連載は続く~SF掌編『介護の未来のごく一面』編


 他人扱いと関わる話の書き手諸氏やそこらを目指す諸氏には介護現場での仕事担当に就いてみることを勧めたい。
 どういうことかというと、救急とか事件物ドラマの欧米版では、流血、呼吸困難など短時間での致死性要因を踏まえた対処も不可欠なエピソードに、それもかなり具体的な行為内容の示唆とともに演じられるのを度々目にする一方で、列島版では、以外に乱暴だったりする。
 介護現場で、仕事を長年こなしてきた人々に指摘されやすいのが、日常的感覚から、手早く、てきぱきとこなす動作についての指摘だったりもする。
 素早くこなせるに越したことはないけれど、日常感覚において近くに子供たちがいる場面で巷の人々、大人、若者たちが注意を促し合えるようなことを、介護現場では通常としているという感じだ。
 子供たちが近くにいる場合、例えが悪いぞとか言われそうだけど、飼い犬・猫が懐(なつ)いて寄ってくるように、さっと離れたかと思うと、すぐ次の瞬間には懐いた感じで、身を寄せてくるような動作が幼い連中には瞬時の身のこなしのようにして出現しがちだ。
 だから、大人たちの素早し作業動作であっても、子供たちが近くに要る場合、四肢の動きの範囲に注意アンテナを張ってぶつかったりふれたりしないような気を付け方が一般だ。
 それを介護現場では、お年寄り諸氏に限らず、現場でのだれかれがどう動こうが、万が一に備える普段の習慣的動作にしている。介護現場を知らない初心者にとって、意外に新たな気づきのようなことになる。
 素早い動作だけではなく、ちょっとした動作でもその範囲感覚を働かせられるように習慣化していく。
 そういう対他人感覚、観も、演じる動作へのイメージを湧かせるうえで相当に役立つ。
 そして先のことになるけれど、欧米流は対症療法発想を得意とするということで、流血して失血の致命傷を避けるなら、という筋ができやすい。列島版ではとかく浪花節のりを伴わせるので、その場への感情表現を書き込みがちにしてしまうようだ。すると手遅れのオンパレード演出にしがちになる。折角若者たちがそのドラマを見ているとしても、万が一の救急場面で、何が必要かの感覚を養いにくいままにしてしまう。
 失血か呼吸困難か(素人ゆえとりあえずこの程度しか指摘できないけれど、ほかにも典型的な致命傷となるかならないですむか対処可能な状況がありそうだ)、で両方かもしれないけれど、とりあえず片方しかない現場だとして、一方で救急通報、もう一方で、止血するとか(だから素人でも安全な処置のための知識を学ぶ気にする)、呼吸できるようなその確保の手法を、専門的以外のなんらかの代用を知識として持ち行使できる方へと誘う。
 そういう場面にならないとこれからはリアルを欠くことになる。ないし、残酷な見世物場面でしかないようなことになる。
 そこらを介護の現場で仕事を担うようになると、生な現場の経験として獲得できるようにする。
 大抵の施設では看護職もいっしょに働いているから、より具体的な動作や処置知見として得られやすい。そこから考え方も自ずから知れる場合もあれが、ことばとして聴いて知ることもできる。
 今時はAEDとか一般もできれば担ってね、という時期を経ている。
 だからたとえドラマの設定だとしても、それなりの感受性が働いた場面構成が要る。
 そういうことを介護の現場仕事から簡単に得られる。
 単に、介護現場の人材難の足しになるかもということで、宣伝しているわけではなくて、法律知識とか以外にもより多く知っておいた方が身に着けておいた方がドラマほか芸能で活かせるようにするという刑事・探偵ものドラマを楽しむに当たって、つい期待してしまう素人老人の思惑が働いている。

 少なくとも、氷河期の氷期突入に向けては、ないしそれ以前に食糧生産と円滑な流通を担う次世代諸氏には特にだけど、現役の諸氏には、グローバルに全体が参加してなんとかできるはずだのノリで、ロックダウンとかやってしまったけれど専制ノリを避けながら、実質を取れる巧みを発揮できる実力を養ってほしいものだ。
 新も旧も冷戦ノリの選択肢提出手法はヒトをばかにしている。結果的にいつも良いことはない。
 詰めれば、弁証法役割分担手法をできれば克服すべしのはず。
 ただ前回ふれたように、リーダーには正義で行ってもらいたい、と指示する方は期待するし、指示しない方は、どうせどこかでワルしているさ、とかおもっていたりするノリを世論誘導作法は19世紀以来作ってきてしまった。そこらを違うステージにすることはできそうだ。
 そうだとしても、ヒトは雑然と活きざるを得ない面のリアルをゆるく共有できるようにすることで、どつぼにハマる関係性の失策とかを個別には避けさせるようにするだろうし、大局では、話を戻して、妙な役柄を演じなくても、今風の軽さを表現してしまってもそれなりに仕事をこなしやすくできると察する。悪ぶらなくても、ということ。
 それでも、巷での役柄分担っぽい関係性のからみは生じやすいままだろうし、そこに、どういうところの重心が発生しやすい人格たちがごいっしょしているかが相当に関わる。
 芸能ノリというかやらせのりが大人による子供利用のようなことをかつて流行らせたその余韻が伝承の形を取って、多少今でもヤバヤバな大人世代へとつながっているはずで、そこそこ安定して、普段は平穏も確保可能ということで、呑気にしていられる巷に関われる人格の多数派構成がなり易いかどうかは、その(やらせ部門だからそれなりに生活力を持っているかなりたくさんの人々である)ヤバヤバな気持ち系諸氏の生き方次第のところもありそうだ。

 老人の今時観察から、言ってみたいのだけど、たとえば、介護が要るくらいに身体がフレイルっぽい方へ傾いたとかの状態になって、食事配達を頼めればそれは大変に助けになる。
 その場合、その費用を自らの裁量にしておけるかどうかは、それまでの稼ぎ次第の所がある。
 だから、季節ごと採用とか色々今時の現役諸氏においてはご苦労が多いとは思うけれど、とりわけ若者諸氏においては、そういう費用を稼いでおく程度のことも目標の一つにできるのではないか。ちょっとセコイかな、老人だから、そう指摘したくなるだけかな、とは思うのだけど、ほかにも、今時の趨勢でそこそこの値段追加で迅速配達してくれて、衣食住のなんらかが補えるならば、施設介護に"賭ける"とかのリスクのなんらかを抑えておけそうにも思えるし、裁量を自立的にさせたままの状態でのギリギリ晩年までの住み慣れた我が家での生活もなんとかこなしうる諸氏がそれなりに可能になるようにも思えたりしている。施設介護に委ねると、這いずり回ってでも自前で、は間違ってもさせてもらえないので。