連載は続く~ SF 掌編『ヒトの観念をコネる練習』編


 生き物たちにとってのホメオスタシスに似てかどうか、氷河期における趨勢としての気温の変化へ関わる自然系の要素群も相互的な連関を以て作用しあって氷河期らしくふるまっているとヒトにとっては感じ取れるような変化を誘い続けている。いつかはそこに別の系が関わってか、その趨勢ゆえにかで、別のサイクルへと誘われることになっている。
 その氷河期における氷期間氷期氷期の変移は、独特のようで今のところの知見から押さえられることは、サイクル上の最終氷期から間氷期への移行期の急激な温暖化を経て、その後の推移の中で、ある種の温暖化の時期を経ることになっているようだ。
 そのことが北の氷河を溶かして、海水の動きともかかわる温度変化を生じさせて、無事に通常の移行を遂げる。
 だから今の趨勢が人為ゆえか、自然のホメオスタシスっぽい方での自ずからの現象なのかの見極めは難しそうだけど、それなりの見通しは必要そうだ。
 1万年前ほど温暖化はしない(当時のとんでもな海進の再現はない温暖化)けれど、今のかなり溶けた状態での北の氷河が多量に溶け出す程度には温暖化してくれないと、いつまでもだらだらと間氷期なのか氷期突入なのかわかりにくい気候状態が続いてしまう。
 通常なら劇的にちゃくちゃくと氷期へと突入するし、それなりの現象を経験できることになっている。
 だからヒトの観念系にとっては厄介な事態となりそうだ。
 温暖化してるんだから、とその線で心配したがってしまうはずだ。
 氷期を心配するのは膨大量ではあっても相対的に少数派の人々が氷期突入を知見上心配できる。多くは対症療法よろしく、温暖化に備える方で心配しまくる。
 そういう数十年から数百年間を経て、確実に氷期へと移行してしまう。
 つまり啓蒙メディアのマスメディアがどう知見を提供しようが、進行中の体験中の気温上昇がちでそれゆえの自然現象から得られる様々に人々は翻弄されがちにして、温暖化だけど氷期への備えを着実にね!とどれほど丁寧に、親切にいつかは訪れるその時に向けて長い目で見た準備へと促しても、五月蠅がられてしまう。とんでもな話と取られることだって珍しくなさそうだ。でも、温暖化不可避の氷期突入経路だったりする。
 土地にもよるけれど、温暖を保つためのエネルギー消費が迫られる場所がより多くなる。
 しかもその条件がよりきつくなりながら、更に、更にの趨勢が、時に温暖化を混ぜながら、確実に進行していく。温暖な時期、ヒトにとっては免疫系も活発で、元気に活動しやすい時期になんらか準備を構想しておけるだけでも貴重な気がする。


 そうはいっても、株とか雑多にカジノ系のお金の動きが余力を肥やしてインフレ源となってそうなのに、中央銀行金利の操作でそこらへ対処しようとしているのだから、皮肉な事態が、氷河期への工夫そっちのけで当分は続いてしまいそうだ。
 各国事情によってそれへの依存の度合いは様々だろうから、言い分もそれぞれ異なってしまう。でも、多くがなんらか金融商品を介しての利殖依存に寄りかかっている部分を持っていそうで、文句を言ってどうなるものでもないしなぁ・・といった感じだろうか?


 今ほど余力を傾けやすい時期はそうありそうもない。けれども、すでに使い道の惰性を各所で生じさせていて、準備のための方には、良くてその次ね、くらいの感じで動いているように素人老人には伺える。
 それくらいヒトの集団の営みは不可抗力に満ちていそうだ。
 そして、古代も現代も、同じように集団化しての巧みと個々の尊厳を大事にし合う工夫とを様々に試行錯誤してきた。時代時代の制約の性質が、可能性についての具体性をもたらしやすい。だから土地土地でも異なってしまうとしても、古代ならその時期の制約がで可能性における選択肢のいくつかを提示していたろうし、そのどれを選んできたかでなら現代の視線からでも評価できそうだ。
 自発性を基礎に自律的集団の営みや個々の試行錯誤可能ゆえの、発明発見や技術開拓などを伴わせうるのに、思いはそうだとしても忖度(そんたく)のくせを発揮して、趨勢に付き合うっぽい、結果集団の営み内部に自発性のかけらもなくなるような事態も起こりえないわけではない。
 一方で、家族規模から抜け出して、ある巨大集団を営むことで成る様々を経験できたり構想できたりするヒトが、そういう理念が形となりうる実際のつながりを応用できるようにするまとまりを平穏にもダイナミックにも維持していけることは、実は相当に古代も現代も難しいことを、この現代において、経験中だ。
 ごく短期に力づくでまとめることは、無理強いということで可能であっても、集団の持続性ということでは、逆の効果となってしまう。
 自発性基盤の上での試行錯誤ということにできるだけ寄せられることが、より成功へと導きやすいことは経験知と見なせそうだ。けれども、実際にとりかかると現代はその難しさに直面させられてしまう。
 とはいえ、一応の税の制度を事例にできるくらいには、信頼を確保できて、集団の営みの持続性を発揮できている、くらいの指摘が可能なくらいの熟成はこなしている。
 ところが、20世紀の後半の途中でのかじ取り後の基礎的経済の営み上の手法の副作用ゆえの言うに言えない不具合を囲って、とんでもな事象と付き合い続けるようなことになっていそうだ。
 どっぷり巻き込んでしまった世界の経済の営みを相手に、いかに変化を誘い、もう少し上手く運転しやすい方へと落ち着かせることは可能か?どうか。


  川柳もどき

   世の中をたとえるなら 大根の二様かな
    おろしとたくあん漬け一本(すったもんだ)

   ヒトが転びやすいのは 重心が高いから
    低く構える ことを考えただけで疲れそう
    ヒト以外なら いくらでも 工夫できるかも

   介護用歩行車(器) 時に座れる
    重心 高そう 車輪も小さいし・・