連載は続く~SF掌編『暑くてショーがないけれど、とにかく今どきの話題だ』編


 近現代試行錯誤の中で比較的最近の懸案は、ある程度の共存志向が芽生え、それを一応共有させたいという思惑は生じさせていても、たとえばネオナチと決めつけうるタイプの排他性の濃い思惑で集団形成を図ってそれなりの政治勢力となりつつあるかもの動きへ、どう関与しうるのか、という辺りなことは、事あるごとにマスメディアにおいても識者諸氏の見解として結構紹介されてきている。
 国連をどうするかということとも絡めての話だろうし、超大国がどう引き受けるのかという話でもあるだろうし、けれども近現代の試行錯誤はそれなりの法治に向けた考え方を示しもしてきたため、それがいい意味で足枷となって、メインストリーム側の暴走を避けさせる一方で、危ない勢力の局地を放置させがちにする。
 危ないか危なくないかの見極めとか基準めいた内容は、恣意的な政治が働くと、せっかくの近現代試行錯誤も台無しになりかねないので、建前上、慎重に映るような対応が先行する。
 とにかく近現代試行錯誤の過程では、ある程度の試行を経れば、結局、包摂のあり方に落ち着くと考え方ということでは収れんしやすいようだ。
 だからイデオロギーを持ち出してその考え方で集団形成した政党というのが少しずつ旧態扱いされやすくするだろうくらいの予想はつく。
 民主主義か共和主義かという対立軸での政争はありそうにない。
 巷での棲み分けは不都合を生じさせやすい。個々の家庭における基本条件としての流儀に関わる試行錯誤はお互い様として容認し合える。包摂的に把握できる。
 けれども、どうしても自分たち流に固執する勢力形成も限定的に起こりうる。
 その人たちのリーダー層がその頑固に固執しただれかだと、相反する他という対他の関係で他との関係をつい想起してしまうかもしれないけれど、大抵の場合、集団をまとめる際での様々な性質の構成員という体験が、いつでも色々な要素を束ねる難しさとやりがいのようなところでちょっとした落ち着きを得ていそうだ。
 究極、排他性を追求するタイプの集団形成以外の集団の営み試行においては、少なくとも棲み分け可能な辺りを十分にお互い模索し合える相手たちに当たる。
 そして政治家諸氏も、そういった様々な試行錯誤をいかに包摂して相互触発的な関係性と保ちつつ、それら同じ集団形成の構成員としての安寧とかを得られて、というような、
事態へと誘えるような実力を日々鍛えながら、投票系の支持を得られるような活動に勤(いそ)しめる。
 だから卑近の例については、ネオナチを動員して政治に使ってしまったUS国際的諜報利害が大本の原因とみなせそうに素人はずっと想定している。
 しかも局地戦争へと誘う国際政治活動を働かせ続けてもいた(ここらは又様々な文脈を持ち出せそうなので、同一に論じるだけではまずそうだ)。
 その後に今日の極端な物価高を生じるような事態を招いている。ここらを押さえておきたい。
 「勢いづいた"インフレ"が進行している」というタイプの表現がマスメディアにおいて撒かれている。ここらは素人老人からすると、どうした?!と一瞬、ごく一瞬だけど、(相当な老人、ということで認識の方も、身体的反応の方もそれなりに時差を生じさせやすいにも関わらず)立ち止まらせる。
 出回っているお金は20世紀末から21世紀の現在にかけて膨大になってしまった。
 事情通諸氏がシンプルに総量の辺りを紹介していただけるとありがたい。
 しかも貯め込めうるだれかたちは非常に限定的で、ごくコンマのコンマのコンマの数%の諸氏が小国並みかそれ以上を保有しているという話が普通にニュースになる。
 とりあえず流れている総額は相当規模だとして、それらが、生産量に限りのある日常必需品に向かって、殺到状態で、作っても作っても足りなくて、結果、物価が高騰(こうとう)している、ということでのインフレ表現ではないことは、巷のだれもが、マスメディア(*1)の発達している土地柄の多くがご存じだ。
 今どきの物価高は、列島ならば、ガソリン価格が上昇して、運賃負担が馬鹿にならないためにそれを商品の売値に転嫁(てんか)するという形で出発している。
 なぜガソリン価格だけが妙に上昇することになったのか?
 実はガソリンだけではなくて、原油流通と関わる諸分野に物価上昇の連鎖がありうるような、原油高というタイプの事情が起こっていた。それはなぜだったのか?
 USはものによって使い分けてはしているのだけど、基本的な表現型としては教条的なまでの市場任せで放置される。経済活動に限らず、市場任せの発想を応用しがちにする。
 自国に限った試行錯誤にしておいてくれるなら参考にしてみるか、との発想も他所に生じさせるかもしれないけれど、同じやり方で超大国の真似をしてね、となるとそれは無茶だ。
 その教条の一面だけ利用させてもらって、良品質の色々を市場にさらして、それなりの利便を生じさせてきているけれど、市場占有に行きつく教条的市場ルールでの競争に利益を上げられるか上げられないかしかない、ような焦点に誘うタイプのけしかけだと、ろくでもない質の商品が市場を勝ち抜いて、他(様々な必要に適時応じていくような生産活動)の出る芽を摘むような事態を招きやすい(包含する理念のことを省いて、形だけを問題にした場合、大量に簡単に作れる消費材で我慢しなさいを、理想的な勘違いとともに普及にまい進させがちだ)。ところがこの趨勢は莫大なエネルギー消費とともにありうる姿だったことが今なら鮮明だ。
 だれもが自前で衣食住の多くをまかなえる技能を日々培って生活を保てる世の中ならば、かなりのエネルギーが結果的に節約できてしまう。
 個々の場での無駄の集積が生じて、実際は逆じゃないの?との問いが生じそうだけど、そういった大量生産品を利用する人々に限っての話としてなら、自前で充足した食生活が可能になるのと同等の内容を外食で達成するには、それ以上の費用が生じてしまうし、廃棄の問題は未だに膨大量だ。各家庭でもそうじゃないの?・・ここらは各家庭規模での解決策は見出しやすい、の答え方で十分そうだ。
 万が一の災害時に、自前の技能を持っているなら、なんとかなる。
 一定期間無料配達して大量販売品を食料に、というやり方もありうるけれど、食べる側にとって長続きしないはずだ。(またこれ?!・・・現象)

