連載は続く~ SF 掌編『(SFドラマタイトル的に)何が待ち受けているのか』編


工学的歴史視点を提供してくれた竹村公太郎氏を参考にできるなら、問題は電気を極端なほど大量に一定量を保って使い続けるしかない世の中の営みが前提になっていることだったりする。
発電の為の原材料をどうこうするの話にして盛り上がり勝ちな昨今、そこらをちらっと振り返っておくこともこの先、自らの足を確かめるためにも参考にできそうだ。
規模がでかい出来事ゆえ、たった一人で同好動かせる事態ではないことは自明。
けれども、要所を徹底的に避けて、新たな工事現場それも相当な規模になりそうなことを前提の新たななにがし、ということで脱なんとかとかテーマを持ち出している。
だから素人は理念的過ぎるのでは?とか持ち出したりしたけれど、どうやらプロパガンダの線の方が濃そうだ。
で、有機由来原油説になびかせる高圧化での石油生成知見まで登場したり、色々大変そうだけど、素人的には、無茶に脱石油・石炭の線で推進の熱意を持つ勢力も巻き込んで、こっそりオルタナティヴの方で行ってもらいたいと思っている。
小コミュニティでの田舎暮らし実験の営みなら、ある程度の閉じた域での検証を経た修正なりがいくらでも可能で安全も保ち易い。
けれども中枢での巨大電力依存の機関が相当な力を提供しているようなグローバルな展開を成してしまっている今どきだと、供給安定性を欠くシステムへの依存は危険極まりないのだし、技術の熟成度合いという経験知のところも相当に関わってしまう。
激変可能な領野もあれば、遅々と進まないけれどいつの間にか変化完了の領野も息づいているのは人の営みの不思議だ。
ただ、こんなことは素人が持ち出すまでも無くより知見をお持ちの諸氏には当たり前のことと察する。つまりことばが氾濫しているような変化というよりは、新たな事業探しの安直な答えというのが実情ではないか、と素人ゆえ推測している。

丸山氏の長期視野からするヒント発信は、人口変化の傾向が巨大規模になりつつ、やがて減じていくということで、ヒトの集団の営みにとっては不得手な対応を的確に求められてしまう、ということになる。
巨大人口にあわせたシステムが速やかに減じる方でのシステム変更を迫られる。
両局面の変化に応じながら人、物と膨大な費用が必要になる。
でも、大局を把握するための技術的試行錯誤が精度を磨きながら試されてきたわけで、知らん振りはできない。今の持ち物でちょっと将来の持ち物でなんとか対応するしかない。
資本主義の純粋版をイメージできる諸氏がいるみたいで、金融系にはそういう発想の持ち主がはびこっているようだ。
純粋版に近づけることができれば、自ずから自壊するシステムということで、待ってましたの次の望ましい"世界"を期待しやすい条件が整のうといったところだろうか?
煎じ詰めに煎じ詰める論にするなら、全能の何かしらに委ねるようななにがしを持ち出すことになってしまうのがオチだ。
多分、忙しすぎて、純粋の資本の論理形態があるかのように信じ込めているのだろうとドラマのりから推理したくなる。
ところが、考える、なんらかひねり出すこと、それが儲けとか利益とかを巡ってもなのだけど、落ち着くところは全能の持ち主に委ねることにしかなりえない。
そういう絵空事の究極を心得ている実際的な膨大な大人たち、子供たちは、むしろ実際的に制約とか可能性の手ごたえを挑みの機会を重ねることで得て、実際手に試行錯誤できることで日々を費やすことになる。
でもそれだけだと構想のヒト性を応用し損ねるから、ちょっと引いて、練る、資料漁りしつつ、他人の貴重な知見とぶつかり合いながら、研鑽しまくって、これぞ、というのを試す。大小の場で様々に生じる。
そんなところだ。
自由貿易状態にしておけば、足りない地域に食料は貿易取引のルールにおいて確実さを保てるとか思い込めている諸氏においては色々民間に力をより持たせて自由な貿易場を用意しておけばいざという時の最善を追及できるとか言うつもりで昨今の議論がなされているのだろうかと素人推測。
先の様な利益追求の競り合いに委ねておけば資本の論理が働いて落ち着くところに落ち着くとかで走りまくるだろうことは想像しやすい。
調整型の発想で、自由貿易下、実情を説明して折れてもらってなど苦心惨憺してなんとかできるかも、と思っている諸氏もきっと沢山いらっしゃることだろう。
素人である当方の発想では、もう少しサヴァイヴァルノリの発想を使いたくさせる。
つまり、折角規模ということでは国民国家の地域性を使いこなせるのが今時のグローバル環境だ。
だから、貿易ルールの状態が解決してくれるとかとは一歩くらいは離れて、まずは地域圏での自給の自力を保つことを試行したくさせる。
なんでもかでもそうするというのは、(手持ちのツールの豊富さとかから)裕福な時代において馬鹿げた決め付けになるけれど、飽きない程度の食のバラエティについての自給率向上くらいなら放っておかないほうがいいように思える。
それが可能になるグローバルな常時の交流が欠かせない。
なぜ、その土地に沢山人々が住んでいるにもかかわらず、飢えとか食糧難とか水不足とか衣食住の基礎部分すら持続的にならないのか?といった土地柄へのオルタナティヴな知恵の提供もありうる。
気象条件の長期的変化ゆえにこれからも長期にわたって不作としがちにするというシミュレーションを提供できる裕福な土地柄は限られているから、そのデータ提供は貴重だし、それだけで終わらない、対処方法の提供までがワンセットになりうる。
政治のあり方で、自給体制、食糧危機対応などできることもできていないんじゃないの?ということも一応相手を見た上で、可能なら率直に発信しておくことも近い将来での円満な集団の営みを招来させられる。
しかもそういう対処ができたとして、そのできた構造のままだと無駄が生じて、集団の営みの相当な負荷となってしまう。変化させ、費用をかけながら、しかもそれを壊してか修理して新たな条件に合わせていく必要がある過程を構想できないと対応にならない。


