連載は続く~ SF掌編『サッカー観戦の日常サイクルから戻る』編


 大局的ということでは弁証法役割分担の論の観点が通用する事態が継続中である場合、"民心"はあたかももてあそばれるがごとく心配過剰にさせられたり、疑心暗鬼に誘われそうになったりの、現代でならマスメディアでありブロードキャストっぽさゆえの情報発信のくせが、そこらを助長するようにもして、真面目に信じようとか、否、疑問を持つ程度の礼儀は必須だとか、色々な立場を性急な形で求められたりで、世論として落ち着きを持ちにくくしたりがありうる。
 でも、一方に、別の脈絡において熱しやすいから冷めやすかったりもするけれど、急対応に誘われがちなネット系の情報のやりとりが混じる世の中では、そこにマスメディア手法の浸透度合いが未だ薄いとして、別のノリにおいて、弁証法役割分担の仕掛けに、翻弄されがちにする。
 だから大局的な事態の推移は、担い手諸氏における、巧みに任せざるを得ないようなところを、今のような世の中であっても、素人老人的には指摘できそうに想像してしまうが、だからって、担い手諸氏がすべてを握ったことなど未だかつてないのだから、集団性の各地の育て具合次第で、今時のようなその後を落ち着かせることも可能になる場合もあれば、一時的に手の付けられないような乱暴事態が生じてしまうようなこともどうしたって起こってしまう。そこらをだけど今時の組織的な工夫は、穏便の方へと時間を使って誘える知恵と技量は蓄積してきていると素人ですら多分、押さえておけるくらいのはず。

 大局の一面での作用関係がそうだとして、ミクロの巷で生じる様々は手に負えない、バラエティに富んでいるだけ、のようで、あるくせも発揮しそうに素人老人には思えている。
 ちょっとばかりわがままに、身勝手な振る舞いを他への影響も生じるのに行ってしまうという場合、それなりの指揮命令系が有効になる小集団の力学を使いこなせている立場を想定できそうだ。
 力任せの結集でボスを演じられているとか、なんらか権威をたまたま得られた立場だとか、偶然にもその小集団において権力を得られたような場合だったりする。
 でも迷惑が派手に"外部"へと押し出されれば、それなりに法治国家のなにがしに触れてしまうわけで、世間の圧も底流として機能するから、お互い様を無視したわがまま行使の範囲で、それなりの制御が働く。
 それでも納得できず、世間に自らのわがままそうに受け止められがちだけど、実はそうではないからこそなのだ、ということで行使を認めてもらおうと継続する場合、"外部"も含めた権威を得ようとするとか、権力を得ようとするとかして、だけど、すでにそこらは認めにくいと判定されてしまっているので、するとどうするか、手っ取り早くお金の力を借りてというのが、19,20世紀以来の常套手段そうだ。
 だから、そのわがままかどうかは、真実のところ不明な時点で、だけど、お金(支払い手段)の力が相当に有効な環境においては、そこらの判断が外側では必須になりそうだ。
 ひょっとしての将来的展望を誘う可能性の如何を判断できるのは、実際には相当に難しいけれど、歴史的にも、政治的勢力の育ちにおいて、そこらを適格に判断できて、しかも、弁証法役割分担系の発想を働かせやすい勢力がより表で活躍しやすい世の中だったりすれば、ちょっと利用で怪しげな勢力にも大量の資金を流し込むようなことが起こりうる。 でも、そこらを速やかに判断できて制御できることは、弁証法役割分担発想への制御ともなるわけで、参入と関わる手順として、より様々に一般化できていることは市民社会的試行錯誤の脆弱性への免疫的要素のほんのちょっと程度の役には使えそうだ。

 その事例というわけではないけれど、過渡期における超大国警察機能依存を一端手放すほどではないにしても、緩める必要があるという場合、兵器生産はいつも活発だから、採用するに当たっての事態へ工夫が可能になりそうだ。
 弁証法役割分担発想が敵対的な相手をいつも新鮮に保とうとするのだけど、一応の防御のための攻撃用の兵器を用意したい、というときに、敵と密かに見なす諸国から、超一流の兵器を購入することの各国における網の目構造をいつものことにしてしまうことで、一体明確な敵とはなんなのだ状態、一種の混沌を保つ知恵を使えそうに素人である”老人”ゆえ、相当に思えてしまっている。
 弁証法役割分担発想から大国は味方同士の間で武器商売を成り立たせようと仕向けがちだけど、そこを地球表面市民社会試行錯誤発想から、混沌をわざともちこんでしまうのだ。どこのお国であっても兵器商売をやっているところは儲けたい。少し安くしても多分買ってもらいたがっている。相当な発明が入っている商品で、買い手間に競争が生じそうな場合は、また別なことになりそうだが、大抵は似たり寄ったりの比較ものになりそうだし、予算に応じて、性能に合わせた適度の値段のをそろえることが、"混沌"へと誘う。

