連載は続く~ SF 掌編『(世界の年寄り諸氏が住まう)介護現場が”今”を答える』編


ぼんやり思い浮かぶような事柄を今回は勝手ながら羅列してみたい。
九州を消し去ろうとした勢力というか企画なのだから、蘇我氏の主脈の息づきを消し去ることもその中の一つくらいに考えても無理はなさそうだ。
と言っておいて、もちろん、ここらを想起した途端に既知の膨大量を以ってして編集変え作業に取り組める熟達諸氏が列島歴史系には多分相当沢山おられる。
当方はいたって素人なので、持ち出せても自らの知見に照らしてめいた作業を即、はこなせない。もどかしいけれど仕方ない。
評とか郡の波及の仕方とか大王とか、色々絶大な中央集権ありきへ向かわせる先入観バイアスは働きがちにしてきたかもしれないけれど、そこと距離を取れさえすれば、持ち前の知識量で再編集作業を端緒のところからでもきっと可能にしてしまう。
しかし主脈蘇我氏が続いているかも?としたら、じゃ、どうつながっているかの辺りが説明できないとまずい。
中大兄の頃までは九州基盤と仮説してしまうとその途端に蘇我氏とのせめぎ合いについて九州のどこでとかの説明が要る。そう蘇我氏を置くと更に聖徳太子とのやり取りもどこでのことだ、とならざるをえない。
既存の暦の使い分けをそれとして説明することなく、使い分けてしまう『書記』の造作の含みを踏まえられるなら、どうせ知らない勢力の方が中央集権の構成では多数となるのだから、そこらはどうにかするさ、という含みとして想像していいのかどうか。
ここらも知見を膨大にお持ちの諸氏にとっては簡単な振り返りで済ませそうだ。
藤原宮とその宮都域が整備されて以後の中央集権の事業内容は素人目には質的に画期を想定できると見える。そこを選びたかったのだけど、長期間そこで、となると排水環境には不向きで別のところを選ばざるを得なくさせたのかそこらは、素人でもそれだけではなさそうだと思えている。山階の方、北の方に徐々に移っていったようにも伺える。
では旧権威筋の中から一応天皇を担う勢力が選ばれたとして、とにかく列島有力層にとってはそいちらだけに権力が集中してもなぁ・・という新興勢力の藤原氏天皇(一人ひとりは老い知らずの寿命が目立つ)権威に乗る形で実質の実力者へと育てられる中央集権化事業を想起した場合、その奥義を実質の担い手藤原氏はどうやって伝承できたのだろう?ひょっとして今でも未公開のその類の史料を伝え合っているのだろうか。そこらはちょっとありそうもない。というのは、担い手によってどうも冬嗣氏のようなタイプとは異なるタイプ、権威欲しさに色々算段してしまって結果的には藤原氏の脈絡を保てたタイプ諸氏も紛れ込んでそうだから。
桓武天皇藤原氏に沿った改革を成したとして、それを天皇系の人脈がその通りに中央集権化事業に沿って伝え続けてきたかも不確かだ。
武士が出てきたことが分岐のようにとらえられがちかもしれないけれど、そこは中央集権事業の線からだと連続の方で押さえることができそうだ。
桓武天皇嵯峨天皇清和天皇ほか平家、源の諸氏とか目立つ脈については、明らかに藤原氏利害優先で処理されている。『続日本紀』での天皇の発言のところなど、自らの行いと自然の振る舞い(が人々に影響するその結果の責任と絡めて)とがリンクして真摯に受け止めるようなあり方を想像させる。公にそうことばにしてしまっているのだから、重いと想像できる。
考え方の在り方としては行動規範の開陳のように受け取れる。
品行方正で有能なだけでは駄目で一定程度持つものを持たないと資格なし、高級公務系に成れる条件などもふれられていて、ここらは素人の想像になるけれど、食わせていくことに責任を持つし、独り立ちさせる、一人前に育てる責任も持った指導層との集団的営みの工夫が成り立っていた集団規模が育っていた頃の、名残(なご)りじゃないか、と思えた。
かくあるべし、だけど実際はそうではなかった、の類で話を端折ることもできるのかもしれないけれど、理念的な立ち位置の説明にもできそうに思えた。
現代ということでは、冷戦期を持っている。
英→米の脈絡でグローバルな体制を押さえることが前提になる。
じゃ対立していた米ロの関係は?と当然疑問が出る。