さて、テレビドラマでは、昭和の30年代に育った役者世代たちは(困った方のストレスに感じて)大変そうにしながらも執念とか内発的エネルギーをほとばしらせる演技をなんとかこなしている。でも昭和40年代に育った世代となると、もう肌が荒れるくらいのストレス全開で、内的ほとばしりどころかやつれた感じになってしまう。つまりそういう演技を演出が求めることがそもそも間違っている、ということだろう、と素人は見た。
お手軽に悪さも良いこともやってのける世代に移ってしまった。
その感受性はお互い様で、同世代の分厚さが相互にけん制し合える(はずだ)。
そこらにドラマが生まれる。そういう時代の予兆だ。
旧世代ならしごかれても大事にさせるだれかたち以外は本当にしごきを我慢して耐えて、その場をなんとかすり抜けて大人の落ち着きを取り戻せてきたに違いないと素人老人は想う。
ほとんどの人々にとって、その重たい内面を演じられる世代は、一方で荷が重いだれかたちでもありえた。
そういうこととは相当に距離ができてきた時代だ。
でも、物事に対しては、冷静な集中を欠くことはできない。
手っ取り早くは、介護施設でお年寄りの生活全般の面倒を見ることで自分の今の状態を自覚させられる。結果、判(わか)るといった感じか。
大工仕事も昔のような手仕事ではない質が多そうで判断にはつかえなくなっていそうだけど、手仕事系大工仕事をするだけでも、自らの対他的粗雑さの度合いを計(はか)れる。
それは即我が身へと跳ね返ってくるから、大いに役に立つわけだ。


廃物が悪さをする場合が多いし、それに対処できれば、社会的な負荷を相当に減じられるという場合ならば、回収して再利用というこれまでの慣れた発想のその先ということで対応できる。
最近の黒点数変化はそこそこに上下動している。こうなる前ほどの変化ではないけれど、最近に関しては多少動いている。
そうであっても、ずっと同じ繰り返しではなく、地球史において似た、4、5回の繰り返しが起こるようになっているその傾向について、原因を探らないと答えにならない。
その前提ならば、他の多くの時期についても繰り返されていなければならないのに、そうはなってこなかった、という地球史データをいつも頭の片隅に置けるなら、趨勢についてもっともな規則性提示について素人でも検証しやすい。
その上で、食料対応して後まもなく人口減だし、急激な寒冷化と極端な(数世代期間程度起こりうる)気温の上下動する巷を予想できた工学的備えをしながらの楽しい生活を構想できないと、それと比べて短期でも繰り返す地震や火山噴火とか激動にもつながるような自然災害も待ってはくれない列島生活の諸氏においては、特に、やることが色々ありすぎるのが実情だ。


