連載は続く~SF掌編『中央集権化との摺(す)り合せ』編


その昔の本を読んでいると女性たちが変な名で呼ばれていてわかりにくいと感じる。
今時は史料的にその読み名だとだれのことだ、とすぐにわかるようにはなっている。
そこで和田英松、所功校訂『新訂 官職要解』('83 講談社学術文庫)の第四章 平安時代 五八 後宮(p219-)に目を通す。
p219からp233くらいまでざっと読み通すことで、令や式とかでふれられる制度上のことばであることにも気づけるし、女御(にょうご)から始まったことば解説ゆえ、p232あたりまでくると、御匣殿(みくしげどの)、尚侍(ないしのかみ)、命婦(みょうふ)、女蔵人(にょくろうど)など羅列した単語から女房ということばを説明できることを知れる。ここらは古典系の物語とか日記とかを読んでいる諸氏においては当たり前の知見かもしれないが、改めて和田氏の解説に目を通すと、また違った手ごたえを感じることができる。
さて藤原氏はそういった名称の各"地点"へ娘さんたちを"担わせた"。
バラバラ感から少し秩序だった俯瞰として印象できる。
そして細かに内輪のネットワークが構成されていることにも同時に気づける。
ネットワークを張り巡らしてなんらかが働くはずだ、としても、実質、ことばの散らばり易さからして、それなりの工夫が機能していない限り、絵に描いた餅に似る。
だからどう工夫していたのか、そこらにも関心が向いてしまうのが素人っぽいかもしれないけれど、仕方ない。いつも遠回りして寄り道してそれなりに楽しい。
ただ、ぐっと江戸期の初め頃を諸氏においては想像し易いと思うけれど、それにドラマとか映画とか歴史解説物番組の賑やかなこの時期に、それなりに知見をお持ちとは察するけれど、まさに大奥のことになるけれど、少なくとも派手目にエピソード的に有名な綱吉氏の頃というより事になる。
綱吉氏が育つ過程でたっぷり仏(フランスじゃなくて仏教)系の教養を心身的に染渡(しみわた)らせて、ささやき一つで充分に行動へといざなうことばを部下へと発せられる心身になりえた。その要素の主脈にしっかり藤原氏の貴族系が・・・と素人は指摘したいのだけど、中高向け歴史年表中の系脈図とかウィキペディアの内容を検証しつつ、整理してネットワーク(しっかり母親と父親との組を上下重ねていく作業が欠かせない)図表など素人であっても作ることができるので、それなりの知見に届く。ここらは今でも教科書的には整理して方ってくれるタイプの出版はごく少ないように伺える。
つまり官職の内実がいつのまにか性のダイナミズムに席巻され易いことを応用した仕組みに変質してしまうヒトの営みの不思議をその昔から使いこなすことに平気だし冷静な脈が息づいてきたわけだ。
工夫の辺りの緻密さをどう伝え合えたのか、是非事情通、歴史通諸氏の発信を待ちたい。
諜報活動とも見なされうるわけだし、探偵を雇っているわけでもないし、ばれたらそれこそ歴史的スキャンダルで、藤原氏そのものが成り立ちようが無くなる。そこを上手にかわして中央集権の深謀遠慮役をこなしてきたことの凄さに一応素人なので、驚きたい。
短命な扱い(これも相当な人為的工夫が関与していないとヒトの丈夫さからして納得できるものではない)を受けても佛思想をしっかり心身かして平穏を念じ続けることに飽きることの無かった系脈もやはり凄いと思わせる。ここらはもう左右中の思い込みを吹き飛ばすのに充分ではなかろうか、と素人的には指摘できる。諸賢のより厳密な詰めの論を期待したい。

