連載は続く~ SF 掌編『近藤氏新書を更にふれる』編


 ・・のはずだ、タイプでふと推測を誘う"決定的"証拠の数々を蓄積させてみることは欠かせない作業にしろ、"冤罪"タイプの事情を生じさせかねないことにかわりはない。
 とはいえ、専門的な鍛錬を重ねてきた諸氏においては、安直なストーリー構成欲を遠ざけることくらいは恐らく簡単にやってのけられる。
 そのことである時期にある種の確実さを提供し続けることを可能にしてきたとも言えそうだ。
 そうは言っても、更に専門家筋諸氏においては、パラダイム論のある種の真実を、いつでも心にぐさっとくるような思考を持ち合わせていらっしゃる。
 そこらを素人的に大雑把に表現してしまうなら、新発見の考え方以後からすれば、トンでも説を通説、決定的な事実、真実と見なすことで、ある時期をやり過ごすための確度をなんとか保とうとしてきたヒトならではの知恵として受け止めたくさせる。

 列島生活では四季と共(とも)にが通常だ。
 だからこの冬そして春、夏、秋とめぐって、冬、春、夏、秋・・そして冬、春、夏、秋と続きに続きつつ、そのどこかしらで個別的には閉じる。
 生き物としてのヒトの場合、変化の兆(きざ)しをちょっとした頃に次の季節の気温とかに慣れのための初期を迎える。
 気温という事実からすれば、いつもその気温の状態ということだけど、ヒトのからだは慣れる。寒さ感が違ってくる。
 しかもその度合いの変わり方が"年(とし)"によってばらつく。
 慣れが、適度に寒さ、暑さに充分耐えられる程度の変化でおさまればそれはそれ。
 ところが、そうはいかないことの方が多い。
 衣食住のところで補う知恵も育ててきた。
 その中味はというと、場合場合に応じて、それはそれはで様々だ。
 先日も少しふれたけれど、保温性がずば抜けた生地素材を石油化学系が生んだとして、通気性とか透湿性とかが足りないだけで、折角の保温性が、着心地に困った方で作用し始める。
 ヒトはだから、即対応することにして、透湿性プラスで生地素材を生んでしまう。
 暑い方でも夏はカキ氷だ、とか、頭に近いところで冷たいのを摂って、しのぐ。
 暑さには日影(日陰)とか微風を応用する。寒さには風を封じて陽を取り込んだりの工夫を採(と)る。
 暑さをしのぐために辛いものを食う。寒さを克服しようと辛いものを食う。同じ汗をかくのだけど、過の方の寒暑どちらかに応じようとしている。
 ことば上の寒い、暑いの真実のところは揺れている。
 固定的に使える気温表現は便利に使いこなさせる。

 ヒトはとにかく"工学"してしまうようだ。
 実体というか真実のところは、流行だとつい数式表現にしたくさせるみたいだけれど、窮極の理論めいたことへの模索は、なかなかに難しそうだ。素人的には、トンでもと安直に見なすわけにはいかないけれど、難解とか晦渋で膨大な段取りを共有することで、なんとか分野の秩序を保てている感じだ。
 でも実際生活を支える精度・確度をその理論的な試行錯誤も取り入れながら、工学的な実際的な解決を志す熟練諸氏が溢れるほどにいらっしゃるおかげで、ヒト生活を支える装置部門は相変わらず、危なっかしさも含ませながら安泰を保てている。
 多忙な日常生活も、面倒な段取りと熟練を不要とできる知恵の数々で、とにかく支え持続可能だし、個々の試行錯誤が保ち易い程度に応じて、修正も(面子とか邪魔する何がしを個々において反省できる程度に応じて)し易いといったところ。


