連載は続く~ SF 掌編『"おほみたから"をめぐって』編


度々になるけれど、ヒントを得て、対外意識の下、編集なった日本書紀ということをしっかり踏まえるならば、一面の性質として今で言う、選挙前のマニフェストのニュアンスを感じ取れそうだ。
だから後世のそれも事実関係についてまったく詳(つまび)らかにしない専門家諸氏が理解に当たって困難至極、ということになりかねない。
フィクションの所は何処?事実に照らせる記述や何処?和習と正格漢文の切り分けがある程度精密にできたとして、それがそのことについての明確な仕分けにどのように使えるか。
急ごしらえ出向かわざるを得なかった時期の産物であることを、その時期の各種の書物について類推させる山口氏のヒント発信を踏まえて、日本書紀でも相当の引用や借用のありそうなことが専門的読み込みによって一般に紹介されるようになっていることも、その線から、素人にとっては、読み方のヒントに使えそうに受け止めた。
馬子-蝦夷-入鹿の三代が記述されている時期の日本書紀のページにざっと目を通していただきたい。
教科書で得た先入観よりとりあえず原典の読み下し分の方の読後感を大事にしてみよう。
すると、まず上宮("かみつみや"と読む)一族と物部一族と蘇我一族が相当に濃密に血を通わせている記述になっていることくらいは直ぐに気づけそうだ。
その一群の活性状態において、たとえば入鹿氏のような乱暴物が出てきて事態を動かしてしまう。なにげにそんなパタンを記紀から得ていたような・・・。
そして聖徳太子を筆頭に、上宮一家は仏を重んじる系統ということでか、乱暴者とは対極のような描かれ方が特に山背大兄王には採用されている。
(岩波文庫版『日本書紀(四)』より)
(ここから引用二箇所)
(一番目の引用 p210 から)
「いましがいふところのごとくならば、そのかたむことかならずしからむ。ただしわがこころにねがわくは、ととせおほみたからをつかはじ。ひとりのみのゆゑをもて、あにおおみたからをわづらはしめむや。またのちのよに、おほみたからのわがゆゑによりて、おのがかぞいろはをほろぼせりといはむことをほりせじ。あにそれたたかひかちてのちに、まさにますらをといはむや。それみをすててくにをかためば、またますらをにあらずや」
(二番目の引用 p212 から)
「われ、いくさをおこしているかをうたば、そのかたむことうつむなし。しかるにひとつのみのゆゑによりて、おほみたからをやぶりそこなはむことをほりせじ。これをもって、わがひとつのみをば、いるかにたまふ」
(ここまで引用二箇所)
聖徳太子に関してはそれなりにヤバイ事件への加担が描かれている。四天王寺建立と関わる。
とは言え、仏の線で、平和とか平穏を主張できそうな発想をたっぷり含ませている。
更にさかのぼって、九州時代の呪術的性格たっぷりのリーダーが自らの生命活動と関わらせて自然現象変化と集団の営みの平穏持続を関わらせた責任問題を引き受けていた記述など思い起こせれば、上宮一族の性格をなんらか想像させたくする。
ぐっと後に列島では聖徳太子信仰という狂信に近い現象を生じさせていた辺りをネット発信からは得られるのだけど、事件に加担した聖徳太子像が過剰に膨らんで、玉砕とかも生じさせるような下地を用意したのかなんなのか?ここまで"おほみたから"に危害の及ぶことを避けに避ける発想(←聖徳太子の息子である山背大兄王のセリフ)と関わることばを記述されていることを思うと別の脈絡におけるプロパガンダが潜行していたのではと素人は推測したくなる。
とにかく、大兄が3人(山背大兄王、古人大兄皇子、中大兄)登場して、"中大兄"が仕切ることになっていく。
セリフとして見るなら、これはもうフィクションと言うしかないように素人からは受け取れてしまう。
なんらか上宮一族の脈々は事実上居たとしても、エピソードというか語りの中味はフィクションに満ちているように思える。
しかも入鹿氏の問題。
昔話というか朝廷をとりまく芸能人脈の作り物にはとかく怨念的な方向性を持つ物語が目立つのではないか。
そういう作りが人々の関心を誘い、持続化させやすくする。なんとなく話の作りを覚えてしまうとか。ないし、そう思念して、作られてきたとか。
蘇我氏は仏に篤い。けれども父親が「あ、いるか、はなはだおろかにして、たくめあしきわざす。」と言い放つくらい怒って事態を受け止めるような所業を息子の一人は成してしまう。
上宮一族・物部一族・蘇我一族の中にたった一人、明らかに、突出した悪さをしでかす輩が出てしまった。