 ここらは弁証法役割分担発想へのオルタナティヴがどう育つかへの、ちょっとした素人発想になる。


 列島古代史が教えてくれる、中央集権模索の難しさ要素を踏まえることができるなら、自然としては大方、分権状態、ということを押さえておく必要を指摘できそうだ。
 でも実際においては法治という指標からは分権の度合いを保てていそうにないと判断が働きやすい現状を、多くの諸氏が見てそうだ。
 けれども、と素人は指摘してしまうのだけど、分権ということばだと説明しきれないだろうが、一種、それぞれにおいて、未(いま)だ自主独立的な自律の営みが各地で、ミクロの様々として働いている、と見なすことが大事だ。だからこそ、地球文明的なまとまりは遥か遠いという実感をだれもが持ててしまう、と指摘できる。
 実は、まとまり感を共有できて、それなりに各地の工夫が自発的に有効に働いて、結果的にまとまり感を支えてしまうようなあり方がある種の終着点だろうけれど、そのまとまりは、未だかつて達成できたためしはない。ヒトはというと、むしろアンチユートピアの方でしかまとまりを機能させられないのでは、という想起の方が目立ちがちにしてきている。各地がそれぞれ工夫してしまうことを厭う中央の権力がそれを行使して、押しつけがましい事態として夢を実現させる。そしてそんなことはまっぴらごめんだ、というのが大方の正直な受け止めになってしまう。
 各地の試行錯誤に、弁証法役割分担発想からするためにする悪事っぽいのが入り込まないというちょっとばかり理念的な事態を想定してもらいたいのだけど、そういう場合、その試行錯誤へなんらか事前の検証が進行形の中で介在しておかしくない。それをとことん嫌がって、やらせて結果オーケーでいこうと、検証作業での判断の重みを避ける勢力は市場原理主義的に、競わせて、勝った方に当面軍配をあげる方式を採用する。悔しかったらまた挑戦して勝って見せてね、という具合。一見議論とか民主主義の手続きに委ねているようで、過程で生じる諸々をどういう場合でも(ということもないだろうが、大抵は放置して)競って、それが裁判かもしれないし、各活動が誘うマスメディアでの扱い方だったりするかもしれないし、世論のファン投票の偏り方次第だったりするかもしれないし、一応放置の底を用意しつつも、その上での市場まかせが機能している。事前検証の判断を入り込ませる面倒を担いたくない発想に近い。民主制は、お互い様性質を温存できる工夫を並行せせるはずだから、後者に近づかせる。前者の試行錯誤は、市場任せで、プロセスで生じる不可抗力もまた関係者間の競り合い任せに委ねられるようなことが事と次第では頻繁化に仕向けやすい。

 自然が各地性を帯びているから、まとまりの思想的基盤を、と力(りき)めた古代に当たる時期の人々はそれなりに乱暴な力業を行使してしまったことが史実として残った。
 列島も例外ではない。力関係を意識させる底流が、ハグレ猿の頼りなさを払拭できるように例えばご先祖由来を記憶にしてきた昔の人々の発想を援用する形で、有力苗字へと各地の独立経営集団を誘うようなことを、混乱の時期に誘っている。そして対比的に苗字を持たない脈々が、よりそのことの人為性を証明することになった。
 プラン上、まとめ役の大役はそれなりの工夫を持続的にこなせないとダメだった。
 一方、各独立経営集団相手の実際的困難へは、とりあえず疑似集団化の試行がそこそこ役立った。底の底での密度が、その幻を束ねて、とにもかくにも、戦国を落ち着かせることを可能にしてしまった。
 ヒト間の接触濃度の濃さからして欧米も未だに戦時体制を続けている。敵はもう希薄化しているはずなのに、未だ味方間を誇張する接触濃度を保たせるように仕向けるなにかを引きずり続けている。
 そういう形での戦時体制ではない形で引きずった脈々は、もっと果敢に女たちを囲う方で努力し続けて、その由来を忘れて、現状肯定の方から、女は囲われて、異性の衆目から隠さないと的な発想の脈絡を外した方で意固地になっている感じだ。
 列島だって、脈々の人々が、由来とか起点の数々とかを精度良く継承してきたかどうかは不鮮明だ。
 まとまり感を得つつ、だけど!各地がそれぞれの条件に応じて自主独立的に自律的な営みを可能にできていることこそが無駄を省けて、逆に、無駄をたっぷる遊べたりできる余裕も得やすい。
 だから、分権発想の諸氏も勘違いしないで、一体、税収なしでの小集団の営みの各地版を想定しての営為なのか、その場合生じる各地間の軋轢を過去に戻って、延々と繰り返し続けるその延長にする気なのか、それとも、まとまり感試行錯誤は賛同できて、しかも各地の努力をこれからもずっと活かせるような工夫も込みでの試行錯誤としたいのか、程度のことは検証判断できることが要る、と素人老人ということに免じて、指摘させてもらいたい。税収は不要なのか、どうなのか?がシンプルに指標にできる。その規模は如何も含めて。
 そして現代社会の試行錯誤において、いくつかの税は取りにくくなって、それゆえの試行錯誤の答えがいくつか出て試されてきたのだ、といった辺りを是非論客の諸氏においては検証していただきたい。ヨーロッパではそれに一つの答えを20世紀に用意していたわけだ。それすらが、ネット商売大繁盛になって、試行錯誤へと誘われているのが現状だ。