「父(とお)ちゃん、ほらこれ見て・・人が沢山いて、大きな町まで。それにぃ・・」
「なんだい?」
「大きな建物がいっぱいだよぉ。」
「どこにあったのその本・・、昔はそうだった、ということだよ。ばあさんたちが話してたな」
「へぇーっ、そうだったんだぁ。この建物、見てよ、やけに高いよ、なぜ?」
「うむ?なんだろうねぇ、そうだ、母(かあ)ちゃんに、物知りの母ちゃんに聞いてごらん、きっとわかるから」
「母ちゃん!教えてよ」
(隣りの部屋から)「大声出さないで、赤ちゃん寝かせてるの」
「はーい」
と云った具合で、この時代にはおよそ二百年ほど前だったら辺鄙なところでの暮らしが占めていた。
それはとにかく急激だった。
遺伝子をいじくることが流行った。
(遺伝子を)編集できるようになったということでだれもが喜んだ。
巷は百年前頃流行った美男美女で溢れるようになった。数世代でそうなってしまった。
そういう流行には乗り切れない人々がごくわずかいるだけだった。
恐らく、限られた形質の遺伝子が蔓延していたのだろう。
やがて変化が訪(おとず)れる。
自然環境が激変する。
火山の噴火だった。その時期に至るまで、とにかく前兆だらけだった。
各地で中規模の地震が起こっていたし、火山の活動も起こるべきところで継続していた。
その中で規模の大きなのが吹いた。といっても、地球史上での大噴火規模ではなかったけれど、噴煙が太陽光の照射を遮り、噴火地域の被害とはまた違った被害を生んでいた。
数年間食糧の不作が続いた。
各地、といっても格差があり、食糧不足ながらなんとか乗り越えた地域もあったけれど、悲惨な地域の方が目立った。
そういう世界的な栄養状態に、得体のしれないと当時は勘違いしていたらしいのだけど、風邪が流行って、体力不足ゆえの大量の被害が出た。
ただ体力不足では説明しきれない数だった。そこには、どうやら画一的遺伝子の蔓延があったらしいということが後々推測されるようになる。
ばたばたと全滅タイプの激変にさらされた地域が各地で生じたのだ。
地球の人口は激減してしまった。
当時先進国として栄えた土地ほど、編集遺伝子生まれが大勢を占めていたので、それはもう目も当てられない事態をもたらしていたのだ。
ヒトはもともと心細く生きているものだけど、それゆえについ流行りに乗ってしまう。でも、それが個々のばらばらな思惑で散らかっているだけなら、こういうことにはならなかったのではないか・・と数少ない豊かな社会の生き残りの人々、もちろん、何人か、という数なもので、追々、いなくなってしまうだろうが、こぼしていたと昔話にはなっている。
当時は差別につながるとかそういった観点から遺伝子の編集について世界中の心ある人々によって議論が盛り上がったそうだ。先天性の病気へは相当に役に立つし、どうしようという議論も活発に行われたらしい。
ただ大局的に行われたのが、実は、同じ系統のを選択しがちにして・・ということだったらしい。
それはもう、バタバタと倒れていったというから・・・・。
人が少ないということを比較できるわけではないけれど、いざ人口の少ない世界に棲んで、もしもう少し人がいてくれたら、もっと多くの仕事をこなせるのに・・なんてことをやり手たちはぼやいている。
今の規模だと、日々の食を得るので精いっぱいの土地がほとんどだ。
子供たちもほかの生き物同様に大人になるまで何人生き残れるか。
世の中、使い方がまったくわからない残骸で一杯だし、人は少ないし、食の生産で日々忙しいし。
"困った困った"、が挨拶(あいさつ)がわりのようだ。