そして三者が表舞台から消え去る。
そのことによって後を支えることになる二人が際立って登場する。
ただし、そのうちの一人の扱いは、当時生々しい時点では難しいことになっていたと想像できる。
もちろん、残党組みであった中大兄氏のことだ。
代わって"天武"が担い、大勢を数世代引き継がせ、後の"桓武"の時期にかなりの書き換えを経て、脈々の位置を得た記述に成った、と素人的に勝手な想像もしたくさせる。
660年の画期をつい列島の専門家筋は白村江の戦いの年代特定にひきづられがちと素人的だから当てにはならないが、そう見ている。
けれども、660年の出来事がいかに平和裡に解決を得たかはしっかり記録されていることだから、それは相当に重いことだ。残党の成したことは、山背大兄王を描いた作者の発想の足元にも及ばない、情けないことだ。多分、日本書紀マニフェスト性が含ませるアニミズムと言ってしまうと欧米発想へ誤解を提供させ易いのでことば使いは工夫が要るのだけど、ここではこれまで使ってきたように八百万発想をしっかり心身化できている列島育ちの中で、として、それに加えてより文字言葉的に仏教を学び取って心身化を志した勢力が居たことを書紀に読み取ることは素人の乱暴な読みとは限らないと察するし、欧米発想のことばの群れに少しは通じ易いかもと思える。
で、欧米発想にもそれなりに"おほみたから"へ向かう志(人為に委ねる営為として)のあることは、以前予告だけしたエルンスト・ルビッチ氏のシネマ『ニノチカ』のエピソード・セリフから素人なりに説明できる。
ただ、今回もそこはそのうちに・・ということで少々もったいぶっておきたい。

正史ということで、恐らく、律令を担った組織のどこかにきっと書き継がれた原本が残っていて、門外不出扱い(ありがちな奥義伝承発想で限られた人々の権威付けの為とか)になってそうだ。巷は、どうしょもなく欠けた原典を学者諸氏のとことん苦心されて成った校訂本でなんとか学べるようにできているはずだ。そこらはしかし、そろそろなんとかしないとまずいと素人は指摘してみたい。
文字系資料とはそういう性質を既にできた時点で帯びてしまうものだ。
隠すことが対外関係で不都合を生じさせ易い。内輪の権威付けの仕組みの埒外の力関係の渦で逆に混乱を内輪に生じさせ易くする。諜報活動によってむしろ諸外国において理解が進んでしまうという可能性すら指摘できる。

濃くて、平和志向の仏の流れを主流が継承しえた。"蘇我氏"から"藤原氏"へだ。だから蘇我氏って?と問いかけられるわけだ。
フィクション上の都合と、実際にありえた筋を今こそ諸専門家の人々、事情通諸氏によって解明してもらいたいものだし、インナーサークルな人々の口々からもれ出てくれるのが一番手っ取り早いことは言うまでもない。
もう一度しつこく触れると、日本書紀とかを伝承してきた脈々に玉砕とか特攻の発想が生じにくそうに思えるし、強引になんらかのエピソードを援用してしまったというのなら、それはその個性の方がヤバイと言える。
ただし、山背大兄王的態度は弁証法役割分担頭には、非力と映るはず、と素人でも想像できる。
で武器商人発想の相対的良質な方を選んで、使わないで済むならそれに越したことはない発想を基礎に、対峙できる性能を準備し続けるという出費に誘われる。
その為に、時々の制約に応じた入りを目論み続け、それゆえに出費を可能にしていく。
そういう事態に誘われがちにする、という条件付けされてしまう危うさに警戒できない、頭だとついそうなりがちにする。
でも、条件付けの巧みを専門家はしっかり研修している時代だから、条件付けしてしまう側への変身も含め、色々誘っていく工夫も要る時期だ。
ここらは社会工学パスカルの原理応用内で可能なことと察する。
条件付けの一つとして、昨今、広瀬本から遠く離れたことからか、忘れがちにしているかもしれないけれど、また広瀬本自体が株を身近にさせる作用を持ってもいたくらいに、株式市場に支払い手段の形見が流れ込んでくることを欲望する人々は絶え間なく努力を惜しまないタイプたちと見える。
今時だと、株価の上下動が、様々の経営体の資金に影響するように流れを、はっきりある時期頃から浸透させてきた。
その結果を各世代が生きているグローバル状況だ。
株価の上下動にうつつをぬかす暇は無いはずだったけれど、いつのまにかそうはいっていられない条件付けを成されてしまったわけだ。
しかもグローバルに生き辛い忙しさを招きがちにしている。