 現役の諸氏がその幻の秩序形成へ向けて試行錯誤される行動を支える人生の営みが、介護をめぐる直接的な関りではまったく役に立たないのだ、ということに気づけるのは、手遅れになってからだから、そこらの実相をなかなかことばとして得にくいのが実情と素人的には指摘したくさせる。
 現役の諸氏がこなすことが間違っていると指摘しているのではない。そこで機能している密な網の目を形成しているはずの(行動へと誘うはずの)考え方のもろもろがそこに個々におけるニュアンスの様々な違いも含ませながら、ヒトならではの世の中へ具体的な形をもたらしてきたのだけど、その営みに自信を持ててその惰性からもしも介護へと向かう切実な立場を(をする方か、を得る方か)どちらにしろ、大方にとってはお手上げ状態を招きやすい。ここまでやってあげているのに的ながっかりへと誘う。肉親的近さが近いほど、その落差感受からする暴走を誘いやすくする。距離が幸いするとも言い切れない。惰性発想を一端置かないと、軽んじる方でいつのまにか暴走しがちにする。相手はずっと老いており、だけどそれなりに人生ベテランの年代の介護の担い手が、相手を軽んじてしまう。 きっとそうは望んでいなかったはずの人生の表現型を、蓄積の中で演じ始めてしまう。 初めから実は軽んじる他人観を発揮しやすくて、そのまま惰性で介護に入り込んでしまうタイプの諸氏もそれなりに無視できない数いらっしゃるはずだ。
 でも、ちょっと一呼吸、発想変更を試せれば、それなりの筋道にも気づけるようになってくる。列島気質の諸氏にとってはお互い様発想を応用できるわけだ。
 幻の秩序形成の現役諸氏において、お互い様発想を持ち込める筋道を見いだせれば、それはそれで、凄い世の中変化へと誘えそうだけど、工夫のしどころとか発想の具体性において共有できる過渡をどう経られるかなど、試行の辺りは残る。

 

  川柳もどき

   ワールドカップサッカーが終わって、気ままな就寝・起床のサイクルが戻ってきた    今日この頃、それにしても、一気に寒くなってきた、
   けれど、
   ここらは例年のとおり
   (11月末から12月にかけてぐっと冷え込むサイクルが、少し後ろにずれた)


 ということで温暖化論へ警鐘を鳴らしてこられた諸氏を忘れないでおきたい。
 古代列島の気温変化とも関わる。
 大変な温暖化によって多分大洪水も伴うような海面上昇の初期を経て、目に見えるくらいの変化としての海岸線の内陸部への進入の時期を列島の多くの人々は記憶にして継承して、どう住むのかの工夫のあり方を模索できたと察するけれど、その温暖化も寒冷化とかの波を伴わせながら落ち着きを取り戻し、今に続いてきた。ここが肝心だ。
 温暖化の趨勢は実になだらかになって、海岸線がかつて穏やかにであっても目に見えるくらいの進度で内陸へと来たような事態にはしないまま氷河が溶け続けるタイプの進行を見せている。
 気象の変化としての表現が採用されているのでそこらは知恵を働かせていると素人は見るけれど、とにかく、ヒトが近過去に経験してきた温暖化はそれはそれはの激しい事態だったはずで、その穏やかな惰性のさ中=間氷期であることは間違いなさそうだ。
 やがての氷河期のくせについての知見も日本語を使う研究者が重要な見通しを提供できるような研究結果をネットでも読めるようにしてくれていることは以前、ふれた。
 海流の変化がたとえばヨーロッパの温かい部分へ激変を生むとか、判断材料は提供されている。北米の気象変化の激しさを、安直にその気配とか言ってしまうのは安直だけど、しつこくなるけれど、北米とヨーロッパは氷河に覆われやすい土地柄なことは知見の一つだ。