連載は続く~ SF掌編『今時スモッグに混乱する土地柄も』編


 U-20女子サッカーの映像を想起しつつ、少々話に付き合っていただきたい。
 この間(かん)、男子サッカーの日本チームが2試合ほど強化のためにということでドイツチーム、ベルギーチームとサッカー技を競い合っていた。
 以前、その女子サッカーの数試合を見て感想をここで書き込んだ。
 そしてその年代の女子サッカー構成ならば、圧対策の様々を身に着ける工夫を先輩諸氏とともにこなせればの当たりにもふれておいた。
 それくらいその年代構成の女子チームは現状のヨーロッパ諸国のチーム構成がなせるサッカー技における動的に繰り出す上での精度・速さに応じきる以上をこなしていた。
 圧対策さえかなりのところを達成できれば五分以上が可能になるのではと素人老人に思わせるのに充分だった。
 今時の性別を問わずのサッカー技の繰り出しは、たとえば、巧みなドリブルをこなす選手相手なら、ボールを持った瞬間から一人ということはなく二人か三人が密着してボールを奪え返しに来る。
 その状況をも今年のワールドカップで大活躍していたアルゼンチンチームの超有名な選手などは集中モードに入った時にはなんなくかわしてしまう。相手チームにサッカー業界の裏技師が入り込んでいる場合だと、下手をすると怪我させられるごく限られた可能性もありうるけれど、通常のフェアなプレーの応じ合いの流れなら、その素晴らしいプレーをサッカーファン諸氏は堪能できるわけだ。
 少し前に通常の国別ではない列島でいうJリーグのようなリーグで活躍するチームの世界規模での競り合いの‟頂上戦‟を放送していた。
 そこでも、ワールドカップでアルゼンチンチームではなくヨーロッパの小国のチームで足技の巧みを披露してくれていた選手がスペインのリーグのチームで活躍していて、そのチームの一員として同じように足技を披露する諸々のチーム選手たちと精度、速さ抜群のプレーを見せてくれていた。逆にそうでもしないと、日本チームの守備モードがその力を発揮した場合のことを想像してもらえれば簡単に伝わるはずだけど、とにかくよほどの偶然の積み重ねを誘わない限り、手堅く守り切られてしまうし、ボールも奪われやすい。奪われた後の奪った側である日本チームの実力はそれほどではないから、ボール回しでつい失敗を重ねて自滅するパタンに相手チームは助けられやすい。一呼吸すらできてしまうわけだ。
 とにかく、今時は日本チームの守備モードが適格に機能しているような状態を各チームがこなすサッカー技の現状になってしまっている。
 そしてボールをすぐに奪いにもくるしそこには技がそだってさえいる。
 ということで、ボールを持っている側がよほどの工夫を働かせない限り、簡単に奪われてしまうし、バスそのものが大変なリスクの場と化している。
 そこらを素人老人の観察からは、U-20 世代の女子チームは心身化できていて、見事にパス回しでかわせていたし、シュート機会にさえもっていけていた。
 活躍していたゴール前の女子チームの二人のことも、そこへ伝えうる中盤の何人かの選手のことも印象を今でもお持ちの諸氏が大勢と想像する。
 が、その限られただれかたちを支えまくれるボール技を心身化できているその年代の選手たちが最後まで動き回っていた。ただ、圧での攻めにぼろがめだっていたのだ。
 だから折角その先を目指せたにもかかわらず、ポロっと奪われて・・、と得点を重ね損ねていたのだった。
 そういうことを、U-22男子チームの試合を見ながら思い出していた。
 今は、男子が女子のその年代構成チームから学べそうに強く思えた。
 圧の使い方は多分、男子チームの場合上手に先輩諸氏から伝え合えていそうだけど、今時の精度と速さの凄さが必須のことを未だ、伝えきれていないように感じた。
 本番となれば、短時間で一方的に多得点されて残り時間の多くはケースごとの練習に使われかねない。男子チームの場合、そこらを想像させた。
 練習強化試合ということで手の内のすべてを披露できないという条件を置いても、多分、実力は発揮していたのではという前提からの素人観察なので、ご容赦。


