連載は続く~ SF掌編『時はただいたずらに過ぎ去ってきたわけではない』編


 ほぼすべてを腐らせて戻す細菌の類も生き物と共に数億年はご一緒に来た。つまり経年の今の姿なのであって、その昔のままではない、要素に全てを持っているに過ぎない。形質表現はそれなりに限定的に収まっている。

 ところで・・・

 規模の大小を問わず一定のまとまりを求めてそこで成立する要素的集合を応用できることを、なんらかにおいて目指すなら、各自治と中央集権が同時並行的に活躍できていることを不思議がることもない、と素人老人的には推察する。
 今時なら大雑把にそれぞれの役割として独自的に仕分けて考えたりできる中央集権とか自治とか、或いは思想とか政治とか行政とか、ないし立法とか司法とかが、四方とはかなり異なるというか洒落としても混同しづらくなるくらい、仕分け馴れしているのが、今時の考え方の癖と察する。
 けれども経過ということを想起できる程度にヒトは営んできており、またそこに断続性、連続性を振り返れるような把握を成している、そんな仮定を置いてみる事には無理は少ない、とこれも素人老人は察する。
 巨大国の営みの一例を列島からの括りだと中国を持ち出しやすい。世界史の括りから列島で学んできた諸氏なら、もっと各地での試行錯誤を具体的に想起してしまいそうだ。不勉強な素人は、そうではあっても中国をとりあえず持ち出してみたい。
 すると、一種、もみくちゃな大昔ということばを、そのほかでのいくつか持ち出しやすい巨大国っぽい試行錯誤と同様に持ち出せそうに思える。
 過去を整理して分類して資料として整頓した上で、一応の理解を得られやすいかも・・・の今時ならば、素人老人同様のより多くを知っているわけではないけれどの諸氏においても、試行錯誤の大昔版はたとえそうだったとしても、これからなら、超大国っぽいいくつかの土地柄とそれと関係する諸国の間では、似たようことを招くような試行錯誤を徹底的に避けてそれを為すはずだ、と簡単に想定できそうだ。
 ただ、いつだって忙しくてつい"もみくちゃ"な気持ちを並行させて事情通でもあり事の運びに通じている諸氏であってもちょっとした熟慮を面倒がって、全体への目配りを置き去りにしてしまうことを紛れ込ませるなら、それなりの大昔近似の困った事態を誘い込み易くさせる。
 ということで、その昔の今なら回避できそうな辺りの見通せるなんらかのいくつかについて素人が、当然、歴史通の知識膨大系な諸氏ならとっくに承知だろうし、一般の諸氏において、ちょっと考えれば判ってしまう辺りと関わる程度のことであって、羅列的に持ち出して、そこらはいつだって注意が要る的なことを持ち出してみることはただ無駄ということにはならないと察する。
 とにかく列島史に限っても、まず中央集権化のプランとして明確に持ち出したくなる勢力が登場したからといって、それに一体だれがオーケーするだろう、とは素人老人でさえ気づける類だ。中央集権化勢力が目論む勢力圏内の構成要素(それぞれ活発な生活を営んできたゆえの邪魔されたくない意識は簡単に持ち出してくるような勢いが息づいている)に中央集権化ということ自体を理解してもらうことになるし、なぜ、それを求めるのかの辺りはそれなりに納得してもらうような説得が必要そうだ。殺し合いとまではいかなくてもそれぞれの活発で独自な営み間でぎくしゃくが生じやすくしていて、そこらの調整は必要なのでは・・程度の中央集権化必要論を想起しやすい環境の有無さえ貴重そうだ。
 今時の観点からは、もう少しシンプルに、各地、各土地柄における自発的独自の活動間の調整機能に限らず、必要な支払い手段の集約のあり方の一つとしての納税タイプを持ち出せそうだし、実際に動いている中央集権を意識できるなにごとかと同時にそれぞれの活発な試行錯誤がある程度自在に可能になっているし、自らも関われるようななんらかが作動していることを人生経験の中に持てていることそれ自体が、相当な説得力としてフィードバック作用を働かせてしまう。概念的に(営みが可能になる仕組みについて)画期的な発明を説明することの長年月を想起するだけで、現に動いてしまっている事態が発揮してしまう説得力は段違いと察する。
 そういうそれまでを持ちえていない大昔の時期に、中央集権化できて、それこそがそれぞれにおいて安心して試行錯誤できる環境整備に通じるんだ、とか理屈しても、そう簡単に受け取られない。自分達の伝統はな・・・とたまたまその世代が思い込んだ伝統とやらを強弁する連中が必ず登場して頑固者となって屁理屈の限りを尽くしてくれたりする。
 一方で、改革派の先走り過ぎに、頑固にこれまでの試行錯誤において成功してきた地味な営み手法の数々を育て継承している諸氏もそれなりの勢力としていらっしゃる安心感も並行させているはずだ。
 そんなだから、中央集権化プランの長期的一本化および、その奥義を相当に濃く継承し続ける脈を保つことすら難しいことにさせかねない。
 どれほど犠牲を厭(いと)う謙虚であり勇敢でもある継承の担い手脈であっても、煩いやつらが自分達の営みを横取りして、中央集権にしてしまうつもりらしいぞ、と争いごとにしてきたりすれば、しかもひと回りもふた回りも勇敢に、力強く拒んで、中央集権化の営みを拒絶するような趨勢がはびこりそうであれば、それなりに強く、陰険に出ることも継承脈にとっては、仕方なくの更に仕方なくの決意とともに、迂回路をたどらせる。
 自らの継承脈として同じ思いだったはずの脈においてすら、見当違いの勢いを生じさせたりする。(*今も昔もの意味合いから、試行錯誤機会をだもが同様に想念できることの貴重さと共に、資源はだれのものでもないはずだしその一方でだれもがその各自性においての試行錯誤と関わらせうるはずだし、といった辺りのヒト集団の営み上での工夫はどの時期時期に応じて生々しく調整の工夫が求められ続ける。ある程度の長く使える手法なり考え方を編み出せるなら、それはそれとして重宝に使いこなさせる。年齢の年を重ねつつより個別化へと誘う起源に気づかせることば運用の不思議がその実際の運用においてお互いさまの基本から、馴染ませる努力を惜しまない方に仕向けるように、ヒトの営みは馴染ませ合うとか、調整し合うとかその微妙なニュアンスでその方向性の貴重な辺りを感じ、理解させるようにことばを開拓、使い分け、用(もち)い方としての実践へと誘ってきている)
 以前もちょっとばかり持ち出してみたけれど、道長氏のころともなるともう摂関政治の基盤はぼろぼろだった。藤原氏天皇脈とのごいっしょ試行錯誤としての中央集権化プランという出だしの頃の想定を共に持つことが出来ない場合、白河の単語が今の時点においても勘違いを誘う出来事の群れを想像したくさせることもあるようだが、既に、がたがたになっている。
 六国史継承らしさはとっくに失せている。
 プランの練り直しの時期と捕らえたほうが良い。
 なぜ文献系のルネサンスっぽい勢いを鎌倉期に持てたのだろう。
 しかもがたがたの一方でちゃっかりなのか、しっかりなのか桓武脈の末裔たちが日宋貿易とか大活躍している。そこだけにおさまらない。東北だって元気だし、中央の思惑の伝わり方がばらばらだったのか、それなりの勢力争いを招いて、ひどいことにもなったりする。
 そして一応、落ち着かせる脈のまとまりを生むわけだ。(更に思い込みの頑固の各地版を濃くしてその趨勢の中、落ち着きを得る試行錯誤は多くの犠牲を生むようなことを経させるけれど、今の時点からして、それを避けうるという仮定のシナリオなり実際のドラマなりを作れるくらいでないとまずいと素人はシンプルに想起する。今ならより工夫できても、昔は無理だったんじゃない?!ではまずいと素人老人には思えるわけだ)
 そこらでの列島版"仏"の発想を下敷きにできて、殺生ごとの多さなど史実として想起しながら、今の知見ならばそうしないで済む辺りへの想像が働くなら、歴史好き系がついそうしてしまう大事(ないし大袈裟)好きに走り過ぎない、列島の歴史を見つめる、オルタナティヴも一応可能になりそうだ。

