連載は続く~ SF掌編『金(アンデスの文化ほか)未来』編


 プラスチックによる海洋海岸汚染のニュースが伝える事態を招いている原因の一つとして影響力のあることとしては素人考えからするとプラスチックごみの焼却処理をしずらくするアイデアの流布辺りではないか、と想像している。
 そうなるとアイデアそれ自体をめぐる人々とニュース報道の仕方と関わる人々とに問題の糸口を見出したる感じになってしまいそうだ。
 それらの人々は多分良心からの訴えとして、そういう考え・方法を取っているとも想像できるので、事態は込み入ってしまう。

 産業革命の方向性のその一方向が含ませる問題群だから、産業革命をもたらした近現代化とも関わる諸考え方の方向性についてもそろそろ謙虚に検討し直す時期とも素人だと急いでいるわけではないけれど、そんな時期じゃないの?とか投げかけたくする。

 プラスチック製品には日常の利便性に響く小品がバラエティに富んで普及してそうだ。 でも、一方で、溢れてしかも溢れ続けて・・という方向を選ばせるアイデアが有力で、じゃ、利便性を犠牲にしても作らないことにしようとか、残り続けない原材料を工夫してみたらとかの試行錯誤も伴わせているし、素人考えのように燃やしてしまえば、燃えクズの処理問題は残るけれど、プラスチックの質的性質由来の問題は残りにくくなりそうだと考える向きの少なからずいるだろうし、これだけでも我が道を行くタイプの数種類が誕生してしまう具合だ。

 産業革命以前の複数の有力なアイデアが地表面規模で並行して試行錯誤していた頃の話を年初のNHKのドキュメンタリー系の特集番組が紹介している。
 ゴビ砂漠は8000年前頃の恐竜化石の"産地"のようで、北大の小林氏がリーダーとなって結構な発見的発掘を継続している。
 水場の端だったらしいそこには恐竜の足跡が化石となって残っている。(この場合は骨が化学変化して(化石の)形となったタイプではなくて砂が大きな足跡に流れ込んで固まりに固まって残ったタイプだ)。
 ネット発信を読んでおられる諸氏においては不思議が不思議ではない状態と察するが、素人状態の老人にとっては、そこを通る恐竜は‟お前だけかい?!‟という疑問をこの手の話が出てくるたびについ思い浮かんでしまうタイプゆえ、またもや、そうなってしまって、‟その‟足跡がずっと残ってしまう原因をこそ紹介してほしいのに・・とか研究者小林氏の事情などおかまいなしに、ちょっと不満っぽく年初からなってしまった次第。
 とは言え、小林氏の発言が紹介され、恐竜全盛はなにゆえへの答えを求めての発掘の一面を指摘されている。
 そこに食物連鎖の今では当たり前の前提も下敷きに、肉食恐竜のエサとなった総体的に沢山生まれて育ちやすい恐竜は、ということでの追跡的探索の過程でのゴビ砂漠での化石発掘のなっているようだ。
 氏は50代ということでこれから先10数年間は体力勝負の研究もこなされそうで、期待大だけど、なんと北極圏の恐竜化石調査にも挑もうとされており、発言から、今でも多忙な氏がどこまで多忙の中、各地の発掘を続けてくれるのか、ちょっとだけ心配になったけれお、ここらは化石発掘・研究の技事情に無知な素人老人の杞憂の類だ。
 番組から伝わってきたこととして、各地に独自の年代と結びついた化石出土の土地が地表面的に分布してそうで、しかも目というか勘というかが熟達した研究者はとにかくそこ、と目を付けた土地へ行けば、感じて見出して、更に、その貴重さ加減に応じてその機会に掘り出した方がいいかどうかの即断が可能っぽい。
 そういう達人研究者の大勢が、今時の恐竜研究をこなしている辺り。
 しかし、掘り出した骨化石を研究できる素材に処理するのに3年間かかるような指摘もあり、多くの知見が3年間の時差を伴って、今時の知見となっているリアルにも素人はふれることができたと思い込めたりもしている。
 つまりもっとヒト人口が増えて、その中からより多くが化石発掘研究に向かってくれると、多少は知見の積み上げが人生時間内での達成を早めてくれそうだな、とか勝手な想像も誘ってくれる。

