連載は続く~SF掌編『対話、議論、激論、会話、寄り合い、縁側談義の場を持つ』編


合意形成方式のうち、下々からの意見を多数決を重ねて集約していくタイプの最善とも取れるのを、右も左もないということで採用したかつての小泉政権が、内心凄く嫌われているということを"半"面鏡にできるかどうかは、多分、貴重な指針だ、と素人流政治の論はまず発信してみたい。
民主主義と建前はそうだとしても、結局はごくごく限られた筋と中身が時々においていくらか近い形で成る、というのが実際のあり様だ。
そう割り切って、わかったつもりになれる忙しい諸氏が政治や行政の担い手という場合、やはり最善っぽい方式、タイプが選ばれるし、表向きはどうであれ、実質のところでそれに近い方法を採(と)っている。
民主主義はいつも理念のところを感じて、実際に為される、折れた内実について、心身において理念との距離次第の熱い反応を生じさせられることが求められる仕組み・理念だ。
でないと、実際の過程がいつでも形骸化しているというリアルを下々はがっかりの方でしか受け止めにくくする。実際に携わる諸氏が、どう感じようとそれは通じにくい仕組み・理念の実際化行為に近い。
真実とか正しいか正しくないかということの法治由来の判断の過程を一応表向き機能させながらも、"正義"を心身で使いこなせるくらいの経験ほかを心身に育みつつの、とても強健なより多くの人々が、内心弱い者のと思えているだれかたちを、法律に照らして、絶対的ということではなく、ありがたい対処と受け止められるような様々な工夫に加担してくれて、総合芸術のような集団の営みとなっていてくれれば、それなりの落ちつきは持続しうる。
だから、という脈絡ではないのだけど、意見というのは、様々な人生を背景としているから、個別的にはことばのニュアンスがそれぞれに異なって息づく、ということを踏まえられるならば、自分こそそれらの代表ということの困難についていちいちふれることもないくらい自明なことともしておけ、けれども、漸近線を張って、支持者諸氏からこれこれの意見、要望が出ているのだからということをより政治的な争点にできて、予算のなんらかと連結していけることは、それなりに意義を見出せる、政治家ならではの所業と見なせそうに、素人の政治の論からは指摘してみたい。
だったらとここはつなげて、率直に思う所を、意見扱い上、軽重の忖度度を欠いた関係性を育てていて、いつでもその種の会話、論議が可能な人間関係は不可欠の条件と政治系の集団の営みには指摘しやすい。
と、いう辺りは、これまでにごくたまに素人流に発信はしてきた。ので、多分、またか・・と思われる諸氏もおられそうだ。
でも、ここらは今でも新鮮なはずだ。
かつてのお金が結局かかる仕組みともみなされたり問題視された"旧"自民党の「派閥をしくみに抱えたタイプ」は一方で、基本、建前も実質も仲間(地元での政治活動の熱烈さ度合を共有できる間柄っぽく(現野党勢がそこらの弱体を内部からも外側からも指摘される辺りとも素人でも言えそうだ))意識を底のところで持ち合って、激論もこなせる関係を成り立たせていたように今では、定説にしていると、素人伝聞では押さえている。
近い関係が、やっかみとか色々、潜るタイプの陰湿系を生じさせがちにもするけれど、そうならない傾向を帯びた営みが進行形としていつでも動いているようなら、単なるディベートタイプの論破合戦にしないで清む、実質の所に届くような論戦なりを論議なりを可能にしてしまう。それこそヒトの心身が活性しているわけだ。
ということで、こうことばにすればお分かりになる通り、欧米ノリを単調に真似して、与野党で論じ合うということの形式倒れということも充分に起こる。
ここらは身近な国会論議の有り様に飽き飽きした層がいたとしたら通じやすいとも思える。
