連載は続く~ SF 掌編『再度、喜田氏知見』編


 コロナ騒動ニュース表示の中に、現状流行中コロナウイルス変異種群の割合分布は・・・ということで円グラフ表示される。
 ここらが喜田氏研究成果を踏まえられたものならば、にわか理解ではあるけれど素人観点からして"結構なことです"、となるわけだけれど、精査を得た構成分布ではないことはその表示からもわかることなので、残念な状態は続いている。
 喜田氏知見では、現状のコロナのウイルスの構成に当分の間継続する要素が住み分けているというような言い方が可能だ。
 以前もふれたけれど、元素の同位体ということでは、構成の割合が一定ゆえに道具に使えるとかがあったりするので、そっくり同じということはできないけれど、ある瞬間を採った時には似た感じになる。これから大勢を占めるかもしれない変異種もごくわずかか、調べれば簡単にわかる程度か、構成の中だ。
 不幸中の幸いというか、現状は世界大の規模でヒト感染している。
 その数が(せいぜい数十億ということで)べらぼうというほどではないとしても、ある程度の規模でウイルスの変異種別がわかるような検査をしていれば、必ず、構成要素の分布的ばらつきが判明する。そしてある時点での分布割合とその後のある時期での分布割合との違いとか推移すらつかめる。
 ヒトに感染して規模を拡大するにつれて、感染を繰り返す中で既存のコロナウイルス変異種間に残りやすいのとそうでないのとの分布の割合が総数として検査時点に応じてわかってくる。喜田氏の読みだとヒトに感染しやすいし盛んに増えていくということで、多数変異種として現れやすい。
 生き物だからヒトでもそうだけど日々変異種を生じさせ、だけど極端さに応じて、早い段階で生命持続できなくなる。単純なほど個体間で極端をさまざまに生じさせる。組織立つ方は、その組織立ちすらに異常が強すぎると個体にすらなりえない段階で生命を持続させづらくする。
 ヒトの場合、親たちがとりわけ愛情を注ぐ継承を集団の継承の中で可能にしてしまっていて、雑な子育て系の生き物ならば即生命活動不能状態に陥るかもしれない場合でも、しっかり人生を全うできる途中までは親たちが、その先は共同性だったりが保つようなことを現生人類のごく初期の頃からこなしていたらしい考古の証拠を持っている。
 コロナウイルスはそうではないから、日々の新種のその先の見通しはほとんど絶望だ。けれども、すでに膨大な既存の変異種構成の中で、多数、少数の分布変化がどよめく。
 そのある時期の結果を観察できて、なになに変異種が大勢を占めている云々かんぬんとニュースになる。
 ここらを踏まえられる喜田氏知見の貴重さは、だから、ということで、できることなら、流行初期の段階でグローバルに分布割合をはじき出せる既知データがあるかないかの問題もあるけれど、未知だとしても、その時点ではごく少数すぎてわからないにしても、どこかでヒトに感染することで"生き延び"ているのがヒト系コロナウイルスなのだから、感染してだれかが持っていてそれをウイルスのDNA構成から変異種のどれかという特定とか命名として、喜田氏指摘のデータ集に収めておけば、万能ではないことを断った上で、しかも使い方(政治力の使い方も含めて)を誤らない範囲で、ワクチン製造のための不可欠なデータとしてウイルス対応力は相当なことになりうる。
 無知というかどちらかというと悪い方の政治利用に近い新種の変異ウイルス出現めいたことばを乱発するようなことも今後のニュース報道ではごく少なくできそうだ。
 現象のリアルは、既存の初期から構成要素であったはず(というのは調べることで判明の状態にすることをしていなかった)のごく少数派が、ヒト感染を繰り返すうちに多数派となったという辺り。
 年季が大事、ということのようだ。
 インフルについては変異種についての既知の量がかなり、しかし、SARS-CoV-2 ウイルスの変異種群については最初の段階から蓄積中だ。そこらは素人でも、つい新種扱いことばを使ってしまう知見諸氏にも同情はできる。でも多用は一般向けには不適切だ。そうとしか受け止めようが無いのだから。そしてそれは事実誤認と密接になりうる。


 話題は変わって、人それぞれだからしつこく迫るだれかを好む諸氏もおられれば鬱陶(うっとう)しく受け取る諸氏もおられる。それが普通と察する。
 で、使い慣れた言葉ではあっても使う上での新語に近い「ストーカー/パパラッチ」という用語を持ち出したい。
 このことばの登場は、それまで困る多数派は女性諸氏だったろうけれど、それまでの実態に対して難しいことば使用のところで、とりあえず対応した、と素人は見なしてみたい。
 病院や役所の、人々が行き来している場で、だから聞き耳をたてれば全てが入ってしまうような場で、個人の切ない語りがおおっぴらに会話の形で大判振る舞いだったついこの間までのことと、昨今の激変状態に気づける多少年齢が行った諸氏が未だ未だ沢山おられるはず。世の中の個々への関心はかなり変化しつつある。しかも、腹にしまい込んでいた実際の事態に追いついてきた、と言える現象、趨勢だ。
 それでも閉じた内輪の中で運悪く、個々の尊厳を台無しにされるような誘導圧にさらされている諸氏もそちこちにおられるはずで、そこらはもっと芸術芸能発想分野の"率直"な発信も重要と見ている。
 そして、ちょっと前までなら役者冥利に尽きるような演技手法が、その趨勢には反している表現形だとハッキリしてくるのも、そう時間は要らない、と素人老人ゆえ感じ始めている次第。
 ということで、より突っ込んでとすべきところを、次回回しということで今回はここまで。(実態はとっくに変わっていたけれどことばそしてヒト個々の心身や集団の営みの趨勢としての変化が追いつききれなかったのが・・・)