 (今の中東域での出来事からも想像がつくように、(北米だと先住民が明確に住んでいるからわかりやすいけれど)旧勢力のメインストリームを追い払った後にできた地元新勢力すら追い払う勢いの)まったく新興の欧米人脈による世界秩序形成試行錯誤が同じ誤りの過程をたどりそうなことは、素人老人でさえ空想しやすくする。
 その欧米系新興勢力の発想が以前流行らせた南米、旧南北アメリカ事情についての歴史知見が、ヒトっぽいリアルにおいて考古学から修正をせまられてそうな辺りを紹介の一部にしていたAI技術(ディープラーニング=IBM社版)応用の事例としてのナスカ地上絵研究が解き明かすナスカ、アンデス地域の太古からの歴史解明が試行されている辺りをかなり丁寧な事例紹介とともに一般にかなりわかりやすくと素人は受け止めたが、番組化されていた。
 一例として、AIが探知した地上絵可能性ゆえの現発見済地上絵の数々を地図上にプロットして、それだけではなく、まさにデジタルデータ処理がおお得意のレイヤ重ね作業から直線の数々も地図上に置き、旧町(遺跡)、それらしい地形、自然地形などが重なった資料を研究者の関心から探索して、とうとう、一仮説として坂井氏は、文字言葉を一般にしていない集団の営みがどう考えを継承し続けてきたのかの継承の仕方についてのアイデア込で、そこまでの試行錯誤の膨大量をシンプルに整理されて番組の一コマとしている。
 しかも、地上絵がいかにだれでもそれなりの前提となる熟達を心身化できているなら簡単にやってのけられる辺りまで地元の農家の女子おふたりに演じてもらって紹介までしているから、もうわかりやすすぎるくらいだ。
 ヒトの脳の営みが身につかせる能力は、列島でもおなじみで、まっすぐに田植えできてしまえることのとっかかりの面倒くささがまったくなくなるくらい日常的技になってしまうことなど想像できれば、足りる。
 もちろん、更に工夫して紐(ひも)の類をつかって直線性に近づけたりもしたろうけれど、そうしなくても、距離を図るヒト身体ならではのやり方を心身化する熟練を人生時間内でこなしてしまえば、より多くにとっていつもの技の発揮でしかない出来事にしうるわけだ。
 驚くことに、ナスカの地上絵とともに首ミイラも沢山出ている。
 そして少なくとも呪術系トップ的位置のだれかの首らしいことが推測されていて、ではどうして?となるのだけど、その先はもう一つの仮説となる。
 北米がトンでも大津波を広大に経験させられていることは、北米発の考古知見としておなじみだけど、南米もそれなりに大水の災害と無縁ではなかったかも(とこれは素人考えを持ち出しているだけだけど)で、水利の不便なアンデス域において、農の営みは好い時もあれば過酷な時期にも遭遇するということから、自己犠牲の発想も生じたのか、坂井氏の仮説として、豊作祈願の自己犠牲儀式も行われたようだ。
 そういうのともまた考え方の伝承とも関連して地上絵ほかの遺跡が関連している。
 その営み発想の呪術系のいかにも旧態な辺りは、新知見(実験的、工学的暫定処理発想)によってかなりを克服可能だったろうと素人でも察知できるのだけど、宗教的思い込み過剰で圧し続けていた時期のヨーロッパ勢にとってはその先のことを考える余裕はなかったのか、新興勢力の勢いのまま旧メインストリームをほぼ説滅させて、新知見の側に一方的に落とし込むような策に走っている。
 だから未だに集団を上手にまとめあげる術を熟成できないでいる。
 力づくをちらつかせるとか、(テーブルゲーム的)権謀術数とかを噛ませて自分たちの優勢を保てることが秩序に貢献するとか勘違いに走りがちにしてしまう。
 とはいえ、地表面各地で、旧メインストリームの叡智を根絶やしにしまくって、集団リーダーが身に染みて(他者のせいにするよりも自己犠牲的に解決を目論むタイプとか)継承されて、見た目、集団がなんとか安定的に営みつづけられたりが観察できるような、しかも外部性を意識させるほかの集団の営みとの付き合い方すらが歴史的経験的にも知恵として心身化できている重層性すらも、ヒトの根絶やしとともに死滅させてきたのだから、地元の人々にとっては、一から出直しになるしかない地表面にすることに懸命になってきた欧米勢とも仮説的には見なせる、と素人老人は、大まかだけど押さえたくさせる。
 ヒトの集団的営みにおいては、一気に民主化理念的営みを持ち込めば、簡単に想像できるように議論噴出な事態か、無視の巷となって、まとまることもまとまりにくくするだけだったりする。
 そこで端折ってしまうが、今日のような代議制っぽいやり方をだましだまし民主主義とかと名乗らせて用いるのが精々だったりもする。
 ここらは、だからといってじゃやめて他のにしようぜ、という話を持ちかけているわけではない。拙速は禁物だ。
 現状の過不足をヒトの叡智が補っている、民主主義の代用の何かが、落ち着かせているわけではない辺りにより多くが気づいて、改良の地道な方向性で工夫を重ねられるかどうか、という方で受け止めてもらえると有難い。
 法治のこまごまな場で不都合も生じさせるけれど、そこはヒトの‟常識‟・日常的慣習上の知恵の応用が過度な反応系の悪循環へと向かわせない工夫にしてきている。
 その上で、だけど法治の大事な辺りを人々は認め合おうとしてきた。
 代議制の(民主化理念と対照させて)フィクションを冗談じゃない!と一刀両断しない受容、寛容な態度で応じて、これからもう少しヒトの集団性に適するように改良できないものか、と考える日々の余裕、安心などを想起している、と素人老人はヒトに信頼を寄せたくする。