 金利の水準は世の中の経済活動にとって一種の環境になる。
 だから急激に変化すると、その際、混乱は必ず生じる。
 そして徐々にその変化した水準に活動系は慣れていく。
 超大国としてのUSの位置を認め合う諸国は、だからか、今どきのインフレということばの氾濫現象を共有するようにしていて、もともと流通通貨量の膨大量にも関わらずハイパーインフレを制御してきていて、そのメカの方からではなく、物価上昇が生じていると明確であるにもかかわらず、金利水準をお付き合いでいじくっている。
 列島での高度成長の経験を体で思えている識者が未だ大勢いれくれる時期だからこそ、金利の水準を上昇に向けさせて、それなりの預金の利息を得られるとか、賃金が上昇するとかはただそれだけでは済まなくて、直ぐに巷の商品価格は上昇して、だからまた物価スライドとかで賃金を上げて、手間賃も上がって、タクシー代も上がって、順繰りがお決まりのサイクルとなって、気付いてみれば、ただバブル現象を人為的に起こしていただけじゃんとなって、それなら思い切ってと釣りあげて、それなりの好景気を体験した限られた世代以外は、その後、深刻な世の中を生きることになってしまう。
 そういうことを繰り返すだけなことを想定できるにも関わらず、共犯者をほしがる、妙案の提出勢力がまたもややんやと金利水準を上げろ、賃金が上がってないぞ、不満はないのかとそれなりにけしかけ続ける。でも列島はそれで大変な世代を生じさせて、未だにご苦労なことになっている。経済の学をもう少しだけ大事にしておく必要を指摘できる。
 金利の一定水準は確かに利息を生じさせて、錯覚だけど好循環を生む。
 公社や公共事業を工夫出来たり、累進課税の機能しやすいタイプを設置できていると、資金の運用や返りを損なうことを未然に防ぐとかを試行しやすいし、有効需要めがけて"ばっちし"バラまいた資金も、たっぷり設けたところから累進課税ゆえに自動的に税収に"帰"ってくる。うまいことビルトインされていたりする。
 その手の工夫を付き合い上、手放ししまった後ということはあるけれど、それらも含めての高度成長期だったのだから、どうせならオルタナティヴにむけた作り直しという手もありうる。
 世界の生活の底上げということの試練に向けた金融の営み依存というなにがしを超大国の試行錯誤に素人老人は見てしまうけれど、その手法部分の膨らませ方で良かったのかどうか。
 それと終わらせるにしろ、継続するにしろ金利水準は環境だから激変は禁物で時間が慣れさせるし、低金利で頑張れるところを端折って、利息にほくほくできるかもの金利水準でバブルを演出するのかどうかも、列島の事例の顛末を参考にできる。

(*1)
 自民党は実験をこの数十年、何度かこなしてきた。
 小泉政権では、多要素の自民党であるよりも似たイデオロギー集団っぽくした時にどうなるかを試した。
 安倍政権では、官邸の指図でどこまで組織を動かせるかを試した。
 それぞれ、成功して、それではまずい面が相当にあるということを、世の知見に知らしめた。
 マスメディアはそれらの現象を後追い的にしか巷に伝達してくれない。そういう性質を持ってそうだ、という辺りを視聴者へ向けて発信している段階のようだ。
 日銀の金利の件ならば、伊東氏が問題にした時期にメジャーな論としてマスメディアがにぎわしたわけではなかった。マスメディアの限界という言い方は相応しくないというメディアの論を持つ素人なので、現状のマスメディア(膨大資金の巡回先仮説をその昔指摘していたのもこの素人老人だ。ただ色々な働きを含ませているはずで、善悪で端折った話にしてはまずいと察する)はマクルーハン氏指摘するところの色々な意見がパッチワークのようにちりばめる職業柄の工夫を成しつつも、なんらか趨勢も誘う働きをうっかり成してしまう媒体ということで、働く諸氏が、給料の多い少ないに関わらずニヒルに陥らないだけのしぶとさが求められる職場だな、とこれはシロウト想像。