連載は続く~ SF 掌編『千数百年程度はごく短いけれど中味はたっぷり』編


気をもむ道綱の母と功成り名を遂げる藤原兼家氏とのワイドショーエピソードともとれるのが蜻蛉日記のノリの辺りのようだ。
大量出版していたわけではない。写本の回覧?だったのか、読みたいだれかたちが必要部数くらいはお互い書き写していたのか。
今も昔も、個々の職場でのあり方は、一方に張り合いの機会を得ることもあれば、人生の一コマというイメージを持ち込んで内的に問答するような機会とも成りえてしまう。
だからちょっとばかり寂しく感じるひとときということも一日のうちのつかの間、ないし時たま、そして年間にすれば結構、しばしばめぐってくるような境遇の諸氏の方が多かったと想像できる。
だから輝かしい境遇の人々の間でのちょっとした人生模様込みの明け透けに近いエピソード、話を読めることは、それなりにそのつかの間を豊かにさせていたと素人でも想像しやすい。
でも、蜻蛉日記はまだ出だしの頃の作品だ、と今でも日本文学史の年表からは指摘できる。
伊勢(藤原継蔭の娘)という歌人の日記風文章も含む歌集も出ている(土佐日記と近い頃)。
人付き合いが相当に関わる仕事に就く(伊勢は宇多中宮(藤原)温子に宮使え)藤原氏の娘諸氏にとって、これら日記や物語の類は相当に娯楽+事情通用情報として重宝されておかしくない。
マスメディア未発達の時代であっても手法としては、ヒトの知見として、既に躍動させていたと見ることを素人はしておきたい。
沢山の藤原氏の娘諸氏が、たとえどのポジションに就くとしても、日記や物語の新しいのを読める境遇であれば、そのポジションに飽きることなく、持続的な五感を使いこなしての受発信も可能になる。


人口圧によって、狩猟系は既に飲み込まれ、どちらかというと圧しの強い農業系が大いにはびこってしまっている。だからその意味での争いの種は尽きそうにない、そんな世の中が営まれているのだけど、自らの振る舞いこそが世の中にとっての不都合な出来事と関連があるかのようなことばを言う天皇が記録されているように、また、仕事ができたり人格がしっかりしているだけでは足りず、一定の蓄財も要請されるようなことも記録されていて、確かにと素人は言っておきたいのだが、かつては、呪術系指導部のだれかが責任の取り方を込みでそのポジションを担っても居てそれはそれはの過酷な位置がありえたのだし、人口圧発揮のごく初期を記憶するリーダー層にとっては、理不尽にも人口が増えてやりくりできるようになる喜びの一方で、格差がじわじわと内実を持ってうごめきだしたことに気づきつつ、未だ独り立ちするまでの面倒見同様、大変な時には狩猟系の人々ほどではないにしても、助け合いはできると算段できていたのが、追々人口圧はそれどころではない実情量へと変化させてしまって、リーダー層にとっては、ほかの誰かにそのことを任せる意味で、蓄えが要るからな、と言うようになっている。
だから古代列島の状況は今日とそう変わらない。
巨大な会社が人々の面倒を見ることを可能にするのか、税金という仕組みを基礎にしたまとまりが面倒を見ることをしやすくするのか、など今時がとりあえず選択肢のように持ち出している懸案も、かつてはそれも含めて多岐にわたる選択肢をすでに提示していた。
けれども、そういうことの場数が足りない時期だったのかも知れず、納税を基本に上手に使いこなす仕組みは未完のまま、試行錯誤を今日まで繰り返してきた。
イデアを持って、それを実現するには支払い手段のなんらかが不可欠と、会社こそが必要に答えるのに一番いい方法だ、と見なしたがる脈も多分おられる。ところが意外にも、ヒトが成すということからは、起業・仕事への動機付けがそうであるようについ儲けを単調に仕向けがちだ。儲けをめぐってやりくりすれば、結果的には良いことが成就するのさ、と言ってのける専門家筋も時々いらっしゃる。けれども、残念ながら、今の時点では、率直に指摘するならば、儲け動機を持ち込めば、嫌でも、その単純さのみが作動し易い。色々考えるのが面倒になりがちなのが、ヒトのたとえば脳のようなのだ。
どこでもその圧が作動しやすい。そうではないやり方がいくらでも可能なのだけど、できにくくしてしまう。いざスタートすると、その強靭な指標を介した良い点を取りたくさせるようだ。処世の水準で、多分、それがまかり通り易くなる。本音がどうこう言ってもはじまらない。実のところで儲け指標が席巻する様を心身で受け止めて、それに倣う。
自己破綻している(動機付けないし)目標設定には違いない。
とにかく人口圧は、個々の力量ではどうになるものではない規模でヒトの生活を支え合うところまで来ている。
かつてのリーダー層の心身がしっかり受け止めていたリアルを、今時は人口規模が変化してしまって、リーダー層すら持ちにくくなっている。まして、”下々”においておや。
なんのための蓄財だったか、もう忘却の彼方だ。
かつてなら、福祉のためというよりは独り立ちとか、集団の営みの中で仕事を見出してもらって、それに就くのだけど、大変な境遇を得たような場合、復帰できるような支えを担うだれかがしっかりできていた。でも、列島古代くらいの時期には既にそれは過去の思い出だった。
それこそ、その今日の姿こそが進化した姿で、過去のリーダー層が直感するくらいの責任感として抱え、描きえた役割など、社会的な営みのどこかしらに機能として担わせれば良いのだ、程度に、考える向きのいらっしゃるとは思うけれど、歴史的な変化ということを忘れてそれを言ってのけた場合に限っては無理の暴言とハッキリ返すことが可能だ。
でも、歴史経緯を踏まえた場合、それなりに説明することばを用意することで、考え方の検証を可能にする。
見かけの印象とは違って、農業を主としつつ様々な仕事もこなす百姓系の方が狩猟系よりも貪欲で攻撃的だったことが、どうもわかってしまっているようだ。
でも今日では、多くが給料生活者となっている。農業の場ですらそうしようとか考えられるようになっている。
だから人口圧の元も縮小傾向だ。それでも、定住で農依存の大局に変化が無ければその属性は続く。
だれもがより多くの他人の面倒まで見る役柄を踏まえた立場意識は持ちにくい。
それにそのイメージだって、実質改良が要る。
映画「コマンチ」のように体の不調にも関わらず社交上の都合で無理してリーダーの命の縮めるようなことを繰り返していたら、そういう心身の向きを養ってきた人々の数は極端に先細りしてしまう。民主主義だろうとなんだろうと、集団の営みにおいて、その気持ちのところをたまたま養えているかどうかというのは、経営関心にも似て、欠かせないところだ。
ヒトが沢山になって、それぞれがたとえば技術とかに習熟して、分担し合って集団の営みを結果的に支え合える一種自由っぽさ、縛り感の薄さを体感できるような広がりを土地柄によっては得られている。
だから人口圧イコール、しょうもない事態ということでもない。
方向性をめぐっての難問にしてしまうかどうかは、ヒトがどういう制約を実は発揮し勝ちか、といった辺りの知見をもう一度謙虚に冷静に研究・探索・整理できることが必須のように素人は感じているところだ。
列島古代のある時点からの中央集権化・中央集権事業が紆余曲折してしまうその時のヒトという事態。
何かがわかってくるはずだ。列島の場合、そうわかりやすい事例なのだから、世界の様々な土地の人々にとっても良い参考になってくれそうにも思える。