 神、とか宗教とかのことばを用いてしまうと、早速(さっそく)欧米系の近現代化の過程で用意した用語辞典内での思考に誘いかねない辺りに気づきつつ、素人よりも遥かに博識で事情通で(手仕事分野も含めて)専門的な分野もお持ちの諸氏において、オルタナティヴな試行錯誤・思考の試行など余分に仕事にされてこなかったかもしれないが、ヒトの集団の営みにとっては、真理・実体に近づくないし認識に置ける思考分野と暫定出来でも再現可能性の確実性をめぐる思考分野(こちらは工学系とみなせる)とに気づけた大昔においてヒトの営みを二分割させかねないバイアスをもたらしてきたと想像しやすいけれど、それ以前から今ことばでは神や宗教やだけど、その昔はその両分野がまとまった辺りを思考してヒトの営みの確実さの手だてとしていたはずなのだ(と素人老人は仮説的に持ち出す)。 考古的にも一種職人系を含む専門家集団でもあり万能思考集団の性格を持ってそうだ。 それらが専門的に分化してし尽して欧米系発想がそうさせやすい組織化とかの具体像を生んでいるのが現地表面事情と素人老人は察する。
 ヒトの集団の営みにおいて、集団をおだやかに(究極の一方向としてたとえば内輪での殺し合い的内紛に持ち込まない)おさめて衣食住の継続性を保ちやすい心身状態を誘い続けるために、メカニズム的考察上でも未だ工学的詰めが大雑把過ぎた時期だと、自己犠牲的にはったり(自らを供儀として命を捧げる儀式イヴェントに身を晒(さら)す)を効かせないと、飢餓(きが)を生むような自然災害の状態について説得力ある集団の支え役をこなせなかった呪術系として尊敬される立場の人々ということが起こりえたと、勝手に素人老人的に想像したくなる。
 それをショッキングに見た後の時代の海外遠征組のヨーロッパ勢に同情できないわけではないが、その先のことはやり過ぎだ。新興勢力ゆえの知見の重層性の希薄を空想させる。
 他所との遭遇は、歓迎し合える場面、疑心暗鬼渦まく場面など色々に演出可能なことを映画の作り手たちが近年事としては紹介しまくってくれている。
 太古(氷期から間氷期の激動以来、縄文海進と海退の繰り返しの時期を迎えたころ辺り)以来、ヒトの集団の営みは今時の人々が気づけているように、協力し合えるごくまれな動物性を発揮してきた。
 けれども自然の過酷さ、地球がちっとも優しくないじゃん現象にさらされて、土地柄によっては乱暴な力で圧しまくる発想をつい発揮しがちな伝承をもたらしたりもしてしまった。
 ヒトは太古の混乱の最中、どう頼れるのか疑心暗鬼の中から、ブラックボックス試行の可能性に気づけた。そこに今でいう神の始原、宗教の始原を当てられそうだ。
 近現代化の発想がこびりつきすぎた神、宗教の概念を強引にとっばらってもらって、信頼の経路へ向けての摸索、試行錯誤が生んだ、ヒト観念ならではの工学的帰結、と見なせる方にバイアスを働かせてもらいたい。
 真理、実体は?という観念操作は今の人々も太古の人々も働かせてきたと想像して間違いはないと察するが、今の人々ほど多忙ではなかった時期のヒトの観念系ならば、真理、実体はともかく、と暫定的に信頼の置ける方法論思索へと自ら誘ったと(素人老人は)推測したい。
 ただ、真理・実体を思索する試行錯誤を怠けたタイプの浅薄な判断はもろ集団の営みの困難対処能力として露見してしまうから、そちら分野の思索に長ける連中も継承され続けてきたと想像しやすい。
 そこらの協業が乱れて、分化の方向性が顕著になるのは恐らく近現代発想の過程で、少し前ならホメオスタシス発想っぽい方で分かり合えることの方が大勢だったとこれも空想したい。
 細分に詰める思考も無駄ではないから、もともと補い合えるのに、そうしないことにした分岐点はいつごろからだろう?諸賢に、その帰結とか代替の可能性とか聞いてみたい気が(素人老人は)する。

