冷戦的しくみは人々の考えを建前ことばに満ちるように仕向ける一種の(権力系による)いじわるだ。
ヒトはいつでも保守点検を怠ることはできない。生活持続のためだ。
ヒトはいつでも革新的な変化対応を工夫することを、嫌でも求められてしまう。忙しくなるので、普段、ちょっとばかり考えの外にしておこうとしているだけだ。生活条件は変化してやまないのだから。(単に日用品の経年劣化を考えるだけでもそうじゃないか)
ところが冷戦方式によるマスメディア利用の宣伝は、どちらかを取れというニュアンスをじんわり浸透させる方で働きがちだ。
否、そんなことだれもが承知しているさ、それを建前で骨の髄までしみ込ませているのはある種の優等生たちだけだよ。
たぶん、そういった当たり前の反応はありうる。でも、だ。
趨勢として、その冷戦方式の思考・ことばをあふれさせて、そちらに建前では態度を鮮明にと働き掛けられ続ければ、中には勘違いした狂信的なだれかたちも含めて、左中右がそれぞれ選択肢であるかのような、建前上の振舞いについ、うっかり誘われていた・・なんていう、冗談ともとれないようなことがまったく起こらないですむ、とかの話の方がうそっぽくなりそうに思える。
ヒトの個々に保守点検脳・能が働き、革新発想を持続させる活発さも醸成される。それらが個々の中で、あるいは人付き合いの相互性の中で、調整を得て、より個々にとって相応しい判断を呼び覚ます。
どこかのパーティに属すべし。なんでそれくらいできないの?それこそ民主主義だよ。
というような内容の新書もその昔、読めた気がするけれど、実は・・問題あり、だったんだよ。そうかなりの老人になって思える今日この頃。
地に足をつけてことばを持ち出せる諸氏に右・中・左の表看板を認めることができても、どの諸氏もそれは(国民国家の構成員諸氏に目配りの利くとかのニュアンスから)しっかりされている、と察する。
ただきれいごと風にまとめない方がよいという判断からもう少し。
正義の味方風に付き合い方を変化させれば必ず情報は入ってこなくなる。
"ワル"たちは、善人になろうとはしないままに、だけど、不良らしく、ヒトの弱さに通じて、同情心を失うことはない。だから、観察眼の一定の鋭さを発揮して、貴重な情報発信源になってくれたりがありうる。その際、仲間関係の度合を測る。大抵は同罪になるような共犯関係事件に誘っている。そうでなくても時に頼りになる関係でも、信頼は少しだけくらいなら保てる。そうやって話の伝達関係が成り立つ。
そういう昔はありえた。
今はどうか知らない。
ただし、正義っぽくふるまうことを選んだ中央の政治家諸氏においては、その制約を少しは頭に置いた方が参考になる。
それに、外交的な駆け引きでは、色々なニュアンスでことばを用いられる自由度が物をいうことがありそうだ。
そこをワルっぽくふるまってことば運用上の制約をあらかじめ拡張できることに成功していれば、駆け引きことばに、それなりの芸で応じることを可能にするけれど、正義ぶってしまうと、正論以外を持ち出すことを困難にする。そこらは、ごく最近の首相や外相らの発信のちょっと線の細井ことば使用に、素人なりに反応したくさせた。
政治家の振舞い方は工夫次第だと想像する老人だったりもする。