仕事に就きにくい経済の営み状態だったのにも関わらず介護職を熱心に執着できる(こつこつ)タイプの人々がちっとも就こうとしてくれなかった。
(テレビで紹介してくれたので知ることのできた)インドネシアの熱心な若者のような人々が列島に沢山いるはずだけど(かつての老人に一目置けるタイプの不良たちの不良につい走る発想を抜いたタイプと言い換えられる)介護職は避けられてしまって今日に至っている。番組の中では列島育ち数人に海外組みが大勢の施設運営しかこの先考えにくいような指摘をされていた。
そこにも垂れ流し金融の結果の今時の形ゆえと指摘できると思うけれど、垂れ流した支払い手段は具体的で、支払い手段としてめぐって実物をある経路では動かして既成事実を成したゆえに、支払い手段とその形見がどこかに隠れてしまっても、事態の移ろいは残る。
具体性でのつじつま合わせは継続的に成され続けることになるし、無理に作って、その後はお任せの場合は困った事態についてのつじつまあわせを求められてしまう。
低い金利がお金を出し続けさせるとかはギャグ的ことば使いと素人には思える。
低い金利になって、預けた資金の運用という形が成り立たなくなってそれまでの発想に変更を求められたことは既成事実だ。入会金とかなんとかでただお金を集めてそれを手堅く銀行に預けたところで、生命保険に入ったところで、ほとんど増殖しなくなってしまっている。時代が移ろえばお金を出して預かってもらう条件次第の状況も起こりうる。
だから株を筆頭に金融商品に注ぎ所が移動した。
けれども、実際のあり方は、投資に向かってどこからどうお金が向かったのかの違い程度とも見ることができそうに思える。
銀行が融資して、の代わりに株式として投資資金が巡る。今でも、融資は融資で活躍している。借金と返済は無くなっていない。
そこにばかり焦点を当てると、もう一方が霞(かす)む。
銀行に預ける代わり以上に、なんらか条件がそろって刷ったお札が膨大に出回って、それがインフレを生じたら、ある時期のリーダー層の面子は後世に連なって丸つぶれとなる。これまでありえなかったような人脈総つぶれ現象になってしまう。
そのバッファ役にも使われてそうだ。
もちろん、面子丸つぶれだったら、それやれとか巷受けの出来事で済むけれど、むしろ巷の生殺与奪に濃厚に関わってくるのだから、グローバルにえらいことになりかねない。
経済学が誕生後、ということは大切な考え方だ。
それ以後は、経済の営みの失敗で飢饉を無視し得ない規模ではびこらせるようなお国柄は独立国と見なされない程度の暗黙の常識がきっと育っている。
またそれくらいの技量を緻密な人脈として育ててきている。グローバルなネットワークも機能させている。
ただしどこかに犠牲になってもらってタイプの旧発想を多少引きずっているだれかたちが細々といるかもしれない。
ワクチン接種死に対してその少なさから危険度を無視できると思えている諸氏は相当に危ないと指摘できる。
またニュースからはグローバルには欧米系に結構そういうタイプ諸氏がいらっしゃることもニュースから鮮明だ。
けれども、しっかり表立ってそれを問題にできるお互い様をそれら危ない連中も認めてそうな時代であることも認識できる。
しかし、ある条件付けゆえにじたばたしにくくしているその条件付けをしっかり問題にして、株価上下動で無い暇を浪費しなくて済む経済の営みへと変更することも待たれている。
お隣中国でも給料が上昇して品物によっては売りにくくなっている。競争相手が生じ易くなっている。
手仕事だから単価をどうしても吊り上げざるを得ない。となって、衰退していった貴重な生活密着型発想で衣食住を成り立たせてくれていた手仕事系が列島では量産タイプに入れ替わって、実際には不便を囲っているのだ(最終的には廃材にするための新築建物。空調新設・維持にべらぼうな出費が要る建物などなど=めぐりめぐっての社会的費用概念)。
給料を上げる=うれしい以上に実質生活の必要を満たせる・・で終わらないマクロな現象が即ついてくることをお忘れなく。実質の支払い能力向上を目指す経済の営みをひっくるめた工夫で政治や行政が策をこうじる必須に気づけるようになった現代ということを意識できる。グローバル環境だからこそ偶然安く購入できている。なぜなら未だに安い給料で仕事してくれる差異を活かせるグローバル環境が使えるから。遠隔地貿易のノウハウはそういう使われ方をしている。コストプッシュ要因の使いこなしには余程お工夫が要る。
