連載は続く~SF掌編『茶陽縁数』編


そう考えている、かどうかはともかく、ありがちな方(ほう)、と言えば、理路の網の目の大雑把さ、濃密さの(個々における)様々を一応想起しつつ、結構しっかりがっちり、(考えを表明するにあたっての)格子を用意してしまっていたりだ。
一方でどうにも困らせられつつ、事実(認識の内実・過程の問題については、実際的意味合いを外さずにお互いが認識し合えている程度を想起してもらえていればいいのでは)の推移、発見とかと付き合わされ、付き合いながら、脈絡をとりあえず、理路整然、とは行かないのにも関わらず、描くことに面倒くさがらない作業、ということも持ち出せる。

確実さへとたどる経路は、たとえテレビドラマであっても、物事の推移に語らせるタイプの場合、参考にできるものだ。(犯罪ものの場合、事実の群れ表現だと、ヒトの成す事々にうんざりさせるタイプがてんこ盛りとなって、確かに現実とはかけ離れた様だけど、そう描かれる趨勢を内包してしまう所を、心配してか、もう一方のヒトの希望的実践の辺りを涙とともにエピソードにされたり、同じ事実にも関わらず脈絡の置き方次第で見え方すらが変化して、ヒトやその関係性も捨てたものではないめいたニュアンスが充溢してくる横山もの刑事ドラマも列島ではお馴染みだ)

脈絡に語らせていくタイプとして、ここでは最近ずっと見ているモース刑事もの、ルーサー刑事ものを指摘できる。事実、そこで起きたことのどう犯罪とできるか、どう"許せるのか”、をめぐる追及過程の濃密が答えとなるような描かれ方で、それをできるだけ”誠実”にこなしてくれるなら御の字、のようなヒトの描かれ方だ。
犯罪捜査のプロの面は何処にでもいる人々のどなたかに過ぎない人が、犯罪捜査についてはしっかりこだわって事に当たってくれている(かどうか)。
サイエンスのことに寄せるなら、サイエンス手法にヒトが辿(たど)り着けたとして、そこでの、ヒトが成す脈絡が、見た目整然とすることがある場合も勘違いとしてありそうだけど、すったもんだとしがちな事態として押さえておいた方が、気持ち、心身に相応しい。

このことは科学が証明してくれているから・・・、という言明(げんめい)は、サイエンスの手続き上困った方に当たる。科学が証明してくれているという”冠”を付けることで自明となるわけがないし、話者が手続きを踏む中で、他者からのは疑問なりを何処(どこ)に指摘できるかを、話者へサイエンスの過程として示せる。

手続きを端折った場合、言い張る内容間で、お互い齟齬(そご)を指摘し合うことになる。

日常、マスメディア状況ではこのタイプが派手に起こりやすい。
揉(も)め事化しないよう(そうはことばにはしないけれど)持ち帰る手法が作法として採用されたりもする。(そういうものかね・・・、とか、なるほどぉ・・とかの表現型(けい)を例にできる)

確かさをめぐるヒトの試行錯誤が、サイエンス手法へと辿り着いているとしても、だから、それ自体としての未達成感もあるだろうし、それが熟したとしても、手法的試行錯誤は(ヒトということから来る)”観念系”ゆえ、続く。

面倒を避ける為に何々学会とか概念の落ちつきを保とうとする営為を指摘される向きもあろうかと思えるけれど、そこらは宗派タイプを貶める意味で使ったわけではない、ヒトの集団の営為を目論(もくろ)む官僚組織タイプの一つと捉(とら)えておいた方が無理(そこに正義とか確かさの根拠が自動的に生じるかのような無理)を生じさせないで済ませられる。

ヒトの歴史上の経緯から、多数派圧とか集団圧の工夫をなしてきたことへは一応の同情はひつようだけど、より”実体”に寄せた工夫を指摘できるならば、サイエンスの営みとヒトが広く採用させがちな官僚システムの営為とは区別できる思考が要る。

官僚システム化動機の底には、集団営為として、食っていくことを目論んだヒトの、資源を集めて目的を達する線での、特定の形(かたち)化として想起できそうだ。(農業とか狩猟採集とか漁業とか自らはしないで、そういう営みから資源を納めさせる工夫面)。素人的にはヒトのくせと見ている。
ここらはかつて歴史系の当時東大におられた山内氏がフーコー(氏)は公務員(だよ)と指摘されていたことを、学問素人の当方がどう”落ちつかせうる”か的刺激を得ての今の時点でのことば当てに近い。

ここまでの脈絡から簡単に指摘できることにふれる。
一応トップダウン方式をなんとか成していた、という前提。
トランプ氏は、某氏がなにかと戦争好きなことに嫌気がさして人事を動かせる力を持っていた。
氏は、キャラとして激しくことばを浴びせるタイプだ。
同様に交渉次第で物事を動かすタイプだ。
だから選挙中のことばの激しさは中国、イランへと伝わっている。
そして、ことばでいちいち表現はしないけれど、交渉次第の激しさという実質を理解し合える相手であることが、素人受け止めだけど外交上の確実さとして伝わっていたと推理させる。
しかも、政権のことば発信は、むしろ諜報戦を仕掛けてあう間柄という一種の当然の緊張を隠さず(だからここらは隠したい勢力には嫌われそうだ)、それでも軍系のことばとして、引くに引けなくするタイプの発信では決してないことを氏のキャラは留保させている。
同じメリハリであっても、その付け方にかなりの相違を持ち込める。
特定の支持層ということで一億人近くの表は集まりっこない!!!
だから票を、資金を集めさせる手法を採用させているとも言えるし、資金ということでは極端な格差ゆえに実質民主主義性を無効に誘いがちにしているのが実情ではないか。
でも票は嘘を付かない。票自体が嘘の場合を避けるのが選挙のはずが・・という懸案はあいまいに解決させられている。そこにふれないもう一方の言論がどうにもUS事情をつまらなくさせている。
もしもキャラの違う、各作戦をつい放置しがちにするタイプだったら、諸外国もことばの激しさについて交渉どうこうではないところで反応しそうだ。
なにごともだけど、きっかけとなる何かしらを持ち出す。置く。
それがたまたま作用しだす場合、その持ち出す、置く内容には予め相当な工夫が要る。
それ次第で反応の網の目がある程度制約的な形を帯びてしまうから。
ただ持ち出す方は、一歩も二歩も引いて、広く巷がどうそれをめぐって動き出すのかを見ていれば済む境遇の諸氏に違いない。
乱暴な手に出てしまう人々、集団の営みがあるかもしれないし、慎重にで着々との間にその隙を突かれてめいた事態も起こってしまうかもしれない。隙があれば、新規参入願望の様々が介在してきて、巷の日々の生業(なりわい)で精一杯な諸氏にとっては相当に迷惑なことになるけれど歴史的にはごく一時でもそういう趨勢もはびこり、消滅するを繰り返しがちだ。ただヒト集団は知恵を付けてきているしインターネットの偶然を使いこなすこともできる。
デモで騒ぐけれど、いまでも同じ土地でひどい目にあっている(とテレビCMで地道に宣伝されている)少数をどうして今のように騒いで問題にしてやれなかったの?とつい列島気質(かたぎ)(テレビドラマでも弱者、少数をつい応援して、騙されることもあれば、すかっとすることもあるなどなど)が少々煩くなる。

江戸期のある時期についてその偶然とかかけがえのない条件とかを想起できるかもしれない辺りを、コメニウス氏が通り過ぎた”歴史”から探れそうにも思えている。