連載は続く~ SF 掌編『介護現場への応援の仕方は難しい』編


急かされるような、急かしてしまうような、そんな世の中進行中でしょうが、ちょっと落ち着いた感じ語ってくれている知識系発信を一つ。
「ウイルスについて」と題してのお話。語り手は中村桂子氏。


ところで、業務をこなすことは日々忙しなくさせる。
かといって一工夫でかなりの改良・改善も可能だったりは、そうなってみてハッキリする。未然のままだと、改良なんてありえないとか色々がわだかまりがち。
しかも多くの現場ではそういう惰性が最善の状態で手の施しようは無いかも・・と思惑が渦巻いているのが現状では。
けれども、そういうことへの改良慣れした大人たちから偶然学べるような観察の位置を経て育つタイプたちにとっては効率的な編成変えはお手の物だったりする。
忖度上手で近づきすぎてもいけない。学び損ねやすい。
ちょっと距離を置けて、しかも密着できているタイプ、でないと難しい。
そういう年月がいつのまにか一見直感のように、一緒の人々を見続けて、この仕事にのある時間帯での業務に関してなら、どの面子が関われるのかとか算段して、ささっと仕事の段取りや配置などを上手に割り当ててしまう。これまでできてこなかったのだから、一見理解を超えてしまう案として出てしまう。そんなんで、できないよ、とか、無理でしょとか、煩いこと言わないでいつも道理やってね、とかの話で集約されがちになる。
たまたま面子の中に、日ごろの忙しさをなんとか回避できるならとずっと期待してきたタイプ諸氏や、ちょっと仲間内とは距離をおいたすねたり系タイプ諸氏やが混じっていて、それでも、提案の主に対してはそう反感を持つことの無い諸氏たちであると、意外に、素直な方で受け止めて、試してもいいんじゃないとなることもある。もし、そういうことになれば、結果で証明される。
上手くいくじゃない!
で、結果的に、政治的にせっかく工夫して有意な立場を得ていた限られただれかたちにとっては、不都合な空気が流れてしまう。
そこを提案の主も含め、日ごろ、大した工夫もなく忙しくさせることしかできない現場のリーダー層であっても、残業とか臨時の出勤とかを厭(いと)わない働き者の面を認識しているから、いたずらに貶めるようなムードにはしたくないよな、という気持ちの作用を行き交わす。
でも事実は事実として、リーダーたちにはぐさっとならざるをない。
でも多くの本当に、多くの現場でこの手の改良が成されないまま、日々多忙だったりしてきたわけだ。列島中で。
だから時にはこういうことも起こったりする。
そういう難しさを指摘できる。
傷つけるわけには行かないけれど、放っておいても、改良はちっとも進まない。
しかも!この種の改良技は下手すると、悪用っぽく採用されて、時間内仕事密度をより高めて、目標までいじくって、成果はそこまでしなきゃ駄目だよ、ぽい方で応用されかねなかったりする。
そうなると迂闊に提案もできない。折角、余裕を生むための効率とか円滑さを持ち込めるようにしたのに、かえってぎゅうぎゅうの方で使われかねないのだ。
だから提案する方も、積極的にはそうしなくなるし、こっそり、いざという時にだけ行使して、理解が届かない場合も多いから、説明して納得してもらう時間があれば仕事仕事の忙しい現場では、じゃ、いつもの通りでにしがち、と察する。


ルーサー刑事からすると、ないし公務員の突き詰めたような質問なり愚痴を聞かされたデンゼルワシントン氏演じる元凄腕諜報員とかからすると、殺人狂時代の主役を演じたチャップリン氏の哲学はとんでも、ということになる。
やってること自体に問いがきちっと帰るようにしてやらないと、問題がはぐらかされかねない。
同じ殺しなのだから、戦争も罰せられねばならない。それは当然だろうけれど、でも、それを言う立場が既に問題だ、という段取りにもしてはまずい辺りに気づけないと、ルーサー刑事の並行処理のデカ仕事一筋人生に答えられない。
一方で他人の人生をなんとか救おうとして、一方で事件を追い、しかも内部関係者から疑惑を持たれて、手法の揚げ足取りを絶えず仕掛けられる。
施設介護現場も、並行的仕事環境に近くて、仕事を見渡せる諸氏においてはルーサー刑事と似たもめごとに巻き込まれやすいし、それをベテラン諸氏はお互い承知しているから揚げ足取りなどもってのほか、仕事の邪魔をしないように、助け合ったりするものだ。
一日の終わりでつじつまが合うように、駆け回る(駆けてはまずい現場なので、忙しい例えですけど)。ルーサー刑事も、一つ一つ片付けながら、最終的に結果オーライで肩の荷を降ろす。
ところが、半端物系は、仕事も見渡せないから、そくすきを見て息抜きしたりが平気だったりして、その無駄な時間であることも気づけない熟練度だから、他人の粗はだれでも簡単に見つけられるということで、自分で気づけない粗だらけを棚上げして、矢鱈と忙しく働く現場通諸氏へ噂攻撃や上司への告げ口やで仕事の邪魔をしがちにする。ただ仕事を見渡せrう諸氏においては、その指摘する未熟系の粗が見え透いているし、仕事でとにかく忙しいのだから、無駄な事に時間を咲くことはしないで済ませられる。痛くもかゆくも無い。ただし!そういう介護の現場の多忙さと必要な動きを承知しない人々によって人事についてとやかく言及されるとなると、放っておけばそれが続いてしまうので不都合になる。
第一、急がしい現場のはずが、業務を終わったことにして(見た目、仕事を早めにこなして、それで息抜きしているように見える)、自主的中休憩を取っているから、年寄り連中にとっては、それの一年分の積み重ねが積年となって現場に表現されだす。ま、そうなってくると訪問客も可笑しいかな、ここ、とか感じやすくなるので、さすがの事務系管理職層も黙ってはいない。だからもう少し手前のところで制御は効きやすいかもしれない。
どういう働き方をしているだれかからどういう言質を得るか、ということを検証しないと、なかなか施設介護の現場を知ることは出来ない。経営層だって今時はかなり熱心になるようになった。でも現場の人脈はかつての3K職場同様になんから知る人は知っているのかもしれないけれど特定人脈が牛耳ってそうで、年寄りをかばうよりは、働くほうの仲間をかばいあって、現場改良が人事の新陳代謝へは結びつきにくい。人脈の上層で改良発想が起これば一番、列島のお年寄りには好都合だ。
大人年齢諸氏がお互い働く施設介護の現場だから、お年寄り個々を尊重するように仕事仲間個々も尊重する姿勢がまず先にたつ。そこが落とし穴となって、個々を個々として尊重するのとは異なる強引な介護を普段の巷の姿ではしないようなことをしでかし始めるだれかたちを、ベテラン諸氏が多い現場なら、数で工夫してなんとかできるけれど、そうでない現場では尊重とか忖度の類が作用して、それぞれのやり方だから、で流されがちにして、お年寄りにとって不都合なことになりがちにする。
それは様々に現れるので、経営の論として、より事情通で整理できている諸氏が今でも発信し続ける必要がありそうだ。