実質の所を他人同士、そう簡単に気づき合えるものではない当たり前を前提にできれば、ことばのニュアンスをお互いがわかって、さらにそのつながったことばの群れ相手になにを含ませているのか探り合えて、とりあえずなんとかわかってくる。それを更にともしも時間があるならば、そういうお付き合いを経て、幸せな・・というか、円満をめざせるかもとかお互いに勝手に想像し始めて、でも、いつでもことばはそれぞれが心身において育てているから、同じようで、とことん外れまくる性質を帯びているし、それにちょっとばかり気づいて、余計な時間を費やすことになる。けれども、政治の実際ではそこまで悠長(ゆうちょう、気なが)なことはできっこないので、折り合いを付けることになる。
政治分野では恐らく、集団背景を意識しながら、"落としどころ"を探る。ここらは、全体の合意を得られないとしても相当に満足のいく、少なくとも、禍根をだれにとっても残さないタイプの下々にいきわたる説得工作も含め、ことばを選ぶ。
そういうことの入り口を探ることすらできない与野党関係ということになるのが、政治についての与野党発想の底を成してそうな事には、大方(おおかた)の諸氏においては気付かれていると思うけれど、表立った、基本のテーマとはなってこなかった。
今、与党である政党が、既に旧として捨て去ったシステムを内包した派閥の代替を、ちっとも採用しようとしていない。ということは内発的な議論の質は、追って知るべしの現状だろう、と素人は推察する。
一方の野党も、下から吸い上げる熱情を昔の自民党を知る諸氏からは実質激しく、遊離した理屈屋集団じゃないの?とか揶揄(やゆ)されがちにしている、と素人は押さえている。
下々は自らの利害に率直だ。だから、少し上の方の目線を心身化できているだれもにとって大切な事に関心を向けられるだれかたちにとっては、少々煩(うるさ)くて、煩(わずら)わしい相手たちだ。だけどそんなことはわかりきって、しかもそれも実質の本体であることに気付けるなら、面と向かって、聞く耳を持てることもごくごく当然と気づけないとダメだ。列島の使い慣れたことばに、聴くだけならタダ、という言い回しがある。
タダほど高いものはない、というのもあるから、そこは要注意なんだけど、でも、しっかり身を寄せて、目をとか表情とか、心身の状態変化に細心の注意を払いながら、見た目鷹揚に応じて、しっかり聞けて、ということができなければ、巷の政治を吸い上げきれるものではない。とにかく時間をケチることはできない。
だから、一方で表向きの形に執着する左系を自任する政党の弱点の一方で、汲み上げる吸着力ではしっかり地力のある勢力が野党の選挙に加担して、激戦小選挙区を演出できた事態を相当に選挙対策上恐れて、いつまでいっしょにやるんだ(ここらは野党内で、実際的に有意義なきっかけから離れることはいつだってありうるし、もう少しいっしょの作戦を練るということだってありうる。よそからいちいちケチをつけられる問題ではないと素人目には映る。ジャーナリズム系は外野的にどう反応するかを楽しみにして、ケチに加担する発言が目立つ。いじわるとも思えるけれど、ジャーナリズムのりの本領といったところのはず。動かしやすいかもと"急所"をついているのだ)等のニュアンスを含ませた論難ブームが現与党勢には生じている。
自民党の人脈を引き継ぐ勢力の中に率直な論議を可能にする集団の営みを生じさせうるのか、それとも、野党が結集しながら、離合集散も当然起こっておかしくないけれど、率直に広い意見の層を含ませた旧自民党のような太っ腹政党を成り立たせて、それこそ列島版政治が気付かせた、論議の実質を支える政治集団のあり方の一つの答えを、更に発展させて、更なるもう一つの答えとできるかこそが問われていて、そこには、欧米の持ち出す、建前と本音が実にこんがらかって持ち出されて、それにどう応じられるか次第で、その先の将棋とか囲碁の状況(自らどつぼにハマるか、自らの自由度を残すかなど)がとことんな位違ってきてしまうタイプの仕掛け対応力のない、ただ行政を営み知識だけ持っているような政治集団とならないための、余分、それこそが必須のような集団の営みにできるかも、試されている最中だ。
