連載は続く~SF掌編『年寄りの余計なお世話をひとつ』編


 いくつかの前置きを。

 最近は再読もしていないのですが、かつての広瀬本読書から、"ロスチャ"脈のなんらか、主に 19、20世紀を通じた世界史における関りの独自性についての先入観とその後ということで素人個人の感受のあたりは何度も紹介してきた。
 極度の危ない連中で近づくつもりにさせないには充分なのだけど、市民社会構築、形成に当たってはまったく出鱈目な"奴ら"ではない辺りにふれてきたつもりの素人感受という辺りに気づいていただけていれば幸い。

 "市民社会的"ではない、たとえば、性別ということの扱いのそれまでに経てきた大変な状況ゆえに極度に変形させた途上を想起しておいて、その途中下車のようなあり方の中、変化を模索、試行錯誤中のあたかも強権的に見えてしまう土地柄もちらほらするし、一つの制度的体制下にもかかわらずリアルな土地土地の表現をそれをより率直に語りうる媒体次第でその様々性が露骨にわかってくる土地柄だって先進諸国にはいっぱいだ。
 家族構成次第で、その家庭的雰囲気が多くは何気に良好だとしても、感情のたかまりの処方を鍛錬できているかどうかとなれば、蓄積次第のところがありそれもまたミクロの様々としてグローバルには、ちらかって各土地柄において表現されうる。
 とはいえ、世の中、大勢として変化を受け止めざるを得ない各地も充分に想起できる時期と素人は押さえているところ。
 そこらを先日、ドラマの役柄を巡ってちょっとばかりふれてみた。
 今回も、そこらを少々加えておきたい。
 最初のところと関わることをここでも触れてから。
 USの映画の数々(といっても列島映画館で、テレビで上映されたものに限る)では諜報や軍事担当の諸氏の困惑を赤裸々に表現してきた。
 煎じ詰めたところはデンゼル・ワシントン氏主演の映画を引用してふれた。
 良いこととか悪いこととかの判断基準を人生の心身部分において失いかねない仕事をある意味絶対的に強いられる。だからその仕事から離れて世間の"常識"世界で判断基準とはとてつもなくかけ離れてしまっている"自身"と向き合わざるを得なくしてしまう。
 中には極度のワルの稼業で暮らすことを選ばせる連中も生む。
 そこらは大国の秘かな役割ゆえに必須だけど表立って自慢できる仕事ではないのに、だけど必須ゆえにだれかが担うという大国病の辺りを、素人なりにふれてきた。
 これまでの惰性で大国を担う場合、その役割は間違っても外せないのだ。
 相当にヤバイ場面だし、"19、20世紀"が生んだジャーナリズムは"底"のところを暗黙にして触れずにやんやと(片方の立場での問題視から)ことばを投げることになる。
 たまたま見た小杉健司サスペンス『決断』では、役柄として、浅見光彦役でもそうだけど、人柄とか決断する本体として物足りないムードを醸す役者氏が、話の設定とかが上手く合えばそのいつも同じようなキャラを演じるベテラン役者氏(でこの『決断』では、違った意味で物足りない位置を得てしまっているのですが、テロリストであるオヤジ役だった『科捜研』(これも第3シーズンは巧みの助走を感じられたけれど、他のシーズンは・・・と素人感想)ではそのいつものキャラづくりが馴染んでいて第3シーズンのりではないけれど、ドラマに誘ってくれた)とでドラマ上のメリハリが薄められていたようだったけれど、ストーリーとしては、正義をいかにリアルにするかの辺りをこだわる役柄をそれぞれ演じるようなドラマだった。
 正義のことは先日もふれたけれど逆に便利に使えるので、乱用もされがちで、決まり文句として正義面するなとか正義、正義と軽く使うなの類も発せられがちで、それなりに文字ことばの軽さということの実証例だったりもする。
 ドラマの中で具体的には検察の資金の流れが怪しい、ということで、問題視されていて、問題そのものへの対し方が正義と関わるという扱いだった。
 この問題を前にして、先のUS映画で表現されてきた深刻な事態が大変に役に立つ。
 しかも、そうではあっても、正義を貫(つらぬ)くべし、という言明もありだけど、更に困ったことは、困惑した専門職諸氏のセリフは正義の置き所に関してであることだった。
 合法性であってもかまわない。
 日常を円滑に営み合える法治の営み方は必須だし、大事なことだ。
 といってことば通りの営みが言葉、文字ことばの制約を顧みない暴挙と化すことだって大いにありなので、そこらの実際上の営み方は、普通に試行錯誤され続けている。そこらはリアルに、生々しく、現場の(どの立場であったとしても)担い手諸氏の苦心の積み上げだ。経験的に積み上げてきている。いつでも試行錯誤の途上であることに耐える一方で、満足感を経験できたりで糧ともする。
 もう少しドラマシナリオとか探偵小説っぽく言い及ぼうとするなら、秘密工作、だれかを救うために、それが法治の現状とはうまくかみ合いにくい場合の秘密性保持の下、作戦が敢行(かんこう)されるような場合、予算を引っ張ってこれるのか、できないとしてもやらなきゃならい場合、身銭を切るのか、身銭を切っていたらいくら収入があっても足りないとかで、秘密の資金源を探ることになるのか、という究極に近い選択を現場と管理部門は迫られてしまう。