それに将来不安の条件は、グローバルな作動系が不安をあおり続けているのだから、そうマクロで安泰・出費、という流れにはなりにくい。あおることはできても実質がついてきにくい。もう少し言及が必要だけど、それ以上に、なぜこういう指摘になるかに触れておいたほうが良さそうだ。
大局の発想として、素人考えを一つ。
給料の多少が生じるのは潤滑油の一種だと見なせる。でも、極端な支払い手段収入の多さは経済の営みにとって障害となる。産業のこまやかな育ちに影響する。
いつも出費の構造が規模とかにおいて各地場面で読めている状態が相応しい。
かつてのように町街の栄枯盛衰によって商業部門が移動しまくるようなことは昨今では想像しにくい。大きめなスーパーなどはそういう事態を引きずっている。
情報・仕入れ・・などを工夫して卸部門が頑張れれば、途中での余分な費用分が邪魔にならないくらいの付加を提供できるならば、巷の小規模な商業部門で相当に機能する。
廃棄に回らない割合の持続性でその時点での商業システムについて評価可能と想像する。
とかこんな話を続けるのではなかった。
財布の中身というか、自らの意思が通る形でどれほどの規模の支払い手段を采配できるか。そこらに生きがいを感じてもらいたい世の中にしてみたいわけだ。
手取りの給料ということでは、そう大した額は列島試行タイプでは、得られそうに無い。
しかし、仕事上必要な電子機器も含めて、仕事の費用として手に入れることができる。更に、企画に応じた予算をその立場次第でたっぷり使えるようになる。
総理大臣になれば、相当な額について責任ある立場を経験できる。
今時は金融業の中で、桁違いの支払い手段の形見を動かしてしまう経験の持ち主が、マシンと同じように活躍していると想像するけれど、追々、マシンだけになるのかどうか。
20世紀初頭にUSでは株の売り買いで資金作りして、なにかを起こす考え方が時代を作るような人々に継承されていた。そういう実のところを良いこととしているかどうかわからないけれど、批判にさらされることなく、株式市場の良い所を育てるのではない発想で株価上下動にある人々を誘って膨らんでにしがちにしてきた。
ばくちだから当然にもヒトは誘われたら後はくせになるだけで、熱中できるし、(得した経験も介在しながら)損してさらに離れられなくなる。そういう人々を沢山作って、発言させて、一体、世の中、楽しくなるのだろうか?と素人的には思える。
仕事を離れると、ほとんどの諸氏は、無力な状態をかこつことになる。
でも一応国民国家との関係で生活のいくばくかを保てる。
その不安からか、給料の多さを、仕事での予算行使力より求めがちにする。
それなりの立場に就けなければ、大した予算行使能を得られるわけでもないし、というのもある。
それでも、相当なことが可能になるように支払い手段の流れに工夫を加えればよい。
そしてそこそこの老後生活がほとんどの人々に待っている。
中間層育成発想は、一時の中小企業のどら息子娘たちの過剰浪費の格差現象ニュースからして、世代継承が難しいアイデアと察する。
仕事の場でこそ機器にもめぐまれ使い方にも精通できて、しかも多少はあるけれど予算を使いこなせて・・という満足感。しかも仕事の結果としての世間とか顧客の受けをもろ体験できたり。ここらは高給取りかもしれないけれど、医療のような直接的な体験現場こそが、その醍醐味を発信してくれそうだ。
介護でも本当なら、そうなっているはずなのだけど、ストレス負荷に負けて、八つ当たり系が育ってしまいがちにしている。年寄りは指図する相手にされがちだ。年寄りにとっては踏んだり蹴ったりの状況だけど、我慢強く技量を学べてた後の年寄り諸氏からの歓迎を体験できないままに不満とか不足感とかが積み重なって人格的に多少問題かものような指図人間になりがちにする。つい言ってしまうのよね、では済まないことに気づけなくなってしまうわけだ。
それだと折角の仕事の長い人生時間がもったいないことになりかねない。
だからどの職場でも老後じゃなく、現役時代はそこでこそたっぷり試行錯誤できる時間を得られて、ある程度の満足感とともにリタイアしての老後を楽しめるように、という経済の営みの形を素人的に前提して、発想しているわけです。
とはいえ、ある時期以後の条件付けゆえ、隔靴掻痒状態になって物も率直に言ってどうなるものでもないし状況に近いところで面倒なことを考えないといけなくなっているといった辺り(株価が下がったらどうなるかわかってるでしょうね?!の脅し対策)は、発想がどうだろうと、早めに解決しておいた方が気持ちの健康には良さそうだ。