連載は続く~ SF 掌編『シーンを埋める小道具たち』編


2000年代に入って、見た目の様が激変しまくっている。またその最中とも言えそうだ。
ここらは今になって見始めているテレビドラマ(推理・捜査ものに偏っている)から(老人”的”には)ひしひしと感じざるを得ない状態だ。
実際、出来立てを放送していた当時にはテレビから多少離れていたため、ほぼ見ていない。
以下に簡略だけど、どの時期にどういう変化が起きているか並べてみた。

1986年頃 CDラジカセ登場
1990年代 液晶画面普及期
1990年代半ば 第二世代(G2)携帯サービス(アナログからデジタルへ)
1999年 iモード開始
2003年 地上デジタル放送開始
2000年代 キーレスエントリー普及期(四輪車)/SDカード普及/郊外巨大商業施設
2002年 デジカメ出荷台数とフィルムカメラ出荷台数逆転
2005年 インターネット普及7割越え(全国民比)
2008年 iphone 発売(以後デジカメ出荷台数激減)
2013年 インターネット普及8割越え
2018年 4K,8K 本放送

部屋を取り込んだシーンに何が鎮座しているか、それで何か限定的に映ってしまう。
何を使っているかでも、描写に制約が多そうだ。
街の賑わい方、同じ賑わいにしても土地土地による特色をついこの間までそうさせていた条件が今回の騒動で中断してしまった。これも激変の一つだ。

シーンを埋める諸々についての激変は時代設定などフィクションにしろいついつの出来事とかにこだわる場合、考証技が大変そうだ。

その点SFでいつについて、作り手の腕は要るけれど、勝手の余地ありで、少しはやりやすいのかも。

ところで、ヒトの動きについてだけど、激変もしやすいけれど、その昔から活発だったことは間違いないと察する。
大抵のところへはヒトは足を伸ばしてきた。
鉱脈を探してとか、妙薬を探してとか、そこらはヒトを惹きつける材料はいくらでもありそうだ。
だから、といきなりだけど、お金が余るようになったから未開のどこかまで踏み込んで、それゆえにヒトにとっては新参の病原を招くようなことになった、というタイプの話は素人からすると嘘っぽい、矢鱈とウソっぽく受け取れてしまう。ただ出所はと言えば、紹介役にしか過ぎないにしろ、事情通のはずのマスメディアなのだから、ここらも不思議な現象だ。

一般の生業に忙しくして、余計な事に、関心はあっても時間を割けないほとんど(99.999%?)の諸氏においては、きっと未開拓の地が広い地球だからホモサピエンスの数万年間を持っていたとしてもできていないはずだ、と思えてしまうかもしれない。
ところが、ヒトは、遠く広大な海原さえ冒険かどうかわからないしより計画的にかもしれない航海をやってのけないと行けないような各地に相当な昔から移り住んでもいたし、資源をめぐってしっかりそれらを発見しまくってきている。むしろ産業文明化して、経済的に成り立つ事業を予め判断するようになって"その手"の冒険が少なくなったように見えるだけな気がする。
でも実は、"冒険家"たちは今でも健在で、各地で果敢か計画的か、とにかく関心の赴く先を目指し続けている。
だれかがある時に行っていたかもしれないけれど、最近その話は聞かないし、自分も行ったことが無いので試す、めいたことがどうしたって(ヒトのことだから)繰り返される。
資源探しや研究やは、昔も今も、その探索動機の濃さでは同じようじゃなかろうか。