 だから公的部門であるよりは私的部門に多くを委(ゆだ)ねて・・という話も一見説得力を持つように受け止められそうだけど、素人考えからは、私的権力肥大の危険よりは法律の縛り策を持ち込みやすいのを上手に使いこなせる限りで公的部門にできるだけ限っておいた方が市民社会にとっては得策と見る。公的立場ゆえに困惑の極地を体験できたはずで、民営化してそれぞれの勝手で生活の都合でたまたまその仕事についてヤバいことをやりまくるというのでは、困惑の根のところを持ちにくくする、と指摘してみたい。
 秘密資金源は・・・、(ここからもしばらく探偵小説のりなのでご注意を)大抵の場合、麻薬の類だ。銀行強盗的な現金を強引に他から奪う手法も諜報組織であるCIA系のお手の物の一つであることを、1980年代から90年代頃に放送されたドキュメンタリー番組の中で当の担当者のインタヴューとして素人にも教えてくれた。
 寄り道話になるけれどだから麻薬捜査とか付随的に薬からみだった事件の捜査は大変そうだ。隠密捜査部門との"通信"が常時密ということでは隠密捜査になるはずがないので、捜査そのものが、あるわざと放置された脈を故意にたぐってしまうことになりかねない。
 ジャーナリズムの関りもそっくりのことを生じさせる。闇資金で、だれかを助けたり、込み入った権力脈も巻き込む捜査の長い長い視野での活動にかく乱をもたらしてしまう。
 そこらもUS映画ではそれなりにエピソードにしてくれていたと思うし列島版ドラマでもごく時にそういう現代ならではの際どいあたりへ関心を誘うドラマ仕立てに触れることができるようにはなっている。
 前者の意味での物足りなさを感じさせる若い役柄は、列島版に限らない。
 もうすぐ21世紀という頃の作品『主任警部モース』の最終話から一つ前のエピソード、19世紀にオクスフォードで起こった事件をモース主任警部が一応解明してみせる回では、老いて現代版警察にしようという動きを抑えきれないほどになっている時世に、刑事モースのようにオクスフォード出の新人が、身体を壊して休暇をとって仕事には出ないのに有給のポストを生めている状態でそれゆえのお荷物と化している主任警部氏のところへお茶くみ程度しかさせられていない新人くんがお手伝いに来たわけだ。
 その新人くんは歴史を履修して学士卒程度の専門的訓練は経ている。
 モースは新人へ、過去の事件のデータ調べを頼(たの)む。
 そこは慣れたもので必要な場所へさっと行って警察に入るに当たって叩きこまれた基礎教養(多分制度上のしくみの数々)も踏まえて、証拠さがし、証拠品調べをこなす。それだけではなく、建築ほかの由来的歴史知見をこの場合に役立つように披露もしてしまう。
 それらが役者の演技に慣れた年寄りからは物足りない(先の浅見光彦役者氏への感想と同様)振舞い、感情表現の抑制の中、でも嬉々としてと言っていいような心身の軽快さを映像に納めて、こなして、モースへ提供し続ける。だからセリフ上も不満無し。
 モースの探索を論理的ではないという元ネタ提供の教授女史とは異なって、新人くんはモースへの関心を保持し続けている。どう解明するか興味を持ち続ける。
 そこらが見る老人には伝わってきて、事件解明への興味のノリに視聴者に向けて一役買ってくれている。
 つまり物足りない役柄演技にも関わらず、心身の振舞いの実際が解決へと向かう勢いとしえ表現されているので、ことばも感情吐露的ではないし、うねるような誘かけではないのに、ノリは確実にもたらす。ただし、演出の側の了見、(時代がそもそも移ろってしまっているとか)事態対応能力が相当に関わるはずだ。
 モース氏の病気休養はもちろん表の資金で動いている。
 闇の資金で何事かが成されることの検証はプロ中のプロでも判断は難しそうだ。
 だからとりあえず問題にすべし・・・のはずだけど、判別できて、時代の要請の適う方法も探っておく必要がありそうに素人老人には思える。
 ゴルフ三昧の(たとえ警察だろうと)管理職がイギリスにはありがちのようだけど、そこだって情報の経路への介入とごいっしょだ。でもちょっと油断すれば、ダラ幹(部)人脈がいつのまにか構成されて現場の苦労は報われにくくなるし、更には巷に不公平・不正感がたまりにたまる原因となりかねない。
 そこらをだけど、小説レベル、ドラマ・映画シナリオレベルでは先取りというよりは後追いのはずだけど、取り込んで、どう模索可能かの辺りを仮説表現できるといい。
 闇資金なしで、諜報活動できる大国ってなんだ?
 怪しい工作資金なしの秘密捜査って何だ?
 勝手に使える資金を得たいのならすべて民営化してしまえ、で済むのか?
 そしてそれらを演じる担い手諸氏は、若い世代とその成熟していく年代の諸氏ということになる。
 浅見光彦氏のような経歴の持ち主でなくても、オクスフォードで歴史研究のトレーニングを得ていなくても問題関心を誘う意欲的受け止め可能な世代たちが事件解決に飄々(ひょうひょう)と取り組んでくれる。
 できれば自責の念を持たないで済む資金を用意できると良いけれど大判振る舞いもヒトの油断を誘うしで、ケチることも欠かせない。一方で一時的であっても厖大な資金を要する事件だってありだ。
 それらが煩(うるさ)い世論に晒(さら)されながら試行錯誤する。でもその煩さに、ドラマ・映画・探偵小説由来の今日的リアルの中で試行錯誤もし暗中模索(あんちゅうもさく)もしている若者やその後何年かした中堅の現役世代たちが表現してくれる、ヒトの営みの生々しさを今とは違ったリアルの深度において実感しながら引き込まれるようにしてくれる。