 サッカーの場ということを思い起こしてもらって、そこでの精度とスピードを精錬しまくって90分間動きまわる、っていうのは、ちょっとヒトとっては無理そうだ。
 試合を見ていてもそれなりに体と心が工夫していそうな辺りは感じ取れる。
 列島古代史以来ということで中央集権の工夫を達成することの困難な辺りと努力する諸氏の連綿というあたりをずっとふれてきている。
 列島の場合、列島古代はある程度の証拠を残し続けてきてくれているので、各地定住の年々の積み上げ要素を踏まえることが欠かせない。
 中央主権技をお互いのものにしていく発想がいつ頃持ち寄るようになったのか。
 それ以前を前提にしないとわかりにくくなることがその後の中央集権化の努力の後にもずっと繰り返されているのだから、推して知るべしと素人なので指摘してしまえるが、玄人筋ともなれば論証しきれなければ、説得そのものが成り立ちようがない。
 ヒトの営みがある歴史的な結果を前提にして起点を持つことの繰り返しと見ることができるならば、列島古代は中央集権がミクロの各地では工夫されていたとしても列島環境においては、各地の集住任せが実情に近そうだ。
 だから今でも戦国とか様々に拠点移動、リーダー層入れかえ策などほどこしてきたにも関わらず、一方の連続史からは外れた発想での分権発想が突如勢いを生じるようなことが起こりやすい。
 ここらは、中央集権の営みの工夫をこなしていくうえで丁度よい参考にできる。
 中央集権化の暫定的な涯てを想像してみたときの中央集権の営みの様が、各地の営みの自立心を邪魔しないまま、ないしそういう風にできることも含ませてヒトの往来が安全無事であるその中身として工夫の数々も妨害されないで試行錯誤くらいはできていて、だけど無謀な試行錯誤については目利きのだれかたちによって、ある程度のところで制御できている的な、イメージで共有されていて、だから、各地の自律的な営みが、新たな世代を継承させ続けているにもかかわらず、中央集権の営みへの賛同が希薄化する傾向を生じるようなことにもなっていない。
 そういうタイプの中央集権化しているからこそ可能な要素を持続的に営ませうる。
 元々というかたまたま、列島での出発は分権というのか、各地自律的な営みが散らばっていたのを、そのままでの危険要素縮減を構想した場合に、どういう集権化が可能かとなって、中央集権のケーススタディとしては大国から多くを学べたか、代理のだれかたちから教えてもらえた。
 そして真似るようにして、またそれに必要な技とか素材を、ばらばらのままだと、ただ消費されるだけだったのを、とりあえず集中的に集めることを可能にして、そして拠点を作る。
 掘っ建て小屋タイプではないのを作り始める(列島の温暖湿潤環境で土に刺した木材の脆さは現代の諸氏でも経験知として持てている。防腐剤の類もだから昔から工夫されてきたけれど)。
 そこらの熱気を追々リーダー層の中で継承の脈絡があいまいになって、偉いからとかなんとか勘違いした世代とか筋が生じて、初心の辺りもだれかの勝手な想像だろうくらいの扱いになりがちにして、現生人類のある時期の試行錯誤の結末へと至りやすい。
 親の身になって、というのは基本として持ち出しやすいのだけど、親が含ませる中身を検証していくと、やはり散らかりやすくしてしまうのが、観念の働きの扱いづらさだ。
 むしろ巷は権威付けをめぐって小さな‟政争‟の場に落とし込みやすかったりする。
 そして棲み分けの多少困った方に誘いやすくする。うるさ型は馬鹿なことばかり言って言い聞かせようとするから、かえって邪魔だし、議論してどうなるものでもない権威筋相手ということで、自分は自分での線を選択させてしまう。
 巷がそういう落ち着きの状態であれば、中央集権の初心を忘れていない諸氏が活躍してみたところで、中間管理職の固さがどうしたって困った方に作用しやすくしてしまう。
 巨大な中央集権の営みが、外の各土地柄の営みを中央集権に落とし込もう、と図る場合も古代の列島ではないどこかでありうる。
 それが唐の武則天氏や高宗氏の頃だったら各地の営みが秩序破壊工作でもない限り、頑張ってねで済む。しかも中国の(儒教系とこだわりすぎることはない)伝説を下敷きにした秩序観を持たせていれば、そこでの秩序への判断込みからの見なしになるから、狂暴がたまたま秩序を保たせているとかは除外できる(平穏な秩序を達成していると見なされない)。
 けれども、その秩序観に困った要素を持って、巨大中央集権が秩序化を外へ向けて働きかけるような場合、偏狭な秩序を良しとする中間管理職層がはびこりやすくなる。
 巷にとってはいい迷惑になりかねない。
 ということでまたもや端折ってしまうのだけど、たとえば法治ということでも、決して分かり切った事態となっているはずがない。
 法治はどういう工夫ができるのか、もっと様々について検証しつつ発明発見が要ると素人には思える。
 公務系の潜り込み捜査が不可欠だとしても、コマーシャル利害が育てた巷のやらせ脈のはびこりが巷に植え込ませやすい疑心暗鬼の類と同様の効果を残すようでは公務の達成とはいいづらいはず。
 ちょっとしたことまでがこれからもシミュレーション思考込みに知った、わかりきったことにしない馬力を保持できることが考えること大好き諸氏には求められるし、現場の言葉発信力も同様に必須だ。
 だからことばの学も決してわかりきってはいない。
 通りやすいことばの営みがもちろん、その場で人気(にんき、ひとけ)を集めやすい。
 でもその商法だけでは、芸術・芸能の力量を発揮させきれない、というあたりにも気づけそうだ。
 しかも放り投げ方式にしない工夫の辺りには気づけている時代相のはずで、そこらの巧みは芸術・芸能的ですらありえる。


  川柳もどき

   花粉症というのが有名だ
   生まれたときから春だと鼻水だらだら
   というやつらもいるだろう
   だけど多くの奴らにとっては
   人生の途中から
   その症状が現れたりする
   それって
   不思議
   じゃないのか
   研究者諸氏の好奇心はくすぐられにくい
   のか・・・
   なんならこちょこちょっとことばくらいは使える