連載は続く~SF掌編『梅雨、時々台風な日々』編




私:テレヴィの画面が目に入りやすい状態になっていると、たとえばそれがオンになっていたりしたら、ついついながらにしがち・・・ってことに、改めて気付いた、この一、二週間だったような。
君:私も、どちらかというとながら、してしまう、わ、よ。
私:ここらは、さ、その昔、から事情を考えてきた人たちにとって、のっぴきならない問題になっていた、と思い返せる。
君:のっぴきならない?意味?
私:結構、引くに引けないというか、重たいというか、そのニュアンスで括れそうな、深刻度合を感じてもらえると、近い。だから子供たちに、時間を区切って、テレヴィを見ることを許すとか相当な工夫の試行錯誤をしてきてる。だいたい、見なければ見ないで実は済ませられたりする。にも拘わらず、画面に映像が映ってたりすると、ついつい、っていう、どういうのか不思議なことになってしまいがち。
君:抗いきれなくて?散々、見てたわけ、でしょ。そういうことでしょ。
私:実は・・・。
君:はいはい、話が長くなりそう、ね。どうぞぉ。


社会工学パスカルの原理応用面からすると、テレヴィ媒体を知ってしまった以上、それがラジオよりも啓蒙にとって都合がいい時もあるけれど、ながらで惹き付けてしまうことの不都合も顕著。ただし、業界は手を抜けない。関係者といってしまえばそのすそ野は膨大。そして分野を活性させ続けないと、隙が生じる。啓蒙勢力にとって、大変な急所を抱えてしまった格好と見なせるのかも。ただし、ブロードキャストだから。あくまでも。作り手諸氏にとっても啓蒙発想からして制約だらけの媒体には違いない。インターネットも、じゃ、どうなの?ってことになるけれど、ネットをとにかく体を使って普及させてきたひょっとしたらUNIXネットワークのある種のユートピア感をかろうじて持ちこたえている人々かもしれないけれど、その基礎を踏まえて、ということになるけれど、自動車にネット端末が積まれて、どの地の天気状態すら同時性で感知できるような発想を実際に使いたくなってしまうタイプたちであることは周知だ。そこをネットについての危険の方から接近することは実に簡単だけど、それで全体像をつかめるわけではない。意欲を支える、必要ななにがしについて考えついて、そこらをめぐって意欲がどう絡みあえるかの視点で、事態を把握していかないと、監視か自由かの明確な割り切りが実際には持ち込めない場面にそれを思い詰めて持ち込んで、お互いに問題にし合う間違いを生じさせないとも限らない。具体的にそれをした時に、何が起こり得て、でもそれをした方の便益も計り知れないとしたら、やり方に発明発見を探るというヒトならではの作業を生じさせうる。テレヴィドラマの時代劇を見てると、介入したい有力者が今、この瞬間に何を求めているのかを知っているか知っていないかで、近づける可能性が揺れる。現に近いところにいても必要を充たせない条件のだれかよりは、満たせる力量を提示できる誰かの方がその先の近づけるだれかになりうる。そういう情報の持つ性質を一つ想起できる。近い友達、知人から近づいて、本当に近づく必要のあるだれかに最終的に近づくとかの手法も、想起しやすい。とじ込みる必要はないけれど、プライバシーについての感覚というのは、近代とか啓蒙が働く世の中にとってはそれなりに信頼の拠り所とも言えそう。だし、何かしら未然に防ぐということで情報収集している流れにとっては不都合にも働く。具体的なせめぎあいの中で、実際的な解決を試す、というのが今流。世の中、心配事で溢れている。だからって仕事してて、定時の時間割で動く年代ならともかく、年中日曜のような境遇になったなら、それなりに気長に暮らせそうと、つい思いたくなる。ところが、介護職やってて、気づけることは、寝られなくなってるお年寄りたちの実に多いこと。寝れるきっかけをこだわりなく受け入れられた時はぐっすりだから、寝られないわけではないけれど、覚醒時になにかしらこだわりが抜けないままになってしまうみたいで、寝られない人生をかこっている錯覚に陥っている。でもう人生のその先はそういう状態で病気っぽいまま。既に半身マヒになるような脳血管系の契機を引き受けたような方々も目立つ。糖尿病体質の方々も寝てないことは似ているし、糖質制限食の療法は、特例でしかない世の中のままだから、当たり前に糖尿病体質の方々が簡単に症状を軽い状態に保って余生を送れるっていう感じでもない。