆(もろ)い。
 同じ年代とされる物がいっしょだから、というのは間接的過ぎる。
 物の性質からとりあえず、(一桁かせいぜい二桁誤差の範囲で)年代をはじき出しておくことが最低限要る。
 最新の手段でくまなく測定をしなおした方が資料としては落ちつきがよい。
 ひょっとしたらそれで当たらな知見が出てくるかもしれないという期待を持てる。
 グローバルにも各地で労力の許す限りで、そこらをこなせると、基礎資料の共有という事態に近づく。
 ネットが使いやすい幸運の時期ゆえ、その応用可能性は相当と素人老人でも想像できる。