 喜田氏知見としての既存の生命種群の中から選り分けがなされやすい、という結果的進化の過程に寄り添える考え癖を身につけることができるなら、地球生命起源後の進化の過程にもより寄り添いやすくしそうな辺りに近づく発想に基づいて、プラスチックのことを考慮するなら、食物連鎖についてもその発想の応用から押さえて、プラスチックのサイクルが地球生命群にどういう影響が及び、サイクルの途中でヒトにどう跳ね返ってくるのかをサイクルの図なりに落とし込んで明確に思考することができそうだ。
 ヒト観念はフランスのちょっとだけ昔の思想家のアイデア発信に待つまでもなく、心配事の要素を少なくしておく準備として、沢山作りって用意したくなる。
 そこで品々で溢(あふ)れた巷に誘いがちだ。工場経営の都合発想も関わって、相乗的に溢れさせがちにしてしまうのが産業革命後のテクノロジーの一面だ。
 溢れていた方が、万が一には役立ってしまう。
 コロナ騒動下、雇用と経営の継続を保ちやすくした土地柄での工夫の辺りは、今ではゆとりの方で振り返れるかもしれない、と素人は押さえる。
 万が一の為とは言えの辺りの規模が、とかく問題を誘いやすい。しかし、実情、相当に難問となりそうだ。(列島事情の場合だと、例年の局地水害が目立つ。それと産業事情のたまたまもたらす例年のニュースで知られる災害とか)
 極端な絶滅災害を考古知見は伝えてくれるようになった。
 だから似たような地表面的生き物があふれる姿に慣れているヒトというリアルにも気づかせる。
 でも驚きの生き物たちが絶滅したけれど生まれて育って世代を継承するようなことも長年月起こりえてきている。
 そういった見慣れない生き物たちの多くは、偶然的に生きづらい条件と遭遇して世代継承をなしえなかった。
 ということで地表面だけでも、かなりの雑多な生き物たちが暮らし続けられる条件だけは持ってそうだ。
 けれども、時間のいたずら性ゆえか、生き残って食物連鎖の貴重なありかたを応用しやすくしてくれているのはごく限られたサイクルだったりする。
 だから家畜的応用までヒト観念はなす。
 そして、デジタルデータ処理考古学でのように、地図上に分布をプロットして眺めることを可能にしている。そうやってマクロ感覚を今、呼び覚ましつつある。
 経済学でもマクロの方でしっかり押さえて・・・という思考・試行が地道に継承されてきているようだ。
 免疫という概念を使わないくても体の状態判断から免疫系に働きかけうる作用系の工学知見を精密にしてきた漢方系発想が、地表面各地の薬業界を活性化できるなら、コロナ騒動でのワクチン生産以前に体の耐性ということで、相当に騒がずの貢献がヒトの集団の営みの試行錯誤の一例として残し得たとも、素人老人SF的には指摘したくさせる。

 

   川柳もどき

    江戸期の地図測量の達人も、アンデスの太古から今に至る
     畑仕事の女子たちも
      足(+視覚+大声)で測量をこなして
       だからというか
        魏志倭人伝が伝える倭とか半島、中国でも多分、足‟も"
         相当に活躍(それもかなり精確に)してたんだろうな
    と初夢じゃないが夢想する、ね