そして炭水化物を食べるから眠くなる。でも定時の寝る時刻になると眠れないと思い込んでしまう。解決法はだから本流のところで整理してくれて制度に持ってきてくれれば、多くに恩恵は注ぐ。そうなれば自分よりは遥かに若い連中をかまって気を紛らわす度合よりは生活をそういった連中に規制されてストレスをためる方の度合がより大きくなりがちな介護頼りの生活ではないオルタナティヴを試しやすくする。多少体がボロボロでもかつての過疎地の高齢者一人暮らし系のような”格闘”生活くらいは可能になっている。市民社会の側もなにかしてないと文句を言われる、税金ドロボーとかの類でね、それを心配して、おせっかい過剰に介入してしまうかもしれない。そこは高齢者一人暮らし系な諸氏が、もう少しだけ放っておいてね、くらいは指示していいんじゃないか。大変な時はちゃっかり助けてもらえばいい。リアルにはウソを熟知して、しかも演出にもこだわりない介護のオルタナティヴを試行されている高口氏のようなタイプがもっと大勢いてくれればいいけれど、ウソを建前上認めないかたくなな諸氏もたくさんいるはずで、そうなると更に十把一絡げの集団扱いに介護職の側が誘われがちになる。個別性が大変なことは人手と直結しているからだれだって気付けるけれど、だからって集団扱いの大儀にしてしまうことは極端すぎる。その極端が通りやすい現場かどうかも判断基準にできる。
半身マヒに誘うような仕事を強いる世の中という問題。~安保氏ほか多くの専門家が問題視してきたことだ。骨休み論というオルタナティヴも見聞できている。
現役の頃から食内容と生活内容から糖尿病体質や高血圧体質、どちらもある生活状態の表現型と思える。この流れにも掉さす必要を安保氏はずっと指摘されていた。
それらを抱えたまま老年期に入った人々はとことん、最悪の人生と接近しやすい状態でやりくりするはめになりがちだ。心配の種は尽きず、寝られない、一人での身勝手ができにくくなって発散の機会すら持ちにくくなっていたり。将来を暗く思い込みがちにして、それが更に体をむしばむ。ここらは孤立しても過疎の地で自力で生きようとしてしまう老人たちの生きざまと対極のように映る。
そしてたとえば糖尿病体質になりがちな諸氏には糖質制限食時療法という実績があるのに、それが普及して、対症療法的な解決を遠ざけられたままにしがちな不幸を列島では経験中だったりする。食べてカロリーを得て、しかも糖尿病体質を遠ざけておける余生とはなりにくいままにしている。だから脳を直撃してぼけっぽくしてしまう。ここらは現代医療・生理知見から知れていることだ。インスリン作用の含みだ。
建物の工夫だってもうとっくの前から当たり前になってそうなものだけど、今でも転べば老人にとっては大変なことになりやすい床面材質が幅を効かせている。ユニバーサル発想は日常生活の利便性からして、のはずだから、単に年寄りのための床材とかの発想ではありえない。そこらを若者に金をまくか年寄りに金をまくかのような利害対立にしたがる弁証法頭が邪魔していないかどうか。
UNIXなやつらはとっくの昔からグローバル発想だった(どういう風に?!)。そのグローバルが偏って浸食された事実も経験した。しかも肉付けして実際的に揺れ動く中で、どう可能かなどは、これからもずっと試され続ける。
或る意味、差異ねらいのぼろ儲けが不可能な程度のグローバル状態と想起させる。そうなると、低賃金はどの地でももろに生活苦に直結しかねない。そういうニュアンスで少し、わかってもらえそうだ。
モノとおカネが動き回っていればそれで経済メカニズム上はオーケー、という割り切りすぎは何か考えたらずないし、実際的ではない、というこちらのニュアンスも感じてもらえるとありがたい。しかも、余計なお世話よりは個々の生活試行錯誤を大切にし合えるおたがいさまが下支えしている状態がより相応しい。といって、既に、試行錯誤の余地をとことん制限した上での啓蒙、近代試行錯誤路線を走っている。ここらは、歴史性ということで、成果も味わいつつ、制約についても謙虚に検討できることが不可欠、程度には踏まえておきたい。
モバイル系は余程のことが無い限り、希求され続ける。すっごくかっこいいという流行的なはやりすたれにもさらされやすい形の分野も含みつつ、希求の中身を勘違いしない生産活動に組み込まれるされ方は、決まり切っていないはずだ。今の量産の在り方ばかりではない。
長距離に向くモバイル系。中、短距離に向くのは。空間の造作とも相談が要るし。