 たとえば介護でなら、と何度か指摘してきた素人が老人ゆえ、またも少しそれに沿って言ってしまうなら、現場での生々しさに面食らってストレス急上昇からいたぶってしまうタイプの一般人ならではの暴走経験を極力避けさせるには、ごく簡単なことだけど、たとえば介護技術的には、ボディメカニクス技のカバー範囲の狭さをかつてNHKがしっかり紹介してくれていた青山流の体技を直感的に応用できるくらい日ごろからだを動かし合ってトレーニングして身につけてもらっておくだけで、かなりを制御させるようにしてしまう。
 健全だけど、ほぼ100%他人の力を借りないことには動けないだれかを、青山流からだ技ならば、なんとか楽に対応させる。全介助タイプには持って来いだ。
 やや緊急の場面で、セオリーをそのような時に限って思い出したりして「お年寄りの自力を誘って」、その手の"技"で、とかにこだわり過ぎず、臨機応変の配慮が働いているようなら、そこでも身につけて直感的にこの場面ならこれだなで出せるからだ技の青山流でその急場をより安全にやり過ごさせるはずだ。
 中央集権化を目指すなら、各地での自発性が発揮させ易い条件作りが不可欠、といった辺りへの参照事例としてみた。
 そういう各現場での試行錯誤がそれぞれの得意技を用い易い環境でいつも元気に為されていて、そういうことが(職場や会社やの役割分担の間柄において)お互い認め合えて出来ているのは、中央集権化での認め合いが成っているから、といったニュアンスが素人の大雑把過ぎることば使用にはなってしまうが、そこらから多少なりとも事態把握のニュアンスを感じ取ってもらえるとありがたい。
 介護現場のやりくりが、(介助、介護の世話が必要な諸氏において)頼りたいけれど、どうも信用ならないとかがわだかまったままだと(介護・介助をする過程それ自体として)中々やりがいとか、介護仕事の満足感を得にくくしてしまう。
 でも、お年より諸氏は、他人の力を安心して使いこなして、(介護環境という変化後でも)自分流の生活の延長をより濃い最晩年期(自覚的最晩年の数日間)まで心に秘めさせておられる(だから元気度のバロメータになるけれど、ちょっとばかり煩い諸氏のように印象できるお年寄りもそれなり目立つのだし、勝手に動いて、なんて迷惑なと思わせるお年寄りも決して珍しくはない。言うことを簡単に聞いてくれるわけではないけれど(マイウェイだ)、ちっとも騒がしくないお年寄りも沢山おられたりする。今時の気質では対応不能なくらいきっちり生活習慣を求めるどなたかとして目の前にいらっしゃることだって普通のことだ。施設の都合は、時間割縛りをついしたくさせるけれど、当然老後の長年月相手なのだから、そこだって介護のめざす当たり前というか普通の度合いからする理念からしても、時間の使い方における自己流の含ませ方は基本として、応用課題の一つと察する。それができないなら各家庭での介護生活を各自の自力で相当の晩年まで可能な工夫を模索し始めた方が世界各国の為になるかも・・・は素人老人の介護感想だ)。
 パニくらなければ、普通のおばさん、おじさん、おねえさん、おにいさんでもある介護現場担当者諸氏が、暴走することはとことん抑止させるだけでなく、頼りたいお年よりが頼ってくれて、それはなによりの介護担当諸氏にとっての"ごちそう"になりうる。応用発想への刺激にもなって工夫することに時間を費やす楽しい時間使いへと変質させもするはずだ。
 介護保険が持つ範囲論は未整理のままだから、サービス残業っぽい扱いになってしまうかもしれないが、耳を傾けるその一時さえ、頼られて、しかも、お互いの信頼度を醸成している状態であれば、親しい間柄同志がお茶の時間を共有した時のように英気を養(やしな)えるような、鋭気を貯(たくわ)えられるような一時ともなってしまう。
 そういうことが安全、安心に成り立つ環境を超大国か帝国か、大国間の連携か、大中小各国の了解が逐次働いてのことでかで、成り立たせることができてしまう。