しかも、発信力の試行錯誤は、実質たいしたやつらのはずだけど、法律に照らして、安直に許すわけにもいかない主要二人物は未だ不自由なままだし、そうは言っても、欧米の中枢にはそういう自由な発信を踏まえた論議とか巷への浸透を経た政治過程を必須とみなしている人々が少なからず力を地力に控えさせているように映画とかからは学んだつもりになっている素人観測。
なんだかわかりにくい仕掛けを持ち出して、イニシアティブ合戦にもっていかれて、実際には、のところに後々気付いて、表向きを信じすぎたなぁ・・と後悔しても、航海の海原は相当に広かった、になりかねない。なのに、実は、中枢では、芯のところの理念をお互いにできるような層がしっかり息づいているはずだ。といった辺り。
だけど、細部と大局において利権とか目先のところで、がっぽりしておかないと、安心できない切実さバイアスも働いて、それは死活問題的に受け止められている場合もありなのだから、油断なんてできやしないリアルな日々刻々というのを意識できそうで、そこらを踏まえるなら、ちょっとばかり信じ合えそうだけど、そこは、お互いが実際に頼りになれる脈絡がそうは合致させる機会もないだろうから、表向きの論議に乗りながら、しかも、理念共有の試行錯誤に邁進するしかないのかも、とちょっと説明不足の結論を持ち出すことになる。
やつらはネットを介して相当にスパイシてるし、邪魔もしてくる。とどこかが派手に発信するなら、自分たちはそういう下手なスパイ行為や邪魔はしないよ、もっと上手(上手)にやっているよ。と言っていることと同じだ、と若者諸氏には今時のメディア付き合いに素人老人流のヒント発信をしておきたい。
しかも、ただ疑心暗鬼でやっている間柄ではない。そこには深謀遠慮という智慧の部分が作用し合っていて、放置も危ないけれど、近現代へと至る試行錯誤の賜物(たまもの)的な社会工学パスカルの原理応用面も含ませていることを、素人流ではあるけれど、こちらも一つ指摘してみたい気がする。
それと想像だけど、大局が動く各局面と密接に関わり続ける費用が莫大と想像できるならば、どんぶり勘定タイプで相当の"入り"が目論まれるはず、と見なせる。それが、今だったらワクチン業界を介した支払い手段の散らばり方だ。
映画シナリオ的には、その流れを察知して、『華麗なるかけ』タイプのニヒルなやつが動き出すか、『ミニミニ大作戦』のようなやつらが大金をせしめようとするかして、娯楽を提供する。
リアルには、税逃れ圏に多くがいつの間にか流れて、賭博(とばく)場を経由して洗浄されて、数年後に、ぜいたく品系のひそかなブームが訪れておしまいか、そのうちの何分の一くらいの規模で、きめ細かい関心を下敷きにできた投資資金として、新たな産業を育ててしまうか、とか、空想めいた話はできそうだ。今時は、株主もグローバルに広がっているから、各地性くらいは間違わないと思える。
ポトラッチ発想を信じ込めているだれかたちがいるならば、もう少し、巷に元気をもたらすばら撒きが、支払いのその先で生じる。
ちまちま計算高いうえに、簿記に熟達したやつらだと、ケチなめぐりになってしまう。
昔から、作り過ぎて、どうしても局所に蓄積されがちな"財"の取り崩し方には苦心していて、安直な情景でよしとするならその場でたっぷりばら撒くポトラッチになるだろうし、受け取る相手が大勢なら、たとえたっぷり撒いても個々にとっては少額ということになる。
でも、一時、食つなぐことができて、そこで準備する賢い連中もいるから、将来的には巷の地力を保つ層が生き残って、その後の育みに加担していける。
貸し借りの仕組みががっちりしている営みでは、そういうばら撒きは成り立ちようがない。
貸せるほど裕福だっただれかが、貸したばっかりに、食えなくなって全滅なんてことも夢のような話ではない。
借りられて、可能性を探れるまでは良かったけれど、その先のもう少しというところで借りることができなくて全滅、ということも起こりうる。
しかも、相場を操られて、貸し借りの相互作用を安定的に模索することも難しい時代だ。
それでも、ヒトの智慧がそういう不可抗力を極小にして営み本意に近づけるくらいのアイデアはどこかしらで模索され試行錯誤され続ける。