 テレビドラマ、映画作品、探偵小説などは一種総合芸術性を抱え込めている。
 要素としての踊り、ダンス、歌、演舞の類が玄人筋を惹き付けるようには一般客を集めて稼ぐことを難しくさせる辺り、と素人老人的には指摘したくさせる。
 歌のコンサートのように演出上総合性をもたらすとか、歌曲ゆえの誘う力や担い手にたまたま誘う力量が集中できているような場合は例外的に稼げそうだけど、大抵は持続性を保つのは難しそうだ。
 2019年時点でのドキュメントだったけれど、富山で演劇祭を成功させて持続性を持たせている超有名なご老人氏と新潟で現代的ダンスの興行で模索中の現役世代氏が出会っていた。
 かつての世代のようには日常も舞台上も表現形を異にする。
 どういう表現媒体として育てるか次第だろうな、と素人老人には思えた機会だった。

 これら前置きから、少々。

 公的部門が黒子の必要な主だったところで活躍してくれないと困るよな、と思っている素人老人からすると、公的部門による強制の使用は極力避けてこそ、だ、という辺りを強調してみたい。
 市民社会の土台を黒子的に担うのだから、市民社会の存立"常態"の基本概念と違(たが)うような振舞いは極力避ける必要を指摘できる。
 本末転倒になる。
 コロナ騒動でなら、ウィズコロナの本筋を忘れないことになる。
 ウィズインフルでずっと自信とともにやってきた現生人類であることを振返れたほうが良さそうだ。
 年々厖大な感染者を生じ、死者数もばかにならないインフルなのだけど、それでも現生人類が生き物である以上ウイルスとはウィズ・・・でしかありえようがないことを、深刻に悲観的にではなくごいっしょ意識で受け止めて日常を失わないことが胆(きも)だ。
 そして、秘密捜査の前段階において闇資金を使ってでもやりぬく必要のある事態かそうでないかを表世界とのコミュニケーション手段を新たに育てて、一気にジャーナリズム役柄に委ねたり世論に晒す手法で、それぞれの油断を抑制できることが、果敢に解決へと向かわせることが大事になる。そこらを一見ほくほく系の豪遊なのか、経過途中なのかを感受のアンテナで納得できる判別できる"ハカリ"を時代の推移に応じて早く作って心身化できる物語の力を使いこなせて置けるようにできるかできないかはそれなりに後々に影響するのでは、というのが、年寄りの余計なお世話だったりする。