連載は続く~SF掌編『介護への応援その続編』編


グローバル環境下での介護現場に向けても介護の技量系青山流を紹介できる。
NHKEテレ放送済でお馴染みだったはずなので、そんなの知ってるよ。の反応あり?かどうか。
担いだり、結構ちから?要るんでしょ!なんていうカン違い反応も出てきそうだ。
しかし、こんな言い方もできる。
前回9割以上の列島在住諸氏において、いざ介護をすればヤバイことをやりかねないんだ。それくらいの介護ってのは質が独自だ。そしてできれば、それくらい諸氏においてコロナ騒動とは違う意味で、心配してもらいたくなる。
口に出しにくい関係性も生じかねないのだ。そうなると自ら問題を捉えて改良して・・というプロセスに導きにくくしてしまう。
どうせ自分はろくなことしてこなかったのだから、大した介護を求めちゃいない、よぉーだ。とかうそぶくのは勝手だけど、他人に手を貸す段でヤバイ、わけだから・・・。
自分がどうこうじゃなくて、ちょっとばかり恩返し、とか思って相手を介護しつつヤバいことになりがちにする。そういう難しさを指摘している。
答えるどころか仇として返すようなことになりかねない辺り。そぉして晩年を。自らの晩年を迎えることになる。
施設介護では様々な人生をやりぬいてきて途中っぽい諸氏がほとんどだ。
だけどここらは想像に過ぎないけれど、たとえば自分は熱心に或る宗派の教えを布教することに人生を傾けてきた。そして翻って、良いことをしてきたな、と思っているのに、なに!?これ、この介護・・・、ヒドイ、もっと私の話に耳を貸すことくらいできないの?酷いわよ。こんなことくらいもできないの、それに、私と同じことをやっている方もいらっしゃるんでしょ。なのに、これ?!
それくらい、生き方も、信心の内容も、マッチョかスリムか、も、性格が穏やかとか激しいとかもまったく当てにならないのという認識と介護をする側をどう形成させていたのかの関わり要因ということにふと気付かせる。
で世代的なものが、我慢と諦めを生じさせやすいから表ざたになりにくいだけ。
これからは、世評の通りで、じゃんじゃん、その現場でもろ噴出してくる。
これまでは、我慢の末だからご家族が下手すればモンスター扱いになりかねなかった。
これからは、適時、ご本人が発信しはじめるだろうから、そうはならないで済む。
ただ妙な勘繰りから表にしにくい”体制”を介護の業の方で過剰に”敷設”してしまう場合、過渡期の現象くらいは生じさせるかもしれない。
文句がでたから即改善できるわけではない。改善案と試行錯誤は様々に生じても、肝心のところを押さえない限り、ちょっとばかりの改良という意味ででも上手くいかない。
そこへ、素人に近いやっと10年の介護職が参考用に書き込んでいるところ。
結果個々性尊重に繋がる、相手の話に時間をかけて要望をしっかり理解して介護の日常性の中で整理もする(介護を受ける諸氏における利害とかのこんがらかるような現実も並行しやすい)。調整が個々性の尊厳尊重から外れない工夫が専門職性の見せどころ。
当然それだけでは足りなくて、技量が必須。それで具体化する。
その一つとして青山流があり、きっとNHKの職員の多くが視聴していたはずで、聞くだけではなく、見た諸氏なら、ということで、9割以上がヤバイ確率観点からNHKは半分以上が視聴、その8割は見ていた、となれば、生涯を共にしたいどなたか諸氏においては相手を見つけるなら、NHK職員の中からという選択もありうるわけだ。
青山流の良いところは、ボディメカニクスが様々な体形に出くわして応用発想にはちと足りないそうだ、という場面をたちまち経験しかねないし、逆に軽々とできることに誘うから、早くこなして休み時間を得ようタイプからは、それでGの大判振る舞いタイプの介護に誘いかねなかったりする。
そこを、学ぶときにもそうなんだけど、青山流は重要な技においては何段か技を重ねていくタイプなので、自ずと急ぐわけにはいかないようにできている。
そしてもっと重要なのが、なぜグローバル環境に適用できるかと関わる。
相手がかなりの重さで、巨大さで、足が使えないかも、という切羽詰まるような条件であっても、介護の側の身体がその相手の中に埋(うず)まってしまうくらいの差でもない限り(巨大過ぎの場合は無理です。青山氏ご自身だったらきっとそこでも即席に工夫してしまうでしょう)、自らの負担感をかなり軽減できたうえ、相手への負荷も多少窮屈感を伴わせる体形の諸氏もおありかもしれないけれど(ないし介護する側の体形も作用するしで中肉中背タイプの多い列島やアジア・中東・南欧・南米・各地の先住民系はこの時期に限ってはラッキーだ)、順を追って、相手がしっかり確保されて動き出せば、(介護される側=相手の)心配感も解消できて、すんなり移動・移乗が可能となる。
力を持て余すくらいの諸氏がグローバル環境においては大勢いらっしゃるはずで、その力を相手へのG負荷を厳密に意識できたうえで使いこなせるならば、どちらにとっても介護に適切な対処が可能となりうる、ということくらいは指摘できる。
もう一つ、糞まみれ、尿まみれのこと。
実際の現場では、こういうことは気を付けていても起こる。
経験とかその具体的な付き合いの過程で、くせが熟知されていれば、ある程度は避けることが可能。
でもそうなる。その場合に、えっ、糞、尿!なんていう反応の僅かでも心身表現として出してしまうと我慢の世代にとっては心身深刻度は相当なことになる。これからの率直・素直表現型タイプたちが多勢の環境ではまた違ってくるけれど。
そこは、だから、少なくとも顔に出してはダメだし、雑談とか作業の順をことばにして投げ掛けつつの経過を取れるように慣れておくと相手を傷つけずに済ませる。
それでも我慢世代諸氏は”済まないね”みたいな心身反応を生じさせやすい。
介護現場の一面の過酷さの中で助け合っている仲間的関係性をそこそこ意識し合えるような状態に日々積み重ねで持って行けていれば、またそういう反応のなにがしかは抑止できるようになる。一応、委ねてくれる。でも雑談とか手順(次どこそこに触れるから・・とかの類)についての声かけを途切らせないようにして、日々性を保つ工夫は省(はぶ)けない。
間違ってG負荷を与えようものなら、折角の日々は台無しになる。裏切られた感を与えて、年寄りの心身はがらっと元気を無くしたように変化してしまう。
G負荷を与える介護仕事をこなして業務を”てきぱき”こなして余裕のある職場は、お年寄りの元気度合いを観察すればすぐにわかる。ここは危ない、他を探そう、というヒントにできる。
業者というよりは現場の構成メンバー次第の要素が働きやすいから、そこらはこまめに熱心に、同じところを時期をランダムに計画的にずらして検証できた方が良いところを見つけやすくする、と素人はヒント発信してみたい。
話が脇道に逸(そ)れていた。
グローバル環境下での一応3つほど習得できればそれなりに介護の質を、ヤバいことをしかねない9割以上の諸氏においても改良は可能になるあたりをふれてみた。