 さて先日ふれた近藤健二氏の新書の話のその後、ということで、もう少しだけ。
 氷河期の間氷期の入り口とその後を列島と関わる人々は経験できている。
 その流れの中で、大陸・半島から稲作とともに膨大な人々が渡来し続けた。
 けれども、近藤氏の知見からすると、中国語語彙が半島・列島それぞれに影響していて、半島・列島それぞれに独自のことばの育ち方を経ている、とみなされている。
 明治以後の経験を想起してみたい。
 通じにくい各地のはなしことばの活況を既知にできていることを踏まえ、しかも今日の通じ易さ経験を重ねて、或る形式をくまなく広めることは、やり方次第では簡単そうだ、くらいのことはお互いの認識にできそうに思える。
 それにもいくつかの経路を想定できて、親世代を置き去りにするような場合とそうでない場合。
 こどもが別のことばの営みのまとまりを学んで伝承の起点を構成するようになるけれど、親たちの世代のほとんどにとっては通じにくいことばとの遭遇と出くわす場合と、ある種の約束事に既成のことば運用を整頓するということで親世代にとっては多少面倒が伴うけれど、こども世代にとっては習得することで伝承の起点としうるような場合。
 何世代にもわたるタイプの渡来を想定できる列島事情から、それとごいっしょのことばの営みが伝わるよりも、列島環境において営まれていたことばが伝承に乗って、それゆえに素としての中国語は共通だったかもしれないけれど、(半島・列島)それぞれのことばの営みとしてその後を迎えている、という実際に納得し易くする観点が要る。
 標準語教育下でも各地でのことばの営み文化の勢いは衰えない。衰えないけれどかつてほど各地版が育ってしまうほどの閉ざされ環境も保持しにくいほど、ヒトの、モノの、情報の移動は活発だ。
 その昔、各土地柄でのことばの営みが育ちがちだったのか、そうではありえない動きが活発だったのか。
 素の中国語が温存されていたということの内実は?
 素人考えからだと、文字を営みの中に濃く関わらせたことばの営みゆえに温存しえた脈ということを想定したくさせる。
 そこで先日は、ヒトの営みが改良されていくことと密接な物資の流通とも関わる交易脈が、お互いの共通ことばないし、交易上必要なそれぞれのことばの安定的使用ということがもたらす伝承可能性の辺りで、押さえたくさせた。
 この脈がヒトゆえに変化させつつ素性を保持させながら伝承を繰り返している。
 その一方で、日常でのことばの営みが、ある範囲的伝承性を持って、生活密着性から、集団的渡来であっても、内輪でのことばの営みと一歩家的紐帯の外へ出てからのことばの営みが別であったとして、時間要素を含む通用性の実際的力学から、半島・列島の脈がそれぞれ保たれることになった。
 主語・述語の順がやけに似てるな、と思えても、専門家からすると、それだけの話で、語彙の方から接近すると、素の中国のことばまでたどらないと、共通系統性を見出しにくいということになる。
 だから、南の沖縄の方で別のことばの営みを保持できていた人々の中から、ひょっとしたら北の交易系への興味から北へも集団的に移って活動していて、なんらかの理由で、列島央部での定着を選択外にして、しかも時期的な偶然が、北の交易系との混血的な住み分けにも至らずに、ことばの営みもだからそれ自体として温存されてことば圏としての孤立性を保持して今日にまで至ってしまうということが生じてもちっともおかしくない。
 たくさんが渡来してきて、各地で持って生まれたことばの営みのくせを温存してしまうところは奏してきた一方で時期的偶然の中央集権化以後条件が、通用性の必要引力が働いて、方言的な個別性を育てる程度の変異をもたらすものの、共通性をもたせて列島でのことばの営みの一要素として各地が育む。
 人々の移動性の活発度に応じて、方言間での通用性の濃度は相当に変化しうる。

 それでも例えば、平板な土地にこそ碁盤目状の道路網は相応しいと想像したいのだけど、それはせいぜい京都に残しただけで、多くの脈々は、江戸のように、東京のようにやたら凸凹した土地に道や町を工夫してしまう。そして使いこなしてしまう。界隈を楽しんでしまう。
 多分、そこらは古代以来のなんらかのくせを未だに保持してそうだ。
 吉野ヶ里と江戸、そして京都や平城京跡、"藤原京"跡を高低差率を加重してカシミールほかで見比べるだけでもそれなりの感触を得られる。
 前後期難波宮大宰府辺りがどちら発想に近いかなど直ぐに気づけそうだ。

 『続日本紀』(講談社学芸文庫版の現代語訳)には、淳仁天皇(帝)が高野(孝謙)天皇と反目するに至る経過をセリフとして読めることを素人読書にて知ったところ。
 ごく近い時期に起きていた橘奈良麻呂事件とか政争の性質を見出せるのか?とか思惑込みで読んでいたところ、もう少し別の観点を持ち込めそうに受け取った。
 淳仁天皇の発言は儒教っぽい指標を濃くしているように素人は印象を持ったけれど、高野天皇の発言は、"帝"をこっぴどくとことばにできる現代語にて評価を下してる。
 当然、素人であっても原文=漢文でどういう語を使っているか程度は引用できることが要る。なので、もう少し先にて、ここらをもう一度ふれてみたい。