そしてかつての貿易商人だけではなくある程度安全な旅行圏を保てたかもしれないイスラムな試行錯誤(今時はそういう成果を自らが掘り崩そうとしているかのような事件が目立つけれど)。旅行記の類で旅程を確認できるはず。領域はぐっと狭くなるけれど、お互いの努力が成果となることの証明に四国の巡り路の事例を列島版としては持ち出せそうだ。どうしていくは本当に、(そこで出くわす膨大な人々という意味での)当事者次第なのだった。もちろん、文化的というタイプのヒトならではの知恵(力学系が巧みに機能させられている可能性も指摘できるはずだけど)を見ないことにすることはできない。
散らばった支払い手段を、ある目的のためにまとめてみたい、そこらの工夫は、今でも試行錯誤として方法的には、試され続けている。投資、ということばで括ってわかったつもりになりがちかもしれないけれど、必要(詐欺目的というのすら稀少的には含まれてしまう)に向けて支払い手段が集められて、それを元に何かしらを得て、試行錯誤にさらされて、結果を検証される。が、そういうプロセスが起こりうるのか起こらないのかで、たとえば飛行機のたぐいが早めに発明され実用化されたかどうかが揺れてしまう。早晩、その手の必要は、だれかしらが担うのだけど、社会工学パスカルの原理の応用面からは、なんとか有意な諸氏が担って、しかも使い方まで巧みに制御できることが不可欠だ。
ヒトの夢がかないつつあるのか何なのか、膨大な仕組みの相互作用が今のモノやおカネやヒトの移動を支え、それらは観念をも揺さぶり続けている。
だれかにとっては大変に良く作用するストレスも他のだれかにとっては不幸極まりない、というのが実際の世の中だ。病名告知はだれかにとっては戦う相手として更に元気づけるかもしれない。だれかにとっては思い込み上戦う相手ができて表向き元気を出せているようで、更に疲弊する原因提供になっていそうだ。そして、いきなりげんなりしてしまうストレス因として受け止める諸氏の方が断然多そうだ。そういう病名告知の難題を勘違いした発想のまま情報公開教条主義で突っ走られても困るに違いない。
ヒトの元気の素は人生の中に練り込まれて、相当に違って受容体を形成している可能性大だ。
だから介護知見を育てえた介護保険後19年間プラス少々くらいの人々にはなんとか集団処遇の愚を率直に指摘してくれる諸氏があらわれるようになった。高給取りな諸氏は介護職にはならないとしても介護を受ける立場にはなるかもしれない発想はきっとお持ちに違いない。だからそういう諸氏は、集団処遇には内心困ったものだと俄然思っていらっしゃることだろう。でも実際、それに遭遇しないで済むかどうかに不安をお持ちかもしれない。
多くの場面で、それは不安だけでは済まない実情が列島では蔓延しがちと察する。ただし、担い手ががらっと入れ替わることで、それが一辺に変化する、ということもありえないことではない。そうしたいけれど、現場が安月給、3K に近いとかで、それなら、と考える働き手は集まるけれど、それだからどうなの、である程度超然と個人が出るタイプがやはり紛れ込んでもいるはずで(反射として個々の事情に目が向く)、悲観的なばかりではない。それでも、世の中的に、介護現場に変化を生じさせうる、意欲が生じてくれないと、なかなかそうもいきにくい。食事療法で簡単に体質改善できるかもしれないのに、手をこまねいているなんてのは、本当にもったいないことだ。
深刻な半身マヒに陥らない仕事生活をお互いさまから発想できれば、仕事の仕方の工夫として改良できる(現場論的な詰めの論は要るけれど)。
集団処遇して不穏にさせておいて、多忙だとか順番を間違えた問題把握をしがちな現場に、不穏が生じにくい仕事内容を持続することが、手のかからない介護職生活を可能にすることに気付けるように仕向けられることも、なんらか仕事の仕方の論へのヒント発信になりそうだ。


君:梅雨ね、台風だったようね。
私:うん。
君:出かけるの、億劫?
私:今頃の雨、濡れても寒くないし・・・。
君:いいってこと、ね。じゃ、出ましょ。テレヴィに、パソコン・・・からだによくないわね。老後・・老人だった、年寄りも毎日からだは動かしてた方がいいわ。
私:アリガト。
君:じゃ、行きましょ。お茶、寄る?
私:うん。・・雨、やんでるみたい。
君:あら、ほんと、丁度良かったんじゃない。
私:今日も、付いてる、かも。
君:かも、・・ね。ふふっ。