連載は続く~SF掌編『漢字のことを田中克彦氏のヒント発信から』編


介護を仕事にするようになる以前ならば、新刊情報に目を通しつつ気になる著者本を追う程度のことはしていた。それを、介護仕事に関わって以後の十年ばかりはしてこなかった。
ということで、久ぶりに漢字関心からみから田中克彦氏の『言語学者が語る漢字文明論』('17 講談社学術文庫)の第三章 漢字についての文明論的考察を読んでいた。
氏は素人把握の範囲からだと漢字はことばに不適のように理解されている。
ここらはもう少し説明が要る。
漢字をことばとして使う場合、それは象形文字のように振舞う。形と密接に意味が関わるように使う。だからたとえばより沢山の形(漢字)を知ることがもの凄く知見と関わってくる。物知りは大変な量の漢字を知っている。
対比として音でことば文字を操る系統を持ち出せる。
大抵がそうだ。
そしてなんとお隣中国ですら、音でのことば運用にとっくの昔から気付いていて、改良してもきた、と紹介されている。つまり、漢字というか象形文字系として運用されるタイプの(ことば)文字についてはヒトは実際的な感受性から問題については熟知してきたし、中には改良を集団の営みにまで持ち込もうとしてきた。
とそのノリに乗せられてずっと読み進めてしまうと、何気に漢字ってただもぉ問題だらけのような印象シャワーを浴びかねなそうに諸氏は思えてしまうかもしれないけれど、言語学素人の当方は少なくとも、漢字の特殊な可能性に気付かせてもらった気になった。
田中氏もちらっと触れている。
音にゆだねることば文字使用は、実際の現場と密接に機能してくれる。意識することなくスラスラと使いやすい。だから運用の集団の営みとより具体的に密着しやすい。その意味で制約を持つ。その制約を見ないことにして、他の運用系に強いるようなことをすると、途端に問題を生じさせやすいことは、直観的にも気付けそうだ。
外国語をつい翻訳する頭で習得する気になるとか。
音を音として流し込んでその音が心身に響いて直観的に意味作用にさらされているタイプを即席ではこなせない。なにげなくおしゃべりしてしまうことばの不思議に心身をさらすことは母語では当たり前のようにできるのに。
ところが漢字ならば、押しつけがましくなくグローバル通用言語に使用可能なのだ。
これは漢字使いだった昔の各地のだれかたちが証明している。
読み順とかに一応共通性を持ち合っている程度で、字面を見ればお互いにかなりの知見を交換し合える。ただし、今でもそうだけど、五言絶句とかその類の漢字文章を見て、表現の制約を感じることを、中国ではどう普段の会話に出来てるんだ?と素朴に思うようなことは、実際には口語は口語で通用させているのだけど、それを思い浮かばない田舎のだれかにとっては、不思議でならない漢字羅列表現の制約と映ってしまう。
その制約に記憶する語数という制約も付くのだけど、そこらをクリアできると、どこのだれだろうと相当なことばの交換を可能にさせるのが漢字だ。
慣れれば、和習のようなことも起こりにくい。間違った使い方で通じ合う場数をこなして慣れてしまうと多分和習にしてしまう。
音頼りのことば文字を強制することはそれ以上の問題を惹起させがちにする。
文字に意味がくっついた象形文字タイプのことば文字を世界共通使用文字にするなら、その選択時にはそれなりに論争とか込み入ったことも生じるかもしれないけれど、固定化後の使用段階で問題は生じにくい。先の二つほどの制約(文字を沢山覚えないと実用にしにくいことやどういう順で読むかの約束事に慣れることなど)をクリアできるなら、一見で多くを理解し合えるような実用ことば文字にすることも可能というわけだ。
だけど同じ母語を心身化できている人々間では話し言葉にしろ書き言葉にしろ母語の音を交換するのと同じように使いこなせることば文字に近づけた使用のあり方の方がきっと便利だよ(それ以上に会話くらい自然にことば文字を使えてしまう)、というのが田中氏のヒント発信だったように受け止めている。