テレビドラマの『iCarly』(NHKで放送していた)を思い出してもらいたい。ご存じない方はこの文字で検索してもらえば直ぐにわかる。
だらしない生活、ふるまいのお兄ちゃんに不満をもつ妹の Carly がある時、きつくそのことを指摘すると、お兄ちゃんは杓子定規なお兄ちゃんとなって再登場した。でどうにもしっくりこないやり取りとなって、さすがの Carly も嫌になって、元に戻ったお兄ちゃんに安心する。
中でお兄ちゃんはセリフでこんな意味合いのことを言っていた。
「世の中の質は同じだ。だけど自分の振舞い方次第で受け止め方が違ってくる。そういう自由っぽさの枠のあることをいつもは意識してないけれど、気づけるようにすることもできるわけ」
米の”っぽさ”をグローバルに押し出す目論見がグローバルな脈において了解されて、他のくせのある杓子定規系振る舞い役をこなす諸国が不利な立場を容認し合うことで、冷戦が含ませていた目論見は試行されていた。代理戦争ほか問題山積のシステムだから、その役を一止めたぁ!と諸国が態度を改めはじめると、その秩序系は持続不能になる。
人材が土地土地でしっかり育て合えるようになれば別だけど、中央に有能系を集めてやっと営める工夫の水準のままだと、密かにグローバルに中央集権系の試行錯誤のところで工夫し合うことになってしまう。とはいえ国民国家的試行錯誤の下、各地で一応、過去の引きずりのこんがらかりを抱えつつ、広く人々の苦悩を少しでも減らしてすばらしき人生の個々化が試していけるような指向は素人の観測に過ぎないけれど現代らしく継続していると一応は見ている。油断すると、藤原氏でもそうだけど、権力の位置をめざして結果的に、の類が跋扈しやすいから、しっかり人の考えや行動のくせとかを見極めながら代理人を選ぶことは当分欠かせそうにない。
しかも、代理人勢力だけで”握っている”わけではないから、ヒトの営みに関わるたとえば学問系がもたらしてくれる知見とかも若者たちはたたき台にしながら、この先を構想できて関われる足場をなんとか作っていく工夫の為の助けにはできる。そこでも目的の検証を欠かさないようにしないと、権力の位置に近づくことが目的化して、トンでも系になりかねないから注意が要る。
蜻蛉日記』をNHKラジオの古典講読番組で放送中だけど、今西祐一郎氏は『蜻蛉日記覚書』('07 岩波)"Ⅰ-3『蜻蛉日記』の役目"の中で(藤原)兼家氏についての宣伝要素を指摘されている。(ウィキペディアに紹介あり)
源氏物語』には九州で成ったオリジナルがあったとして、ではそれは紫の上系の巻なのか、玉蔓系の巻なのか。匂宮以降宇治十帖の巻なのか、若菜以降幻までの巻なのか。
名残とはいえ、食わせていく責任感を持ち合わせる指導層が目配りできている営みを理念的に置いて、今時は巨額を税収を元に出費してそれで騒動が焼け太りを生じさせたとか列島での一事例などニュースに登場していたようだけど、更に巨額が特定の部門に出ていたのではないか。どうめぐりめぐってを演出できるか次第のところが経済の営みからは指摘できるのだし、出しすぎた事態について、必要から、がありうる場合、それを回収する工夫も必須なことが経済の学では指摘されるのだが、大判振る舞いが人気者になる近道とかで、回収のタイミングや量をなかなか上手くこなせないのがこれまでだった。
そこで赤字が諸国において巨額となってしまいがちにしてきた。
その一時期さえ支えてもらえればなんとかなるその機会を見失うことなく(広範なきめ細かい観察も要る)、それゆえにほくほくなところからより多く、だけど負の効果について考え抜いた作戦で回収策を一時敢行できれば、それなりに、これまでの負債をどうこうできることはないとしても、今回のサイクルについては良い試行錯誤事例とできそうに思える。
USのほくほく系からは、ここらが、それゆえの辺りを知らん振りできるかのように発信しているようで、経済の営みについてかなり偏った思い込みが可能になっている土壌をなんとなく傍目に感じた次第。(持てる部分の9割を政府が強制的に剥ぎ取っても余生のやりくりに支障のない層とたった1%でも入りを削られれば、食がままならなくなる層と対比してみたい)