中央集権と簡単に言うことはできても、実は相当に難しい営為だ。
今では学者諸氏ですらその実態を率直に学問として語ってくれるようになった。
緻密に官僚をこなすタイプはいつでも極(ご)く限られてしまう。奥義(おうぎ)伝承の限度からかもしれないし、ヒトゆえかもしれないし。
ヒトそのものが個別性として育つ他ない。だからいつでも拡散する方向性の動態が働いている。
付和雷同とか、大衆とかその手の集まり癖から個別性、散らかり易さという集団のくせを見損なうかもしれないけれど、むしろ後者の趨勢が働いているからこその前者の装いがしばしば現れると言っておいたほうがヒトの集団の営みをよりリアルに説明するように素人は察する。
だから正しいことを言うのは自分たちだと特定の表示集団として指図したくなるのは、ヒトのいつもへの苛立ちを制度化したくさせただれかたち、ということになる。
これだと、下手も下手な知見応用と指摘できる。
藤原氏は千年単位で待った。そのくらいの深謀遠慮が働かないと、どうにもヒトの集団の営みと付き合いつつ平穏を動的に営むことは難しい。
勘違いが権力を集約して勝手すれば、それなりに歴史事象を表現するくらいは簡単だ。
それが歴史年表を彩りがちにする。でも底を通す佛から拝借した発想を応用した平穏志向を誤(あやま)らなければ、受身的な制約を発揮しつつ、人々が何かしらその時々の形を試行錯誤できてしまう。
中央集権といっても、工夫の注ぎ方次第、と言う辺りが奥義かも、とも思える。


話題はがらっと変わって、細胞の現象。
とりあえず何億年もたって、その結果としての地球上の生き物やウイルスやだ。
変異し易い単体細胞ということでは、何億年間を経てか、ある時の変異が結果今に至らせているかで違ってくるはずなのだけど、単体系だと変異してその変異の度合いが激しいタイプの場合、ほとんどは環境条件が負荷となって、いつものタイプたちだけが残る。ここらをインフルエンザウイルスについて喜田氏が解説してくれていた。
いつものいくつかとして落ち着いているインフルエンザウイルスの群れ。
だから変異種が賑わせたとして、いつものどのたぐいがはびこっているとか悪さしているの?と調べる方向性を機能させ易い。
それくらい変異は弱点だ。おちついたかつての変異がそれなりに有力な占有量として住み分けているのがいつもの変異し易いけれど似たもの同士の住み分けだ。
抗菌でやりすぎて、住み分けの少数が、煩くするようになって、免疫系弱者のだれかたちにとってはとても不都合なことが起こりうる。
その変化し易さが、膨大な、膨大すぎる見た目試行錯誤のようなことを繰り返す中で、組織立つ変異も経ていて、それが結果的に残り易かった、かある時の突飛な変異が組織立つ向きを持っていてそれが結果的の残ったのかはともかく、多少の変異を組織相互作用の中に飲み込んで、四肢的な働きを機能させて、なんらか働きかけて生きているあり方ももたらしている。


話は戻った感じになる。
ネット発信のいくつかからそれなりのヒントを得てしまうのが素人なもので、引用などいちいちふれることのないことをご容赦いただきつつ、ふれてしまう。
ある時突如現れて、ある時突如失せる勢力の一方でその頃に突如現れて、その後の似た志向で深謀遠慮をある程度果たせている脈ということを素人はふと持ち出したくしている。
ただそこに余計な具体性とか推測を付け加えることは今は避けたい。
それと考古の明確な証拠が奈良の地では出ていない不意義についても、専門家諸氏こそがもどかしく思っていると想起させるので、素人がいちいちは言わない。
別の土地で、先法隆寺の時期、その建築の関係者(注文主や建造に携わった諸氏や)のことを想起しておいて、後法隆寺の移築説を採用して、そこで活躍した諸氏のことなど、それぞれ諸賢においてはいかに想像されているのか、ないし史料から探れているのか。ここらは移築説に組するしないにかかわらず、断絶自体は伽藍の別々としてクッキリ残っているので、そこらを踏まえて今ならではの話が可能と思える。
河川交通ということでも鉄が重要な事はいうまでもなくて、しかも古墳期だと焼きものの窯の立地とかその製品がどう交易されたかとかで、地域史の知見は素人にとってもたっぷり積み上げられているその一端をヒント発信を手がかりにちらっと探ることもできたりで、確かに貧乏暇なしは本当のことらしい。最近はびっくりするほどたっぷりの量に戻る干しワカメ製品が販売されている。そこで、川柳ノリ
なんでもこうなるのか?味噌汁の中の干しワカメ。