 列島の日宋貿易に限らず、ただそれが偶然の環境で終わらせない工夫とか支えという発想は、各活動態の自在さと中央集権がもたらす環境のセットとして、その後を応用させるようにする。
 ただ時々勘違いしてしかも一定以上巨大勢力となって乱暴を働くような勢力が偶然更に勢力を働かせてオルタナティヴ提案タイプの試行錯誤を持ち寄るよりは、身勝手が明け透けなケースを垣間見せるような場合は、それなりにそれまでの努力が水泡に帰(き)することのないように、根回しの渦作戦が採用されることになりそうだ。

 

  川柳もどき

   同じ関東平野は埼玉の土地なんだが
   ヒトが密集するようになるとどうしても工業・生活排水の汚れ具合は
   密集しているといってもそこそこの感じだった女影とかの辺り
   の川には、ハヤの稚魚の群れが棲み分け棲み分け、少し年長のハヤたちと
   泳ぐ姿が目立っていた
   密集するだけでも水流への負荷の度合いがこうも違うのか、とハヤの姿を今年はなかなか見つけられないでいる
    老人発、グチ
   天気予報のヒント発信を参考に、汗ぐっしょりとならない5月の猛暑の中
    水をチビリチビリ、ついでに季節の餅菓子(こしあん柏餅)をひと口
   後日、それを見ていたはずは無いのに、公演にて鳩の一羽が何かよこせと馴れ馴れしくごく近く寄って来てもぞもぞしていた
    ので、なにもない両手のひらを見せたら、さっさとそこから(歩いて)去って行った、わかるのか鳩は?