ところで、認知症症状について、参考にしてもらえれば、で一つ。
以前、ちらっとふれたことのある方のケース。
だれからも重度の認知症。忘却系。として、見なされそうなタイプの方。
時々視線を合わせることもあるけれど大抵は何をかんがえているものやら、っぽく映るしぐさが目立つ。
やや(拘縮っぽく)硬くしまった感じの足腰ゆえ、歩いて移動できる。
だから方向転換の動作はバランスを崩しやすい。
積極的に語る時は、単語として発音することができない。単語を押しつぶしたような、端折ったような発音にしがち。早口が加速してしまうようなボソボソことば。
そんな氏ではあるけれど、たまたまゆったり、他からベースを邪魔されること無く、語りだすようなとき、・・・(語尾に)なんさぁ・・的、ある地方言葉独特の言い回しで、単語もまとまった感じで視線を投げかけながら話し出す。その体の状態を保持できて続けられるならば、更にと思えるけれど、ちょっとでも気が散るようなきっかけが介在してしまうと、語りかけは止まって、自分と会話しているようないつもの氏の姿に戻ってしまう。
認知症症状でアルツハイマー系とかでざっくりくくられる重い症状の人々に感じることは、防御のための殻への閉じこもり症状。警戒して身を引き締めている。ところがなんらかゆるくゆるくなれるリズムを得て、しばらくして、ふと、かつての自分の一面が表現するようになって、そのままその状態を保てればひょっとしたら出したくない殻に閉じ込めることで防御できていた自分をさらしてしまうのでは、と思えるほどだ。
その殻へと至る数段階くらいは想像できそうだ。
色々煩く指示されてその代わり自分の言い分が通りにくい日々を過ごし、これが介護生活下か家族や親族との生活下で形成されたかは人それぞれだ。そうやっていくうちに、反抗的にことばが出る時期も通過する。そこでの反応も殻へと向かわせるもう一つの作用となりうる。
まったく聞いてもらえない。変人扱いに近い。しかも自分でも不本意に失敗続きだ。失敗してしまうけれど自分だけなら、失敗をおぎないながらなんとかできるけれど、その失敗をただ一方的に責められるだけの生活にはうんざりだ。そして耳をふさぐようにもなる。外的力の行使へも無感覚を心身の方で準備し始める。
だから脳血管系でどうしょもなく、不可逆的に認知症状を深化させてしまう諸氏の苦悩とは別のタイプがかなり大勢いらっしゃる可能性を指摘できる。
こちらも忘却の彼方と表現ではしがちになる。意識的になるほどそうなりやすい。でもふとしたときに、かつての能力ですらすらとまではいかないけれど、口とかの動きのスムーズさの度合いに応じた表現はできてしまう。決して、単語を忘れたわけではなかった。発音を忘れたわけではなかった。でもいざ意識的に語ろうとするともう引き出しはどこだっけ?となってしまう。
更には、普段の意識的な心身の位置は、忘却系をより深化させかねない。そういう趨勢に置かれている。
だからたとえば薬が効いてしまう、ということだって充分に起こりうる。なんらかのきっかけを提供しているわけだ。
個々尊重の大前提を置ける介護により近づけられれば、どうってことない事態のはずだけど、今はその先の症状を呈した諸氏が沢山いらっしゃる。
そして、惰性のままだと、そのあたたたちのほとんどが、そうなる可能性を秘めさせている。(端折って詳細な紹介とはなっていませんが、要所から推し量っていただければ)

コロナ騒動(一面で年寄りが感染しないようにのムードを形成したので)が明けて、年寄りへも自分と同じ程度にお互い様意識で対してもらえるようになれば、大局が目指しているところへ現場も近づくようになるとか期待できる。