連載は続く~SF掌編『ちょっと一息2022(令4)年1月、キミとお茶する』編


 若い年代たちへ、ある種の広場を与えて、その景色(けしき)をキャンペーンに使う、ということを20世紀の後半では特に際立たせていた某大国演出ということを指摘してもそう外していないのではと素人老人はつい思いがちになっている。
 適度な年齢の女や男たちはさっそうとビジネスに励んで稼いでいる。そうでないちょっと困った境遇たちも若者たちの自由の活発さのようには描かない。
 だけど総まとめしてそれが自由を謳歌できるかのように演出表現されてきた。
 こどもや若者はそのままでエネルギーに満ちている。どこでもそうだ。
 境遇によっては大変な苦労をしているだれかたちも無視はできない。
 ただ生き物としての子供・若者年代は独特の活発さを発揮してしまう。
 その期間はせいぜい十代後半までだ。
 20代に身体を酷使して、老年になってその後遺症に苦しむということも起こりうる。
 それ以前に身体を使い過ぎの箇所だけ壊す。それをかばって、他にも支障をきたす、ということはありがちなことだ。
 だからとりあえず20代以降は年寄りの過程に入った仲間たちだけど、それっぽく見えるようになるのはヒトの場合、4、50代頃からだ。
 昨今は女たち男たちがだれも元気そうで、6、70代くらいにならないとそれっぽい皺(しわ)や皮膚のタレ加減を顕著にすることはなさそうかもとも思える。
 とりわけ老人的体験ではテレビ画面経由でドラマの役者諸氏の元気さに驚かされている。
 巷のご老人諸氏も、多分老人だろうと自分は老人である当方が受けとめているだけで、元気な諸氏が目立つ。
 ただドラマの作りは、シリーズものなど特に、延々と同じ程度の年齢で役が十数年間演出されている。
 素人発想的には、たとえ60代くらいからの老人たちでも相当な人数がこの世を占めていると押さえたくさせる。
 なのに、旧来の発想からする現役世代を主だった出演役者諸氏に演じさせるようなことをしている。
 映像系媒体でのドラマは、ある時代空間を簡単に"捏造"できる。そういう一要素を指摘できる。
 捏造のことばは受けとめられ方が危なっかしいけれど、映像の危なっかしさを踏まえるならば、捏造しやすいのだという共通に落ちつかせておいても不都合なことではないと素人老人的に察する次第。
 ヒトは"時代の子"でありそのたまたま居合わせた時代の空気をたっぷりお互い吸い合って、心身が形成されてしまう。それゆえ、演出とか、裏方諸氏や役者諸氏のノリ次第では、その時代のどこかしらとして見る側が感じ取れる時空間が捏造されがちだ。
 でもいかにもということではなく、いつか、どこかにありそうじゃないか、と見ているうちについ引き込まれてしまうような時空間捏造もできる、というお手軽な媒体(映像媒体)だ。
 そのためには、演出や裏方諸氏側に止まらず、当然、参加している役者諸氏皆が、それぞれにシナリオを読み込んで、感じ取れたノリの(役柄に応じた)一端のニュアンスに応じてのめり込める勢いが、相互作用してくれるような機会がどうしても要る、と素人的には想像してしまう。どんな端役でも重要過ぎるほどにその時空間捏造にのめり込めることが欠かせそうにない。
 その相乗次第の時空間がある時代のどこかの一区切りのように、なんとなく"騙され"て観客は入り込めている。
 事後的にも、ある種の人間形成の底のエネルギーとか仕掛けのような世の中のからくりの濃密なニュアンスを空想しながら、心身の変容を自らの試行錯誤にのせたり、相互関係でのシミュレーションすら空想できたりする。
 ヒト集団においては、役割分担的な嗅覚が働いて、だれもが善人でいられるということは通常起こりえない。
 仮に、自暴自棄的なタイプの犯罪的事象が生じないでより平穏な世の中の営みを嗜好するならば、いかなる全体性を一人一人が取り込めて表現として晒せるかのあり方の模索が必用になる。
 たとえば、何度か指摘させてもらった『科捜研の女』シーズン3がなぜ面白いか、とここではごく個人的な解釈での話にはなるのだけど、両極端を最新作に近いシーズンほど一人が演じるようなキャラ演出になってしまっている。対比して、シーズン3では、、窓際シリーズですっかりお馴染みの未だに現役世代を現役で演じれおられる役者氏が一方の堅物を演じられて、更にもう一方に変わり者を演じる、最近のシーズンでは堅物刑事を演じられている役者氏が置かれていて、主人公の科捜研の女自体がその両極端に近づかなくても済むような仕掛けになっている。
 だからか、それなりにヒト的全体性のバランスの中でキャラを肩の力を抜いたようにして演じ分けられていて、共演の脇役諸氏もそれにノって演じ分けることができる仕組みになっている。
 ただし、一種のギャグのりを試行しようとしたのか、そこらの試行の辺りがこのシーズンでは未だこなれていないようでギクシャクっぽさがちらっとだけど時に見え隠れしてしまう。そこらがこなれて、一応シーズン3の完成形が次のシーズン、というような運びも多分可能になる。
 堅物沢口氏演じるだれか、が、小吉の女房の場合、相当な役職を現役にしている夫との生活だから、にじみ出てちっともおかしくないし、一方でちょっとした人格の朗らかさというか軽快さも、爛漫さも、活発さも表現できる余地を役柄に持ち込めている。
 だから科捜研での煮詰まった堅物の変人っぽさ、に行きつく必要はなかったとも思えるけれど、脇の演じ分けがそれを前提のようなことになってそうだから、無理もない。
 かつて連続ドラマ澪標しでは、二人の男を深く"愛し"、しかも、別れたはずの男と劇的なシチュエーションで再会することになって、"愛"が不滅のままではあったけれど、固く交わらない選択を取る役柄を演じていた。現状での愛する現夫は亡くなっていた。でも今の境遇の中で愛を生きていた方を交わる相手として選んで、しかもそれが亡くなっている夫なのだ。そういうシナリオからの挑戦のような役柄を得て演じていた。がなぜこれを持ち出したのかというと、堅物の一面を表現する役柄だから目つきは多少じっと凝視タイプなのだけど、肩の力を抜いた演技で応じていた。品を作るとか、大人びるとかその手の装飾を(当時の年齢がそうさせえたのかもしれないけれど)加えることなく、脇の役者諸氏の中に溶け込めていた。戦中戦後のシーンかもしれないけれど、そうではない時空間ものとしてでも、成り立つ。
 ドラマの時空間つくりに邁進もされているはずの大勢(おおぜい)の役者諸氏が様々な役柄を演じ分けながらそれに取り組む様は、作る側目線での鑑賞でも、観客目線での鑑賞でも、ノリの成果が成ったようなドラマと出くわした時、ちょっとばかりまた何度か見直すかも、で録画し損(そこ)ねたことを悔(く)やんだり。
 で、だれもが目にする溢れんばかりの年寄りたちが若者たち、子供たちとともに、世の中を営もうとする時代相が成されつつある。
 なのに、未だに、ドラマは老人たちがたっぷり活躍するとか主役たちを張るようなタイプはごく希(まれ)だ。
 実際に、ご高齢の役者諸氏でも、多分、現役役者として、セリフも役柄もそれに応じた演技として演じられる"テキバキ"性を養生よろしく、手放しない方々が大勢いらっしゃると思えるので、是非とも、老人たちもごっそり登場して世の中を面白くするような時空間捏造ものをこれからもたっぷり味わわせてもらいたいものだ。